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四十一幕 強行軍



 「………………………」

 右(ゆう)扶(ふ)風(ふう)郡(ぐん)太(たい)守(しゅ)・鮑(ほう)鴻(こう)は伝令からもたらされた指令を聞いて呆然とした。

 指令の差出人は漢(かん)軍(ぐん)を指揮する総指揮官。左(さ)車(しゃ)騎(き)将(しょう)軍(ぐん)の皇(こう)甫(ほ)嵩(すう)である。

 四月十七日。

 鮑鴻は董(とう)卓(たく)から指示されていた軍備を整えた。

 汧(けん)城(じょう)を救援するため先行した董卓率いる一万五千の漢(かん)軍(ぐん)。その援軍として右扶風郡をあげて一万六千の兵力をかき集め、いよいよ汧城に向かおうとしていた。

 その前に、総指揮官である皇甫嵩にも出陣の報告をした。ただそれだけのはずで、皇甫嵩からは董卓の横暴な態度に労いの言葉が返ってくると思っていた。

 しかし、蓋を開けてみれば、皇甫嵩からは労いの言葉どころか、新たな、困難な指示が届いたのだ。

 『五十名で山中を突破し、涼(りょう)州(しゅう)の隴(ろう)西(せい)郡(ぐん)太(たい)守(しゅ)・李(り)相(そう)如(じょ)に伝令を行うように』

 「こ、皇(こう)甫(ほ)将軍は、私に死ねと仰るのか?」

 鮑鴻が呆然としながらそう呟く。

 太守府に集まっていた槐(かい)里(り)県(けん)県(けん)丞(じょう)の左(さ)彪(ひょう)が眉間にしわを寄せた。

 「伝令。山中を踏破し、隴西に向かえとは、どういった意図があるのか」

 伝令は視線を彷徨わせながら答える。

 「は。汧(けん)・隴(ろう)を通らずに、隴西太守に連絡を取りたいと。上(じょう)洛(らく)軍(ぐん)に見つからぬように隴西に向かうには山中踏破しかない。そのようにお考えになっていたようです。洛(らく)陽(よう)から来た将軍たちよりも、現地の事情に精通しているであろう、太守様にしか頼めない、と申しておられました」

 伝令の言葉を聞いて、左彪は顎を撫でた。

 「なるほど。では、陳(ちん)倉(そう)に連絡を飛ばしましょう。地元の猟師であれば、隴西に向かう安全な道を知っているやもしれません。鮑(ほう)太守。聞けば隴西に辿り着くことこそが肝要の様子。山中踏破は絶対のことではありますまい」

 眩暈を押さえるように片手で両目を覆っている鮑鴻に左彪が語りかける。

 鮑鴻は何とか頷いて陳倉に伝令を向かわせると、重いため息を吐いて座り込んだ。



 隴西郡太守に書簡を届けることが鮑鴻の仕事になった。

 わざわざ指名してきたということは、汧城戦線を鮑鴻が指揮する以上に大事な任務なのだろう。

 そう考えた鮑鴻は、迅速に動くことを決めた。

 右扶風郡には十五の県がある。北部の四県と汧県以外の十県から兵を集め、それぞれの県から部隊長として県尉を集めている。

 十人の県尉の上に太守の鮑鴻が立つことで軍を纏めようと考えていたが、一万六千の軍を汧県まで送り届けるのには四日かかってしまう。鮑鴻が単独で動けば、馬を乗り換えて一日で辿り着く。

 鮑鴻は槐里県の県(けん)尉(い)・樊(はん)達(たつ)に指揮権を移すことにして、汧城外に布陣している董卓のもとに先行することを決めた。

 董卓のもとに向かって事情を説明し、右扶風軍を率いれないことを告げてその足で陳倉に向かう。そうすれば、陳倉では先に送った伝令の指示通り、山道に慣れた猟師を準備してくれている。彼らと共に、隴西に向かうことができるだろう。

 それが一番、時間を無駄にしない方法だ。

 鮑鴻はげんなりしながら動き始めた。



 「なるほど。了解した」

 翌日。

 早速、鮑鴻は汧城城外に布陣している董卓の陣のもとに訪れた。

 三日後には一万六千の援軍が来ること。

 皇甫嵩より別命が下り、鮑鴻は汧・隴の街道を迂回して上洛軍に見つからぬように隴西郡の太守のもとに書簡を届けるように言われたこと。

 それらを説明した鮑鴻に董卓は疲れたような表情で了承の意を告げた。

 「こちらは任せてもらって構わない。皇甫殿の命を優先してくれ。奴には奴なりに考えていることがあるはずだ。時間との勝負だと思って迅速に動け」

 「………わかりました」

 鮑鴻の表情を見て、董卓は僅かにイラつく。

 上洛軍との対峙は董卓軍が劣勢だ。

 将も、兵も、よく動いている。

 しかし、油断なく大軍に平野で構えられては、兵数の差が如実に表れてしまう。

 むしろ、壊滅していない時点で、董卓としては将兵を褒めたたえたい気分だ。

 しかしそれ以上に、上洛軍が凄まじい。

 汧城を包囲している兵も、その兵を指揮する将も、こちらに回しているようなのに、それでも汧城の包囲は少しも揺らいでいない。最初から、兵だけでなく、将にも余裕があったと言わんばかりだ。

 汧城を包囲する部隊と、救援をさせないように野戦をする部隊。二面作戦としているにもかかわらず、どちらの部隊にも決定的な隙は無い。

 僅かな綻びは感じるものの、それを突けるような兵力差ではなかった。

 「鮑殿。援軍の一万六千は夜の内に到着するように調整するよう伝えてほしい。敵が援軍の到来を知って部隊を編成する前に叩くことができれば、僅かにでも天秤をこちらに傾けられよう」

 「陳倉の指揮官に伝えておきます」

 「よろしく頼む。ああ、それと」

 董卓は自覚のないままに鮑鴻が重要任務に就くことを良しと思わなかった。故に余計なこととは思いつつも口を挟む。

 「皇甫殿は人に任せることを嫌う。命の危険がない時、そして、自分よりも相応しいと思った時にだけ、人に任せる。山中行軍。楽な仕事ではないだろう。それを任せたということは、貴殿なら成し得ると、そう信じたからだ。儂も、この戦線を支えられると信じられたからこそ任されている。貴殿も励め。武運を祈る」

 董卓の言葉に、鮑鴻は瞠目した。

 しばし言葉を失い、ややあって、

 「董(とう)中(ちゅう)郎(ろう)将(じょう)も、ご武運をお祈りしております」

 なんとかそう言うことができた。



 陳(ちん)倉(そう)県(けん)の猟師・高(こう)定(てい)は困惑していた。

 突然、陳倉県の県(けん)長(ちょう)である渡(と)舟(しゅう)から出頭するよう命じられた。

 大慌てで着の身着のまま陳倉城の政庁に馳せ参じたのだ。周りからは遠慮のない視線を向けられている。それも当然だ。自分のようなしがない猟師が政庁にいるなど場違いにもほどがある。

 来庁を告げると、官吏のひとりであろう男が高定を部屋に案内した。

 胃が喉からまろび出そうだ。

 熊と相対しても感じることのなかった重圧に、脂汗が滲んだ。

 何も悪いことをしているわけではない。

 そう自分に言い聞かせても、高定の心を蝕む『官』という圧に、自然と心が屈してしまいそうになる。

 そこに、ひとりの初老の男が入ってきた。

 「お待たせしてしまって申し訳ありません。陳倉県県長。渡(と)伯(はく)楷(かい)と申します」

 そう言って手を合わせて礼をしてくる。

 県長から呼び出されたので当然といえば当然かもしれないが、それでも、高定は実際に県長が現れたのに驚いた。もちろん、県長を見たことがあるわけではないので、県長を名乗るだけの狂人かもしれないが、それでも、政庁で県長を名乗るような男が目の前に立ったのだ。

 高定は歯を食いしばった。

 罪を犯した覚えはない。しかし、誰かがやっかみ、冤罪を被せてきたのだとすれば、高定に自分の身を守る術はない。

 ここは山ではないのだ。

 獣から、虫から、植物から、山から、身を守る術は百を超えるほどに知っている。

 しかし、人の世で身を守るには金が必要だ。しがない猟師に、県長が満足できるような金が払えるわけがない。

 山で死ぬと思っていたが、まさかこのような死に方をするとは。

 悔いがあるとすれば、息子の成長を見守れないことと、友人の忘れ形見である娘が嫁ぐ姿を見ることが叶わなかったことか。

 高定は、県長を前にした作法がわからず、ただ頭を下げて、自身の心に死の準備をさせることしかできない。

 しかし。

 渡舟は高定が思いがけないことを言ってきた。

 「あなたに依頼したいことがあるのです。高(こう)猟(りょう)戸(こ)(猟戸:猟師の意)。現在、汧城が賊に襲われています。賊は涼州から襲来し、隴を落として汧に至った者たちです。討伐軍が派遣されていますが数的不利にあり、援軍を要請したいと考えています。そこで、隴西郡の太守に援軍を請う書簡を届けたいのですが、汧・隴の間の街道を使うことはできません。対策として、車騎将軍様が山中を踏破して隴西に向かう策を立てました。あなたには隴西までの道案内をお願いしたいのです。むろん、報酬は支払います」

 高定は一度では理解できなかった。

 三度、四度と説明され、ようやく話が飲み込めた。

 「隴西までどれくらいかかるでしょうか」

 渡舟の怖いほどに腰が低い問いかけに、高定は視線を上げて試算する。

 「そうでさな。山歩きに慣れていない方々を連れてとなりますと、行って帰ってひと月ほどですかね」

 高定の答えに渡舟が瞠目する。

 「渭(い)水(すい)を上りまさ。山ほど険しくはありゃせん。それでいて、大所帯が通るような道でもないので、賊を避けたい時によく使う道でさ」

 「………では、すぐに準備をしてもらいたいのです。明日の早朝でもよろしいですか?」

 「急ぐんでがしょ? なら夜の内に出た方がよさそうだぃ。俺(おい)の身内を何人か下働きで連れていってもよかですか?」

 「………感謝します。十人ほどであれば、それぞれにも謝礼を払います」



 高定は大急ぎで家に帰ると、山に向かって一声呼び掛けた。

 こうすると、半刻後には山で仕事をしている猟師仲間が集まってくる。次いで、家の中に入ると、二人の若者を呼んだ。

 「ソー。ヒョウ。仕事だ。大口のだ」

 「親父。お役所に呼ばれてたんじゃねえのか?」

 まず、のそり、と大柄な青年が姿を現す。

 高定の息子で高(こう)祚(そ)という。十八になる青年は、既に周りの猟師からも一目置かれており、猪程度ならば素手で仕留めることができるほどの怪力の持ち主だ。危ないからやめろと何度も言っているのだが、力が有り余っているのか一向にやめる気配はない。

 「そのお役所からの頼まれごとだぁ」

 「お役所様から?」

 高祚の背後からひょこりと顔を出したのは解(かい)剽(ひょう)という。

 高定の友人である解(かい)立(りつ)が事故で死んだため、高定が親代わりとなって育てている娘だ。年はまだ十五であるが、獣の痕跡を見つけるのが巧い。僅かに倒れた草や木の幹についた傷から、獲物の種類、大きさ、距離を見極める。彼女の推測は外れたためしがない。

 贔屓目なしに、今回の仕事にはこの二人を連れていく必要があると、高定は確信していた。



 鮑鴻の前には筋骨隆々の男たちが集められていた。

 陳倉県で活躍する十名の猟師と、健脚で知られる四十名の兵たち。

 鮑鴻を含めると五十一名。これが隴西郡に向かう使者団の全容だ。

 「右扶風郡太守、鮑(ほう)伯(はく)和(わ)だ。此度は隴西郡まで書簡を届ける任務を授かっている。特に猟師諸君。君たちの道案内には期待している。よろしく頼む」

 そう頭を下げてくる鮑鴻に、特に猟師たちは意外なものを見るような視線を向けた。

 漁師たちにとって、陳倉県県長ですら雲の上の存在だ。その県長よりも格上の太守。そんな存在がこのような雑用に近い任務を手ずから引き受けるのも意外だったし、そんな存在が自分たちのような身分の低い相手にも頭を下げることにも意外なものを感じた。

 「俺(おい)が猟師たちを指揮してやす、高定と申しやす。今回は賊に見つからないよう隴西に向かうということで、渭水を遡上していく予定です。なるべく急げと言われてやすので、一日の移動距離は長くなりやすが、良かったでしょうか」

 「構わない。よろしく頼む。私も、渭水に沿って歩くのは初めてだ。貴殿らに従う」

 「へえ」

 高定は気まずそうに頭を掻くと、早速出発の号令をかけた。



 渭水は涼州隴西郡の首(しゅ)陽(よう)県(けん)西部にある鳥(ちょう)鼠(そ)山(ざん)という山を水源にする大河であり、司(し)州(しゅう)の河(か)東(とう)郡(ぐん)で黄(こう)河(が)と合流しそのまま漢(かん)の国土を二分するように海に向かう。

 漢(かん)を流れる数多の大河と同様に、対岸は遠く、水深も深い。人が渡れるようなものではなく、汧水と違って船が無ければ渡河できないほどだ。

 陳倉県を流れる渭水は、途中で汧水が合流し、そのまま右扶風郡の中央を流れて東進していく。

 陳倉県の辺りは川幅も大きく流れも緩やかになっているが、漢(かん)陽(よう)郡(ぐん)を超えて隴西郡に入るころには川幅も狭く、流れも速くなっている。

 山の恵みを流域に届けているため、川の両岸は鬱蒼とした森林が形成されていた。肥沃な泥はぬかるんでおり、馬で歩くのに向かない。故に、徒歩での行軍となった。



 高定は背後を振り返る。

 猟師たちは平気そうだ。

 しかし慣れない湿地帯ということもあり、兵たちは歩きにくそうにしている。そして、鮑鴻は既に疲労が見え始めていた。

 歩き始めてまだ二刻(こく)(約四時間)だ。

 夜が明けるまでに陳倉県を抜けてしまいたかった。そうして、漢陽郡の上(じょう)邽(けい)県(けん)に入ってしまえば、少なくとも汧県に展開しているという上洛軍には察知されなくなる。

 そうは言っても、潰れてしまっては元も子もない。

 ため息を吐くと、高定は片手を上げた。

 「少しここいらで休憩をしよう」

 その言葉で、鮑鴻をはじめとする兵たちは、木の根元などの乾いた場所に座り込んだ。

 その様子を眺めながら高定は子供たちを呼ぶ。

 「ヒョウ。何か獲物になりそうなのはいたか?」

 「えっと、そうだね。茂みの方で新しい鹿の糞があったから、近くに群れがいそう」

 「そうか。ソー。数人連れて狩ってきてくれるか」

 「わかった」

 高祚は短く答えると、三人の猟師を連れて素早く姿を消した。

 その様子を見ていた鮑鴻が驚いたように声を上げる。

 「猟師たちは随分と元気なんだな。我々はこの様(ザマ)だというのに」

 鮑鴻は自分と同じようにへたり込んでいる兵たちを見る。訓練を受けている兵たちですら疲弊する強行軍だというのに、猟師たちは疲労の色を見せていないのだ。

 「慣れですかな」

 そう返す高定も、なぜ、訓練を受けている兵たちがここまで疲れているのかわからない。わからないが故に、曖昧な答えを返すことしかできない。

 「歩き方じゃないですかね」

 そこに、解剽が口を挟んだ。

 「ヒョウ」

 高定は弁えさせようと、解剽に視線を送るが、それでも、一度出た言葉は鮑鴻の耳に入ってしまう。

 「歩き方? 君も疲れていないようだ。何か歩き方にコツがあるのか? えーと、高(こう)嬢(じょう)?」

 「私は高じゃないですよ。解剽っていいます。高のおじさんには親代わりになってもらってるんです」

 「そうだったのか。それで、歩き方とは?」

 「お役人様は平地と同じように歩いていますよね。それだと滑りやすくなりますし、体力も消耗しやすいんですよ」

 「平地と、同じように?」

 そう言われて、高定も解剽が言いたいことを理解する。理解するが、高定にはうまく説明できない。

 平地と湿地。平地と山地。歩き方は当然変わる。しかし、どう変えているかと言われると、長年の癖のようなものなので高定にはうまく説明できないのだ。それでも、観察眼に優れた解剽であればうまく説明できるかもしれない。

 高定は止めるのをやめて、解剽に任せることにした。

 うまくいけば、速度を上げられるかもしれない。

 「平地ですと、歩く速度を上げるには大股で歩きます。それから、踵を最初に地面につけて、つま先が着く頃には踵を上げますよね。それが平地での疲れにくい歩き方です」

 言われて鮑鴻は自分の歩き方を思い返してみる。

 確かにそうやって歩いていた。

 歩き方など、言われるまで意識したこともなかった。

 「湿地でそういう風に歩いてしまうと滑りやすくなってしまうんです。転ばないように重心を動かすので必要以上に体力を使ってしまいます」

 「確かに、私も含めて兵たちは何度か転んでいたな。では、解嬢。あなたたちはどうやって歩いている?」

 「簡単です。歩幅を小さくして、地面に足をつける時は足の裏全体を同時に地面につけます。それで滑りにくくなるんです。歩幅を小さくする代わりに足の回転数を上げます。それで速度も維持できます。今と大して速度は変わらずに、けれど疲れなくなるので休憩を減らして、結果として移動距離が伸びます」

 鮑鴻は立ち上がると、解剽の言葉通りに足を動かしてみる。

 「本当だ。滑りにくくなったし、変に身体を強張らせずとも歩くことができる。これならば疲れにくいな」

 「そうでしょう」

 「幼い娘だと思っていたが、教えられた。良ければ他のことも教えてもらえないだろうか。さっきは鹿の群れがいると言っていた。どうしてわかったんだ?」

 「それはですねぇ」

 解剽は鮑鴻の近くに腰を下ろすと、話し始める。

 鮑鴻はそれを興味深そうに聞いていた。



 数日が経過した。

 頃合としては、漢陽郡に入った頃だろうか。

 正確な地図がないのでなんとも言えないが、猟師の慣れた足でなら十日で狄(てき)道(どう)県(けん)に到着すると高定は言っていた。この一団の中で最も歩き慣れていないのが右扶風郡太守である鮑鴻だ。鮑鴻に速度を合わせているので、十五日かかると目算しているらしい。

 鮑鴻の頑張り次第でこの日程は減らせる。

 とにもかくにも、全行程の二割ほどが消化された時分だ。それならば、漢陽郡に入ってるはずだった。

 恐らく現在地は上邽県の外れであろう。一日も進めば上邽県の県城が見えてくるはずだ。

 「高殿」

 鮑鴻が高定を呼ぶ。

 「明日にでも上邽に着くはずだ。我々は万が一を考えて城内に入る予定はないが、貴殿たちはどうする。何か不足のものがあれば代金はこちらで持つが」

 鮑鴻の言葉に、高定は視線を彷徨わせた。

 急場で必要なものはない。しかし、あればもっと食事や睡眠が豊かになるものはある。

 疲労が蓄積しているためであろう。

 鮑鴻は顔色が悪い。今朝は食も細かったようだ。

 「俺(おい)らも上邽を始めとして漢陽郡各所にも商いに来やす。変に勘繰られないためにも、俺(おい)らも城内に入らない方がいいでしょう」

 そう言う高定に鮑鴻は納得したように頷いた。

 官吏には官吏の、賊には賊の情報網がある様に、猟師や商人、民たちにも情報網がある。特に、猟師や商人のような下級の民衆が持つ情報は、噂として市井に広がる。その噂を仮に上洛軍が聞きつけ、調査を始めようものなら、今回の任務は失敗になってしまう。

 それを避けるためにも、なるべく、この一団の存在を知られないように動く必要があった。

 「もう少し時期がずれてれば、毛皮や肉を卸す時期だったのでちょうど良かったんですがね。今の時期は不審がられるとまではいきやせんが、記憶には残っちまいましょうな。その危険を冒してまで補充が必要なものはありやせん。代わりと言っては何ですが、信頼できる上邽の猟師と城外で落ち合う約束をしてやす。俺(おい)らよりも、地元の奴らの方が歩き方には精通してやすからね。上邽の猟師をひとり組み込んで、代わりにひとりは上邽に残しやす。念のためですがね。上邽がきな臭くなった時に備えておくんでさ」

 「助言感謝する、高殿。私の方からもそのように取り計らってくれるよう指示を出す。右扶風郡太守の名を使ってくれて構わない」

 「へい」

 高定は数日鮑鴻と過ごしてみて、その人柄を気に入り始めていた。

 偉ぶったところがなく、こちらの専門的な話はしっかりと聞いて従おうとしてくれる。

 役人にありがちな庶民を見下すような態度も取らない。

 どちらかというと、政府に対して苦々しい感情を持っているようだった。

 兵たちには上官として接しているが、猟師の一団には敬意を払っており、その辺りのバランスが絶妙に取れているのが不快にならない原因のようだった。

 解剽のような小娘に対しても、教えを受けるという姿勢を見せている。

 (恐らくだが、意図してやってるんだろぅなぁ。小娘にも敬意を払う。いわんや、俺(おい)らに対しても、ってやつか。お役人様は腹芸が忙しくて大変だぁ)

 そう思うが、その労力を払われるほどに大事に見られているというのは悪い気分ではなかった。



 「太守様」

 「どうかしたか、解嬢」

 「これを見てください。猪の痕跡です」

 解剽が指し示す木を見ると、確かに、木の幹が何かに削り取られたように擦れている。

 「猪は泥浴びをした後に、身体の泥を落とすために木で体を擦ります。木に、泥だけでなくこうした削り跡がある場合は、オス猪が牙を研いだ際のものです。泥も新しいですし、近くにいますね」

 解剽が木に付いた泥を指で取ると、まだ軽く湿っている。

 「ソー兄ぃ」

 「どうした」

 「猪。オス一(いち)。大きいよ」

 「そうか。なら、今日の夕食はシシ肉だな」

 高祚はそう言うと、先頭を歩く高定に声をかけ、背中の弓を担ぎ直して藪の中に入っていった。

 鮑鴻はそんな話を聞いて軽いため息を吐く。

 歩き通しのためか、重い食べ物を食べたい気分ではなかった。

 しかし、兵も猟師たちもみな猪と聞いて盛り上がっている。そこに水を差す気はなかった。

 「太守様太守様」

 解剽が鮑鴻に近寄って声をかけてくる。

 「どうした?」

 「魚も何尾か用意しますからね。消化にいい薬草もありますから」

 そう言ってにっこり笑ってくる解剽に鮑鴻は唖然とする。

 「なぜ」

 「見てればわかります。他にも、兵隊様の、楽(がく)さんと審(しん)さんと田(でん)さんもお魚の方が良さそうですね。お任せあれ」

 解剽はそう言うと、川の淵を歩きながら、手持ち用の小型の網を構えた。

 そして、おもむろに水の中に手持ち網を入れると、掬い上げる。網の中には草(そう)魚(ぎょ)が体をくねらせていた。草魚は草食性の川魚で、体長は成長すると九尺(しゃく)(約180cm)を優に超えるが、凶暴性はなく、庶民にとって貴重な食用淡水魚として古くから親しまれてきた魚だ。

 解剽が採った草魚はまだ幼いのか、一尺(約20cm)程度のものだった。

 「今の時期は草魚がまだ成長しきっていないので、ホントは採るべきじゃないんですけどね。まだ脂の乗りきってないこの時期の草魚なら、食欲がない時に食べやすいですよ」

 そう言いながら、解剽はまた水中に手持ち網を沈め、二匹目を掬い上げた。

 「食べないと体がもちませんからね。私にできるのはこの程度ですけど」

 「………いや、感謝するよ、解嬢」

 鮑鴻は、解剽に柔らかく笑いかける。

 解剽はなんだか気恥ずかしくなり、頭を掻きながら、もう片方の手で手持ち網を持ち上げた。網の中には三匹目の草魚が入っていた。



 陳倉県を発ってから半月が過ぎた。

 短く、それでいて濃密な半月間だった。

 漁師たちにとっても、兵たちにとっても。

 子供たちにとっても、太守にとっても。

 普段交わることのない価値観が交錯した。

 得難く、貴重な経験。

 しかしそれも既に折り返し地点に来ていた。



 隴西郡の郡(ぐん)治(ち)、狄道県に着いた一行は、県城内にある亭(てい)(国営の宿屋のこと)に宿泊することになった。

 これから鮑鴻は政庁にいる隴西郡太守・李(り)参(さん)のもとに向かわねばならないが、半月もの行軍により服も体も汚れている。

 風呂に入り、服も新しいものを用意しなければならない。

 亭(てい)長(ちょう)(亭を管理している官吏)に湯と、香(こう)湯(とう)、そして新しい服の準備を頼んだ。

 この時代、風呂に入る際は、湯を沸かし、布を湯に浸して体を拭く。汚れを落とし終わったら、薬草によって香りづけされた香湯という湯で改めて体を拭う。このようにして身を清めていた。

 鮑鴻は筵(むしろ)を借りると、亭の庭に出て筵を敷いてそこに座った。

 太守ともなれば自宅に浴(よく)堂(どう)と呼ばれる洗(せん)沐(もく)(髪と身体を綺麗にする行為)専用の部屋が作られて落ち着いて身を清められたが、亭は官吏専用の宿屋とはいえ下級官吏も使うような場所だ。そのような場所に浴堂をわざわざ作ることはできない。

 鮑鴻は仕方なく、亭の庭で体を清めることにしたのだ。

 湯を置いて、上半身をはだけさせながら久しぶりの感覚に浸る。

 太(たい)学(がく)に在学していた時は、こうやって体を清めるのが普通だった。太守になって数年。最初は慣れなかった浴堂での洗沐もいつの間にか当たり前になり、気づけば逆にこうして庭で洗沐することに違和感を覚えるようになっている。

 「伯(はく)和(わ)様」

 不意に背後から声が聞こえた。

 振り向くと、解剽だった。

 「阿(あ)剽(ひょう)か。着替えを持ってきてくれたのか? ありがとう」

 鮑鴻が声をかけると、解剽は視線を泳がせながら庭に下りてきた。

 「お背中、拭いましょうか?」

 「いいのか? 助かる」

 解剽は本当に気の利く少女だった。

 鮑鴻が困っていると、その僅かな不足を埋めるように、解剽が声をかけてくれる。

 いつしか、解剽は鮑鴻のことを『伯和様』と字(あざな)で呼ぶようになり、鮑鴻も解剽のことを『阿剽』と慈しんで呼ぶようになっていた。

 ちなみに、鮑鴻は気づいていないが、解剽は阿剽と呼ばれることに若干の不満を感じている。『阿(あ)』とは子供につける愛称なのだ。解剽は子供扱いしてほしいわけではなかった。むろん、自分から言うことはないが。

 閑話休題。

 「そうだ、阿剽。頼みたいことがあるのだが」

 「なんでしょうか」

 「しばらく暇がなかったから、無精ひげが生えている。見苦しい部分を剃ってもらえないだろうか」

 言われた解剽の身体がピクリと震える。しかし、それを鮑鴻に悟られないよう抑制しながら、解剽は笑顔で承諾した。

 (身の繕いを手伝わせてくれるって、これだいぶ好感度高くない!?)

 表面上は気の利く娘として太守のお眼鏡にかなうほどの才女に見える解剽だが、内心は年上の柔和な男性の所作に一喜一憂する思春期の少女なのだった。



 身を清めた鮑鴻が着替えをする間、解剽は手持ち無沙汰に客間で待っていた。

 そこに訪れたのが高定と高祚の親子だ。

 「随分太守様に気に入られたようだな」

 「そう思う? ソー兄」

 「嫁にしてもらえばどうだ」

 「でっでででできるわけないじゃん!!!」

 「でも確か、太守様、まだ奥さんいないらしいぞ」

 「そうなの!?」

 「なんで聞いてないんだよ」

 「いやだってさぁ。仲良くなってきたら逆に聞けないよぉ」

 そんな子供たちの会話を微笑ましそうに聞いていた高定だったが、ひとつ懸念がある。

 「うーむ。しかしなぁ。身分が違うやなぁ。ヒョウ。なれて下女くらいじゃねえか?」

 「下女じゃ嫁になれねーじゃん」

 「ふっふっふ。甘いよ、ソー兄。下女でも子を孕むことはできる!」

 「………………それでいいのかお前さん」

 「子を孕めば、なし崩し的にお妾さんくらいになれたりしないかなって。私はそれでもいんだけどなぁ」

 『………………』

 男性二人は絶句するしかない。

 高定は随分したたかに育ったものだ、と微笑ましさすら感じた。

 高祚は女って怖いな、と義妹の強さに怯えたのだった。



 そんな密談が行われていたとは露ほども知らない鮑鴻。

 正装に着替えて部屋から出てきた。

 「お、お似合いです」

 解剽の言葉に鮑鴻は微笑みで返す。

 「それでは行ってくる。明日には戻れると思うから、戻ったら出発できるように準備をしておくように。消耗品の補充などがあれば今日と明日の朝で済ましておいてくれ。金は高殿に預けてある。高殿。その金は帰りの支度金です。あなたの采配で自由に使ってください」

 そう言うと、鮑鴻は亭を出発した。

 後には。

 持ったことのない大金をもって腰を抜かしそうになっている高定と。

 鮑鴻の着飾った姿に腰砕けになった解剽と。

 そんな二人を呆れて眺める高祚と。

 にやにや、にまにま、揶揄い半分、微笑ましさ半分といった表情の兵たちや猟師たちが残された。



 隴西郡太守・李(り)参(さん)。字(あざな)を相(そう)如(じょ)。

 沈(ちん)静(せい)有(ゆう)謀(ぼう)とあだ名されるほどの賢人であり、その名は広く知れ渡っている。

 沈静有謀とは、周囲に紛れて表立った活動をしていないように見えて、その心中では様々な計画を立てて目立たぬように着実に計画を進めている様子をいった言葉である。

 李参本人からすれば過剰な評価だった。

 確かに、事件が起こると、効率よく解決するためにあえて事件を放置することもままあった。今回の上洛軍の動きにしても、最初の段階で宋(そう)建(けん)たちを討ち取らなかったのは李参の判断だった。

 散発的に賊や羌族の反乱が続くのなら、いっそ、大々的に蜂起させてそれを討伐する方が被害も資源の消費も最小限で済むと思った。

 当時の涼州刺(し)史(し)・左(さ)昌(しょう)が軍費着服によって増援を李参のもとに送れないという状況になった時点で、李参は早期解決を諦め、宋建と羌(きょう)族(ぞく)を合流させてから叩く方針に変更していた。

 しかし李参には想定外があった。宋建は督(とく)軍(ぐん)従(じゅう)事(じ)の辺(へん)章(しょう)にも働きかけており、辺章が賊軍についたことで、護(ご)羌(きょう)校(こう)尉(い)と金(きん)城(じょう)郡(ぐん)太守が早々に討ち死に。金城郡の民も吸収し、更に上洛軍は悪徳刺史である左昌を討伐。これによって民心は一気に上洛軍に傾き、あっという間に規模が膨れ上がった。

 確かに、謀(はかりごと)はあった。そのために目立たぬように準備を進めていた。

 いつもの手だった。

 それが、まさか、ここまで裏目に出るとは、李参自身思っていなかった。だからこそ、『沈静有謀』などと持ち上げられるのは、今の李参にとって針の筵に座らされているような気分なのだった。



 「右扶風郡太守を務めております、鮑伯和と申します。本日は皇甫左車騎将軍からの書簡を預かってまいりました」

 鮑鴻が拱(きょう)手(しゅ)をしながらそう述べる。

 その前に座っているのは隴西郡太守・李参だった。

 四角形の顔に長く巻いたもみ上げ。太い眉に引き締まった唇。

 鮑鴻の目に映る李参は、武人然としたがっしりとした体型の男だった。とても『沈静有謀』として頭の切れる男には思えない。

 しかし。

 「書簡の内容は、隴西郡で兵を纏めて汧城を攻めている上洛軍の背後を突け、といったところかな?」

 低く、しかし聞き取りやすい声で書簡の内容を当てようとしてくる。当たらずとも遠からずの内容だ。

 「さすがです。内容は、隴西郡内の羌族を纏めて上洛軍の背後を突くようにと」

 鮑鴻の答えに、李参はずっこける。

 「全然違うじゃないかよぉ。よりにもよって羌族だぁ? ふぅむ………」

 李参は顎に手をやって静かに考える。

 (上洛軍の規模は漢軍が動員できる兵力を優に超えている。昨年の黄(こう)巾(きん)の乱で漢(かん)軍(ぐん)の国庫は壊滅的な打撃を受けた。上洛軍に匹敵する討伐軍を編成するには時間がかかる。それでも洛陽の魔物どもだ。やってやれないことはないはず。が、援軍を出し渋った。烏(う)丸(がん)も動き始めているし、南方でも反乱勢力が生まれている。漢(かん)は西にだけ注意を払うわけにはいかない。だからこそ、西の保有戦力でなんとかできるならそれが最上。そう考えているんだろうが―――)

 「恐らく、洛陽に詰める魔物どもは、西の現状を正確に理解していない」

 李参は小さく呟いて結論付けると、書簡に文字を書き始めた。

 「伯和殿」

 李参は書簡を作成しながら、鮑鴻に言葉を送る。

 「戦場とは、遠方で頭を働かせている者たちとは異なった理屈が生まれる。羌族の討伐軍動員。確かに言葉の上では、机の上では、頭の中では可能な策だ。しかし現実的に可能かどうか。洛陽では湟(こう)中(ちゅう)義(ぎ)従(じゅう)胡(こ)は便利な兵力として認識しているのだろうが、彼らも我々と同じ人間だ。思いがあり、士気がある。上洛軍が湟中義従胡の地位向上のために動いているという側面がある以上、湟中義従胡が上洛軍に相対するのは、彼らにとって百害あって一利なし。それでも無理矢理従わせることはできるだろうが、無理矢理従わせた彼らは果たしてどれほどの戦力になるだろうか。戦意の低い兵となるだけならばまだしも、敵と内通してこちらの情報をすべて明け渡しかねない。上洛軍が敗勢であればまだしも、今の段階で湟中義従胡が漢(かん)軍(ぐん)に従うことはないだろう」

 「そ、それでは」

 李参の言葉を受けて、鮑鴻は震えながら確認をしようとする。その前に、李参は鮑鴻に答えを告げた。

 「羌族派遣は無理だ。無理というか、そんなことをすれば漢(かん)軍(ぐん)は瓦解する。漢(かん)を守るために、羌族の派遣は断らせていただく。勅(ちょく)命(めい)を拒否するのだ。それをするだけの理由を列挙しておいた。これを、皇甫左車騎将軍に届けてほしい。よろしく頼む」

 李参は書き上げた書簡を鮑鴻に手渡す。鮑鴻は震える手で書簡を受け取ると、何かを言おうと李参に視線を向けた。

 しかし、鮑鴻の口から言葉が出てくることはなく、鮑鴻は項垂れて退室をするほかなかった。



 鮑鴻が去った後、李参は尚も座りながら顎を撫でる。

 (しかし、勅命に逆らったことは紛れもない事実。これは俺も、身の振り方を考えねばならんかもしれんなぁ)

 李参の視線は、遠く、東の方を向いていた。

解剽は史実において数十年後にキーパーソンとして出てくるのでそれの先出しって感じです。

本来は「忄」に「剽」という字なのですが、対応していないようなので漢字を書き換えています。

佐久彦三国志では昨秋時間で数年後に再登場する予定です。

高祚は数年後にどうするかはまだ未定。

覚えてなくていい情報です。

ちょっとした箸休め的なロードムービーでした。

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