喧嘩
すみちゃんの声を無視しているのか、はたまた聞こえていなかったのか、橋野さんは何も気にする素振りを見せず、普段では聞くことのできない甘い声を出す。
「ね〜え、いいでしょ依吹ちゃん。今フリーなんだから問題ないでしょ」
白葉ちゃんは身震いをした後すぐに小夏の目を手で覆った。
小夏にどうしたのか聞かれてもはぐらかしているので、なんでだろうと視線をずらすと、橋野さんにバレないようにか、手を振るわせながらも力を入れないように耐えながら、笑みが一切消えたすみちゃんがじっとこちらを見ていた。
私も白葉ちゃん同様に思わず身震いした。おそらく、人を見て恐怖を感じたのは初めてだろう。
「どしたの依吹ちゃん?」
「いや、なんでもございません」
「なんで急に敬語? 依吹ちゃん面白〜い」
橋野さんは子犬のようにヘッヘッヘと肩を小刻みに揺らしながら独特な笑いを響かせた。
その笑いを吸い取るように、すみちゃんは深く長く息を吸い、浅く短く息を吐いた。
それを見て思わず白葉ちゃんと顔を見合わせた。
「えっと、その、好いてくれたのはすごく嬉しいんだけど、本当に好きな人としか付き合わないって約束したから、その、ごめんね」
「え〜。わたしのこと嫌い?」
「そんなことないよ。橋野さんは明るくてフレンドリーで優しい人だから。嫌いになんてならないよ」
「じゃあ好きってこと?」
「そう……だね」
「じゃあ付き合おう。好きならその約束守ってる事になるじゃん」
橋野さんは急に上体を屈め、上目遣いになる体制で私の顔を覗き込んでくる。
急に虚空に晒されたすみちゃんの手は握り拳を作り、その場で振るわせていた。
「え、いや……」
「そもそもこの世のカップルのどれくらいが両思いで付き合っていると思う?」
「えっと、その……」
「大半はノリだよ。だから皆簡単に別れるんだよ。付き合いながら合う合わないを模索するんだから、そう深く考えずにとりあえず一旦付き合ってみようよ。友達の延長線上って言ってたし、どうせ依吹ちゃん、大して恋人とすることしてないでしょ。だったらわたしとしてみようよ。損はさせないよ」
そろそろすみちゃんが限界だと感じたのか、ようやく白葉ちゃんが口を挟んできた。
「そもそも何で橋野はいぶっちゃんと付き合いたいの? 好きなの?」
「え? まあ好きだよ。興味半分、残りの半分は話題と不満。周りは別れたりマンネリで面白くなくて。わたしもわたしで最近魅力的に感じる男子がいないし、変な噂回ってるのか告ってくる男子もいなくてつまらなくて。こうなったら女の子と付き合うのも割とありかなって。で、付き合うなら経験ある依吹ちゃんがいいかなって。依吹ちゃん良い子だし、下手な男と付き合うより満足させてくれそう」
たぶんすみちゃんは、今回限りであって、今後一生その目を橋野さんに向けることはないんだろうなと思う。
「それはいぶっちゃんに失礼だよ。都合良く利用しているみたいで不愉快なんだけど」
「は〜? 入雲だって告ってきたやつの顔がそれなりに良かったからってだけで全く知らない奴と付き合ってたくせにそれ言えるの?」
「は? 今関係なくない?」
「恋愛観の話なんだから関係あるでしょ。前から思ってたんだけどさ、自分の意見が正しいみたいに横から入って価値観押し付けるのやめてくれる? 今は依吹ちゃんと話してるんだけど」
「いぶっちゃんの優しさに甘えて無神経な事ベラベラ喋ってるんだから口出しするに決まってるでしょ」
「おぉ、おぉ〜、今どうなってるんだ? 大丈夫なのか?」
白葉ちゃんに目を覆われていて様子を伺えない小夏はずっとオロオロして一生懸命状況を把握しようとしている。
私もあまりヒートアップされて二人の仲が険悪になるのは嫌だから、仲裁に入る。
「落ち着いて二人とも。喧嘩は良くないよ。白葉ちゃんありがとう、私の為に色々言ってくれて。私は特になんとも思ってないから大丈夫だよ。橋野さんも落ち着いて。私は橋野さんの考えも尊重するから」
「いぶっちゃん知ってる? 世の中には甘やかして良い人間と悪い人間がいるんだよ。こいつは悪い人間」
白葉ちゃんは橋野さんを煽るように、指しながら小馬鹿にした言い方をした。
「知ってる依吹ちゃん? 世の中にはね、本当の正義と、正義と勘違いしているピエロがいるだよ。こいつは後者」
橋野さんの嘲笑しながらの言い方に、白葉ちゃんは笑顔を浮かべてキレた。
「表出ろや橋野〜」
「もう出てるよお馬鹿さん!」
お互いの手に力を入れながら握りしめ、押し合いの喧嘩にまで発展してしまった。
私は思わず、やってしまったと強めの力で自分の額を叩いた。
「な、何やってるんだ二人とも! 落ち着くんだ二人とも!」
小夏は急いで私のジャージから出て、その小柄な体型を活かして物理的に二人の間に入った。
「落ち着け! 依吹っちの為に争うな!」
「小夏はちょっと向こう行っててよ。関係ないから。用があるのはピエロだけ」
「こなっちゃんに指図すんなよ橋野。いつからお前は偉くなったんだ?」
「少なくともあんたよりかは偉い人生を送ってきてるよ」
お互い舌打ちを混じり合わせながらの言い合い。その気迫に気押され、思わず少し退いた。
そんな私の横にすみちゃんが立っていた。
「いぶのせいだよ」
「ごめんなさい」
「いぶがさっさときっぱり断っていればこんな事にはならなかった」
「はい……」
「私だって死ぬほど苦しかった」
すみちゃんは私の手を取って、自分の胸に触れさせる。柔らかく、でも硬い感触の奥では、私よりも何倍も早い速度で鳴る鼓動が、私の全身を駆け巡ってくる。
「これもいぶのせい」
「面目ありません」
「罰として、今度デートして」
「喜んでお受けします」
「デートだから、キスしていい? 感情、隠さなくていいってなってから、同時に制御も効かなくなってきて。どうにかなりそうで。だからせめて、キスしたい。そしたらまた、我慢する」
すみちゃんは顔どころか耳、首、手指まで真っ赤にして、真剣な顔で真っ直ぐ私を見つめている。
「……すみちゃんが辛くならないなら。後悔しないなら。罪悪感のないキスなら受け入れる」
表情筋を引き締め、すみちゃんの目を真っ直ぐ見てそう口にする。
すみちゃんは軽く息を吐いて、そっと微笑んだ。
「約束。必ず守るから、いぶも守って」
「もちろん」
すみちゃんは人差し指で私の唇に触れながらウインクをし、喧嘩している二人の方に歩み寄り二人の肩に手を置く。
「二人とも、やめて」
「純蓮には──」
「聞こえなかった? やめてね」
すみちゃんの方を見た三人は顔面蒼白になって一気に意気消沈していき、小夏を中心に軽く抱き合いながら後ずさっていた。
一体何が起こっているのか……。
戻ってきた小夏は私に前から抱きついて鬼が出たといい、白葉ちゃんは後ろから抱きついて蛇が出たといい、橋野さんは蛇に睨まれた蛙のようにすみちゃんの話を聞いていた。
本当に、一体あの短い時間で何があったのだろうか……。とりあえず、すみちゃんを怒らせるのだけは絶対にしたくない……。




