8-6 親子
その日の早朝。 新国王クリスの執務室へ、長年の影であったタチバナが、一人の見慣れぬ青年を伴って現れた。
「タチバナか。あの喧嘩以来だな」
「そうですわね陛下。およそ三ヶ月ぶりでしょうか。ご機嫌麗しく・・・」
「陛下はやめてくれ。ところで顔を見せてくれた、ということはまた私のところで働いてくれるか?」
俺とお前の仲ではないか、と言いかけたが以前のやり取りが鮮明に蘇り、言葉がうまく出なかった。
「陛下、私は本日をもって、陛下の下からお暇を頂きたく、お願いに参りました」
「暇、だと?やはり以前のことが・・・」
「いいえ、陛下。私ももう良い年齢でございます。顔にはシワがありますし身のこなしも若い時ほどではありません。もう陛下のお役にはたてないと思います」
「そうか」
「そろそろ一線を退き、人目を避けて、静かに暮らそうと思います」
「そうか。お前の人生だ、自由にせよ。ところで後ろに立っている青年は初めて見る顔だな。そなたは、どなたかな?」
「はい。わたくしの一人息子にございます」
タチバナの言葉を聞き、その青年の顔を凝視した瞬間、クリスは言葉を失った。説明など不要であった。この青年は、紛れもなく「自分自身の息子」であった。かつてタチバナが腕の中で告げた「十七歳の息子」という言葉が、今さらになって脳裏へ蘇った。冷徹な目元、鼻筋、佇まい。かつて冷酷な智謀を振るっていた若き日の自分自身に、不気味なほど酷似していたのである。
深い沈黙の後、クリスは低く呟いた。
「そうか。そなたが、な」
クリスは、かつてないほど寂しそうな表情を浮かべた。タチバナは静かに視線を落とし、頭を下げた。やがて傍らの息子を確認し、言葉を継いだ。
「私の代わりに、もしよろしければ、この我が子を陛下の側近としてお試しください。幼い頃から、この子にはクリス様から学んだことのすべてを叩き込んでまいりました。何の役にも立たない無能であるならば、その場で首を刎ねていただいて構いません。どうかご検討を」
「わかった。考えておこう」
二人は静かに退出していった。王宮を辞した後、タチバナは息子へ穏やかに微笑みかけた。
「これで、あなたも父親の側で生きられるわ」
「母上は、私を父へ引き渡せば、それで十七年間の役目を果たしたつもりですか?」
「何を言っているの?」
「私を捨てたことさえ、もうお忘れなのですね」
「捨てたわけではないわ。あなたを安全に育てるため、あの家へ預けたのよ」
「安全に・・・ですか」
「ええ。あなたももう大人でしょう。過ぎたことより、これからの人生を考えなさい」
「・・・分かりました、母上。私ももう大人です。この後のことは考えてあります」
翌日、青年は一人で王宮に出向き、通行許可証を示してクリスへ面会を申し出た。一刻ほど待たされた後、青年の名が呼ばれた。報告を受けたクリスは、自らの血肉を分けた息子との対話を望み、近衛兵を全員下がらせる完璧な「人払い」を命じていた。それこそが、クリスが心の底から望んだ親子の時間であった。
「タチバナから聞いている。私は、どうやら君の実の父親らしい。その事実は君も知っているか?」
青年は、氷のように冷たい無表情のまま静かに答えた。
「はい。重々、母から聞いております、陛下」
「そうか。一人で私に何の用かね?」
「陛下に、いいえ、始めてお会いする父上と打ち解けて話をしてみたいと思いました。」
「そうか、私もこういうことは始めてだからな、何をどう話したらいいかよくわからない」
「はい、私も、でございます。でも少しづつ十八年間の空白を埋めたいと思います」
こうしてクリスは警備兵に青年を紹介し、特別に通すように命じた。ただし、まだその青年が自分の血を分けた息子であることまでは伝えなかった。
そしてこの日より七日間程、クリスは青年と様々なことを話した。タチバナのこと、帝国のこと、これまでの戦争のこと、青年にとっては叔父と叔母にあたるジュリアンとクロエのこと、そして王国の国内や貴族、平民、奴隷などのこと。しかし様々な話の中で貴族や教会、奴隷などについてはクリスと青年では度々意見が食い違った。
「陛下、いや、父上。なぜ王国の貴族制度を破壊したのですか?」
「それは、必要と感じたからだ」
「王国の貴族制度は、王国建国時に多大な貢献をした者たちの末裔です。血統には価値がない、ということでしょうか?」
「血統そのものに価値はない。建国に貢献したのは、先日までいた貴族ではなく、今は亡き祖先たちだ。ただその子孫に生まれたというだけで、祖先の功績まで受け継げるものではない」
そしておよそ七日間程青年はクリスの元に通ったが、八日目の朝、タチバナと朝食を共にしたときのことだ。
「母さん、今日も父上の元へ行ってきます」
「そう、役に立つのよ」
「役に?いいえ、私はそのようなことは考えておりません。単に父上のお考えを聞きたいと思うだけです」
「何を言っているの?あなたはクリス様と一緒にこの国を作り、背負っていくのよ」
「いいえ母上、王国を背負うのは私一人で十分です」
そういうと青年はタチバナの首に右手を伸ばし、タチバナを釣り上げた。タチバナは驚いた顔で最初はその拘束から逃れようとしたが、すぐに息子の表情を見て身体の力を抜いた。王都の上空には黒く分厚い雲が垂れ込め、しとしとと静かな雨が降り始めていた。
冷たい雨の王都を歩く青年の瞳には、異常な光が宿っていた。青年はつい半刻ほど前、自室で実母タチバナの首を絞め殺し、その亡骸に対しても常軌を逸した冒涜行為に及んでいた。その凄惨な記憶を胸に秘めたまま、王宮の門をくぐり、通行許可証を示してクリスの元へ出向いた。とある書類とブライトン青年から渡された短剣を胸に秘め、青年は決意を固めていた。
クリスと面会した青年はクリスに挨拶を行い、クリスが青年に質問した。
「君はどんな少年時代を過ごしたのか、聞かせてくれるか?」
青年の顔が僅かに歪んだ。
「私の少年時代ですか?私は父の顔を知らず、年に一回ほどしか来ない母をずっと待っていました。養母はろくに食事も与えてくれず、夜に養父が帰ると酒を飲み、私に対して性的な暴行を繰り返しました。それを知っても養母は私を助けようとせず、泣いている私に言いました。泣かないの、男の子よね。タダ飯食べてるんだから養父の言うことを聞きなさい、と。私はずっとお母さん、と言って泣いていました。」
「・・・そうか」
クリスの細い指が、膝の上で僅かに震えた。幾多の惨事を冷静に処理してきた男にも、我が子の口から語られる地獄だけは、平然と聞き流すことができなかった。
「友人の家庭が、特に友人の母親、父親が羨ましくてたまらなかった。帰宅しても誰もいない食卓。近隣の農場で暗くなるまで泥だらけで働かされ、横目の公園では友人たちが親と団らんしている。仕事はいいのです。だが養父母が実の親であったなら、と。そしてようやくお会いできた父上は、国王となっていた」
「養父母は、お元気なのか?」
「はい。神の元で平穏に暮らしております」
「そうか」
その言葉の意味を、クリスは即座に悟った。恐らく養父母を殺したのは・・・。だが、初めて顔を合わせた息子へ、それ以上問いただすことはできなかった。
青年の目は涙で溢れかえっていた。ある冬の寒い日、酒に酔った養父から再び暴行を受けそうになった瞬間、青年は隠し持っていた短剣で養父に重傷を負わせ、庭の薄氷が張る池まで引きずり出し、突き落とした。帰宅した養母もそのまま池へ突き落とし、冷たい水の中で呼吸を奪ったのだった。
自分を見捨てた実母タチバナ。そして、白髪の混じった目の前の実父・新王クリス。 青年の中に、激しい憎悪が溢れ出した。
「陛下は、父上は、母上を心の底から愛していらっしゃいましたか?」
クリスは一瞬だけ目を細め、暖かな確信を込めて答えた。
「当然だ。タチバナは、私の生涯において唯一無二の存在だった」
「そうですか。母は愛されていたのですね。ありがとうございます。きっと母も喜んでいることでしょう」
「そうか。お前がそう言ってくれると救われる」
「陛下。たった一度で構いません。私のこの肩を、あなたの両腕で強く抱きしめてはもらえませんか? 私は物心つく前から、父親に抱きしめられたという温かい経験が、ただの一度も存在しないのです」
「もちろんだとも」
クリスは一切の警戒を解き、愛おしい我が子へ歩み寄り、その細い肩を優しく抱きしめた。その瞬間、クリスの胸に鋭い金属の刃がめり込んでいった。
ズスッ・・・!!
「がはっ・・・!!」
青年の袖口から滑り出た短剣が、クリスの胸へ深々と突き刺さっていた。
「そうか。これまで、多くの人々の血を冷酷に流させてきた私の血も、これほどまでに赤いのだな」
青年はクリスを冷酷に突き放し、床へ倒れ込む父親を見下ろした。
「母を愛していたという言葉は嘘だ。愛していたなら、私があの家で苦しみ続けることもなかった。父上ほどの権力者と、王国最高の工作員である母上なら、私を見つけて救うことなど容易だったはずだ。それをしなかった。ならば、お二人は私が苦しむことを無視していたのです。実の息子にすら真実を語らず、最後の瞬間まで白々しく取り繕い続ける。どうか今すぐ神の元へ召され、その冷酷な罪を詫びてください。母上が先に向こうで待っております」
「そうか。タチバナが待っているなら安心だな」
それが、稀代の怪物クリス・ギャロットが遺した最後の言葉となり、その四十五年間という短い人生の幕を閉じた。
青年は力を失った父親を床へ横たえると、懐からあらかじめ用意していた二通の書類を取り出した。クリスの親指へインクを塗りつけ、その指を紙面へ強引に押しつけた。
それは、クリスティ・ギャロットが実子を唯一の後継者と定め、王位と国王大権のすべてを譲ると記された、偽造の譲位証書と、王位継承は新王国において世襲とする、という書類であった。




