136話 血の流れない戦場
◇◇◇
――店内に19時を告げる鐘が鳴る。
この空間にとっての一日の始まりを告げる、軽やかで涼しげな鐘の音。それと同時に早速予約客が1組店内に招き入れられる。
「エンリケ様、本日も当店にお越しいただき誠にありがとうございます。お席へご案内する前に、予めお伝えしておかなければならない事がいくつかございまして……」
そう前置きをして、案内係の青年は説明を行う。オーナーシェフであるミゲイロが本日は料理を行えず、S級冒険者である『三食おやつ付き』が料理長を代行する事。当店の優秀な料理人が補佐をするので、従来通りの味は保証するが、万が一満足いただけない場合、お代は頂かない事。次回来店の予約は昼夜問わず優先して行う事。
説明を受けた客は顎に手を当てて『ふむ』と呟き思案するが、ここまで来てしまっているうえ、考えてみると客側のリスクは極めて低い事を理解してそのまま席へと招かれる。
「今日のコース料理はこちらでございます。ワインのお勧めは――」
コース料理を眺めて、エンリケと呼ばれた富豪は満足げに眉を動かす。
「ほぉ、今日の魚料理は銀鱗魚か。こりゃツイてるわい」
ヴァネシア湾沖合で獲れる透けるような銀色の鱗を輝かせる希少高級魚だ。滋味と旨味の詰まったその白身は、口に入れると溶けるようにほどけていくが、それは焼き入れの時点でも例外ではない。少しでもタイミングを間違えれば鱗のように硬くなってしまい、その食感は損なわれる。熟練の技が試される食材。
銀鱗魚が好物らしい富豪は、不安そうな視線をチラリと案内係に送る。だが、青年は一切の迷いなくニコリとほほ笑む。
「ご心配は不要です。最高の料理でおもてなしさせていただきます」
深々と一礼をして、青年は厨房へと向かう。
「エンリケ様ご来店です、先付けお願いします!」
「了解、できてるぜ」
厨房台に置かれたのは純白の小鉢に盛られた先付け。今日は『風の精霊の雲隠れ』高地の断崖に生える香りの強い香草・『風霊草』を細かく刻んで、ムースにしたものだ。雲のように口の中で溶けると同時に、春風の様なさわやかな風味が鼻を抜ける一品だ。
例外的な一日の最初の一皿。それを誰が最初に食卓に届けるか。答えは当然決まっている。数人いるサービススタッフの視線はシーラに集まる。
「シーラちゃん、頼んでいい?」
マヤと呼ばれた女性スタッフがそう言うと、シーラは当然とばかりに頷いた。
「もちろん」
「シーラ!」
前菜の準備をしながらリューズが振り返る。
「今日だけはいつも通り接客するんじゃないぞ。お前は……、シルフィーナさんにちゃんと教えられているはずだ。それをみんなに見せてやれ」
愛する母の名を聞いて、シーラはにっこりと口角を大きく上げて笑う。
「へへ、わかってる」
その笑顔は、『黒姫』の異名と逸話しか知らないスタッフを困惑させるのに十分なものだった。
――そして、シーラは二人分の先付けを右手に乗せてテーブルへと向かう。
瞬間、エンリケもその同伴者である彼の妻も一瞬で目を奪われた。
歩き方ひとつで気品が伝わるような。音もなく、ブレもなく、この世界では極めて珍しい黒髪を揺らしながら、シーラは柔らかな笑みを湛えながら彼らのテーブルへと近づいていく。
テーブルの前に着くと立ち止まり、シーラに一拍遅れて髪が揺れる。軽く一礼をしてから、エンリケの目を見て小さく微笑む。
「大変お待たせいたしました。こちらが先付け『風の精霊の雲隠れ』でございます」
「あ、あぁ……。ありがとう」
次いで、妻にも同様に食事を提供する。
「それでは、ごゆっくりお過ごしください」
深々と頭を下げ、シーラは厨房へと戻っていく。
最高の料理の一品目が運ばれてきたにもかかわらず、二人の視線はシーラの後ろ姿と揺れる黒髪を追い続けていた――。
◇◇◇
「運んだけど」
事も無げにシーラが厨房に戻ってくると、サービススタッフたちはワッと声を上げてシーラに駆け寄っていく。
「シーラちゃんっ!すごすぎるっ、なんなのアレ!?綺麗すぎる!美しすぎる~っ!」
「は?こわ」
圧倒的な熱量でシーラを絶賛するマヤ。シーラは眉を寄せて一歩距離を取る。
「いや……でも、本当にびっくりしたよ。まず敬語使えるのかどうかすら心配してたんだけど」
「使えるに決まってる」
「次あのテーブルに料理運ぶの嫌だなぁ~。絶対比べられる~」
シーラの仕事の一部始終を見ていたサービススタッフの感想が超気になる。当然できないとは思っていないが、そこまでの反応が出るってどういうこと?気にはなるが、手を動かす。続くは前菜・『氷晶鳥の冷製パテ』。ジドキラ山脈に生息する『氷晶鳥』のレバーを低温でじっくり調理したパテに甘酸っぱいブルーベリーソースでアクセントを付ける。
俺の一挙手一投足をミゲイロさんは険しい顔でずっと監視している。口は出さない。一度だけ味見をするが、その感想も告げず、ただ見守っている。
ここまではまだ客が一組だった。
時間が経つに連れて、次の予約客、その次の予約客が店を訪れる。すると、いくつかの料理を並行して行わなくてはいけなくなる。一つのズレが全体にかかわる重大なトラブルになり得るのだ。
「ワーゲンさん!三卓、スープ料理!お願いしていいか!?」
「了……解です!五卓様の前菜、準備どうですか!?」
「悪い、もうちょいだ」
厨房はまさに戦場の様相を呈する。だが、この空気は厨房の外には決して持ち込むべきでは無い。
厨房の真ん中に設置されたボードに各テーブルのコース進行表が書かれている。一番最初に入店したエンリケと言う客のテーブルは次が魚料理。今日の魚料理は『銀鱗魚のポワレ』。希少高級魚であるため今まで実際に調理したことは無かったが、溶けるように口内で消える繊細な柔らかさは、調理するうえではデメリットになると読んだ事はある。そして、6時間の特訓でその意味を身に染みて思い知った。
多めのオリーブオイルを浸したフライパンに、銀鱗魚のフィレを皮を下にして丁寧に油に下す。身の柔らかな銀鱗魚。乱雑に油に入れればその時点で身が崩れだす。そうすれば、その後の焼き入れに耐えられるはずもない。
視線をフライパンに近づけて焼きの状態を確認する。油が顔に、目にはねるがそんなものは関係ない。俺は神癒で不老不死だ。そんなものすぐに治る。
香ばしい香りが立ち上るとともに、油の色が少し濁ったので紙で吸い取る。臭みが溶け出した油が魚に戻らない為だ。
再びオリーブオイルを足す。皮がどのくらい焼けているか、視覚で確かめるすべはない。パチパチパチと油が小さく爆ぜる音。これが小さくなったら皮がカリカリに焼けた合図。
さぁ、ひっくり返そう――。
と、手を動かしたその時、後ろから怒声が響く。
「早い!」
「はいっ!」
開店してから初めてミゲイロさんが発したその一言に、俺の五感はさらに鋭敏になる。耳を研ぎ澄ます。確かに。まだ早かった。そして、一秒、二秒、三秒、四秒と経過して俺はフィレを裏返す。皮はきれいな焦げ目がついていて、見事にカリカリに焼けていた。
ほどなくして、魚料理『銀鱗魚のポワレ』が完成。
「魚料理、提供お願い」
「ん」
疲労困憊の俺とは対照的に涼しげな顔でシーラは料理を運んでくれる。
厨房のボードを見つつ、次に作るべき料理を確認。
そして、しばらくしてサービスの青年が困惑した表情で厨房をのぞく。
「あ、あの……。エンリケ様が、料理長を呼べ、と」
「え」
料理の手を止めて間の抜けた声を出してしまう。一瞬ミゲイロさんを見そうになるが、今日の料理長は俺だ。
段取りを確認して、他の五人に引き継ぎ、俺は厨房を出た。




