二十九幕 西方防御策
右扶風郡。
司州の東端に位置する郡だ。
その郡の北部と西部が涼州に食い込んでおり、事実上、辺境である涼州が落とされた際に、首都・洛陽を守る防衛線として機能することになる。
しかし、後漢が建国して百五十年。
この防衛線が機能するような事態はついぞ起こっていなかった。
汧県。
右扶風郡の西端に位置している県だ。
県城の北から東に回り込むようにして汧水という河が流れている。
右扶風郡は汧水の東側が栄えており、汧水の西側にあるのは汧県と陳倉県の僅か二県のみである。
そして、汧県から西にまっすぐ五日も行けば、涼州の州都・漢陽郡隴県の県城がある。
首都・洛陽の所属する司州までは、涼州の出入り口である隴県と司州の出入り口である汧県がそれぞれ守っている。はずだった。
涼州刺史・左昌が涼州を混乱せしめ、統制が乱れ切った涼州は各地で賊が跋扈した。
その対応に追われている間に、上洛軍と呼ばれる反乱軍があっという間に隴県を攻略してしまったことを、誰もまだ、知らない。
穏やかな昼下がりだ。
汧県の県城である汧城の城外。
そこでは農民たちが農地を耕している。
この時代、県城は政庁・商業区・居住区を城壁で囲うことで構成されている。
県城の外にも多くの里(村のこと)が点在しており、国家が運営する宿屋も城の外に一定区画ごとに置かれている。
そして、生活の基盤となる農地は城や里の外に作られていた。
毎日、農業従事者は朝起きると城の外に出向き、自身が丹精込めて耕した農地の世話をする。
その日も、汧城の外では農民たちの活気あふれる声が響いていた。
「玩じいよぉ。荷を運んできたぞ。これでよろしいか?」
「おお、デクさん。運ばせちまって悪かったなぁ。そこに置いておいてくれ」
「気にするなぁ。また腰痛めてるんだろう? 息子さんはまだ帰ってこないのかい?」
「隣県まで物売りに出てるからねぇ。もう少しかかるさな。しかしついてない。息子がいないって時に、腰をやっちまうとはねぇ」
腰を丸めた初老の男が話しているのは、巨大な男だった。
顔つきがとろ臭そうに見え、その動きものろのろと遅い。
しかし、彼が担いでいる荷は、幾つもの土嚢だ。成人男性であれば二つ運ぶのがやっと。そんな土嚢を十は担いでいる。
「で、玩じいよ。これをどうするって?」
「ああ。何でも効き目の高い肥料だそうだ。儂の畑で試してみようと思ってのう。土を耕しながら、肥料を土に混ぜ込んでいくんだ」
「そうかい。なら始めるかい」
「おいおい。デクさんにそこまで頼みゃせんよ。それは儂らの仕事だ」
そう言われた大男は顔をしかめる。
「しかしなぁ。腰が悪化したらどうする。気にせず俺に任せておけ。どうせこれくらいしかやることがない」
それとも迷惑かい? そう聞かれた老人はバツが悪そうに頭を搔く。
「そりゃまあ、やってくれるなら助かるがねぇ」
その言葉に大男は破顔した。
「なら決まりだ」
本来なら数日かけて土と肥料を混ぜ込んでいく予定だった老人の畑は、その日の午前中だけで作高の向上が期待できるものになったのだった。
せめてものお礼だ。
そう言われて大男は老人の昼飯を分けてもらった。
老人が持つ握り飯は片手で余るほどの大きさをしている。
しかし、大男がその握り飯を持つと、指でつまむようなサイズに見える。
大男はあぐり、ばくり、と二口で握り飯を食い終わると、老人に丁重に礼を言い、その場を立った。
その高い背でぐるりと辺りを見渡し、困っていそうな人間に声をかけ、荷を運び、農作業を手伝い、ひと段落つくと、のっそのっそと県城に向かって歩き出した。
城内の通りを窮屈そうに歩きながら、あたりを見渡し、高い場所にある商品が取れなくて困っている娘に手を貸し、買い物のし過ぎで荷物が持てなくっている老婆を手伝い、酒を飲んでケンカになりそうな男たちの間に黙って割って入った。
その度に彼は周りからこう言われた。
「デクさん。助かったよ、ありがとう」
「デク坊、感謝するよ」
「さすがデクさん。無駄にでかいだけありますねぇ」
言葉だけ聞けば失礼千万な物言いだ。
しかし、民たちは皆、笑顔を大男に向けている。
大男の方も謙虚に笑う。
「いやいや無駄なでかさが役に立った」
「いやいやこのくらいしかできないがね」
「いやいや怖くて手も出なかった。退いてくれて良かった」
そうやって恥ずかしそうに頭を掻く大男を見て、民たちは笑うのだった。
また、のっそのっそと城内の大通りを歩く大男はそのまま政庁に足を踏み入れる。
政庁は県の行政を司る地方政治の中枢だ。
どんくさそうな大男とは異なり、見るからに優秀そうな官吏たちがせっせせっせと職務に励んでいる。
そんな場違いな場所に大男は足を踏み入れてしまった。
大男はそのままぐぅるりぐぅるりと辺りを見渡して困っていそうな者を探した。
しかし、日常の業務に最適化されている政庁において、大男が処理できそうな困りごとを抱えている官吏は見当たらない。
そのことが不満なようで大男はのっぺりとした顔の上についている眉尻を下げた。
と、そこに。
「な~~~にをやっていますか!!!」
中年の痩せぎすな男がずかずかと大男に向かって歩いてきた。
大男はうるさい男に見つかったと、顔をしかめる。
「このようなところで何をしておいでか。どうしてあなたはすぐにふらふらとどこかに行くのです!?」
大男は小うるさい痩せ男に顔をぐちゃぐちゃにしかめながら抗弁する。
「玩じいがな。腰を痛めたと言ってな。なのに重たい荷物を運ばねばならんと。それは手伝わないわけにもいかないだろう」
「あなたが行かなくても、別の者に行かせればよろしい!」
「みな、忙しそうで」
「あなたも、本来、忙しいのです。あなたは、『県長』、なのですぞ!?」
「ううむ。参ったなぁ」
そう呟く大男。
否。
右扶風郡汧県。
涼州からの出入り口。
防衛線の最前線ともいえる重要拠点。
その県の長。
県長。
それを務める、閻行、字を彦明というその人は困ったように頭を掻いた。
「それで。何があったのだ。危急か?」
閻行のしずかな問いかけに、室内に集まった面々が強張った表情で頷く。
「涼州を荒らしていた賊。上洛軍、とか自称しておりますが、その賊が隴県を落としたとの情報があります」
先ほど閻行を呼びに来た中年の痩せぎすの男が、手に持った紙を見下ろしながらそう報告する。
彼は衛軫。字を文整という。
県丞の位に就いており、その職務は県長である閻行の補佐だ。
仕事をたびたび衛軫に任せて市井に下りている閻行にとっては、口煩い執事のように感じる。
それはそれとして、閻行は衛軫の持っている物をしげしげと見た。
「ほう。それは紙かね。以前に作られていたものよりもだいぶ滑らかになったものだ。文字も、ほう。ほとんど掠れていないではないか。それでいてこの小ささ。これはこれからの世が大きく変わることになろうなぁ」
「そんなことはどうでもよろしい!!」
場違いにのんびりと頓珍漢なことを言う閻行に衛軫がぴしゃりと言う。
「いやいや大事なことさぁ? そうだなぁ。エン。小さく、文字も掠れない。この紙、どう思う?」
閻行は顎を撫でながら横を向く。
そちらには見目麗しい少女がいた。
整った目鼻立ち。編み込まれた髪に、シルエットだけで見れば少年と見紛う華奢な体躯。
しかし、近くでよく見ればその風貌には僅かな艶が見て取れる。
彼女の名前は閻艶。
閻行の一人娘だ。
問われた閻艶は父を見て、衛軫を、そして彼の手にある紙を見る。
「………携行性が上がるということは、間者はより多くの情報を持って帰れますね」
十五ほどの少女から出てくるとは思えないほどの物騒な物言いに、衛軫は思わず目を剥く。
「そういうことだ。これまで以上に情報の取り扱いには気を付けるように。それで、文整。情報の続きは?」
あなたが遮ったのです、とぶつくさ言いながら、衛軫は続きを話す。
「隴県から送られてきた伝令によりますと、上洛軍は十万を超す軍勢へと成長しているようです。隴県がいくら州治所とはいえ、先の混乱から指揮系統が乱れていた上にこの大軍勢に攻め寄せられては、衆寡敵せず、といった具合に蹴散らされてしまったと。三日で降伏したと言っております」
「言っております? なんだ。その伝令、降伏した後に送られたものか!?」
ざんばら髪に浅黒い肌。毛虫のようなふと眉に熊のようなもみ上げと顎髭。
ぱっと見山賊のように見える男が声を上げた。
県尉の彭全、字を呑集という男だ。
もう一人の県尉、毛洪、字を伯恩という初老の男も険しい表情で衛軫を見ている。
「その通りです。この伝令は隴が落ち、上洛軍が隴を通り過ぎてから発せられています。十万もの大軍。進軍速度は遅いでしょう。あと数日は猶予があると思われますが、それでも時がありません」
「おい文整。この城の兵力は!?」
「二千です」
「十万対二千だとぉ?」
衛軫の言葉に彭全が顔を引きつらせる。
「城内の民もいます。それらを合わせれば何とか一万にはなるのではないでしょうか」
毛洪がしわがれた声でそう言った。
室内の視線が歴戦の老将・毛洪に向く。
「攻城戦や野戦と異なり、守城戦は第一に城壁を登られないこと。第二に門を破られないこと。この二つを徹底している間に援軍が来れば我々の勝利。この二つを徹底できずに援軍が来る前にどちらかを敵に成されてしまえば、我々の敗北。そういうことです」
毛洪は室内を見渡し、皆が自身の言葉を理解していることを確認して話を続ける。
「守備側は城壁を登ってくる、あるいは城門を壊そうとしている兵に向けて、石を、油を、湯を、矢を、上から下へ落としてやればよろしい。それは誰にでもできること。古来より、守城戦においては老人も女も子供も一緒になって戦ったといいます。城内の民も戦力に数えるべきでしょう」
毛洪の言葉は正しい。
その正しさに閻行は唸った。
「ううむ。しかしなぁ。民たちから税を取っている代わりに危難から民を守る。それが国に仕える官吏の責務ではないか、そう思うのだがなぁ。民にも戦わせるのであれば、我々は普段どうして税を、彼らに納めさせていると、言うのだろうなぁ」
「言っている場合ですか! このままでは、彼ら民の生活すらも蹂躙されるのです。それを防ぐために彼ら自身の力を借りることに、なんの理不尽がありましょうや」
肩を怒らせ眉を吊り上げて声を張る衛軫に、閻行は相も変わらずのっぺりとした表情の変わらない顔を向ける。
「いやぁ。あるだろう。蹂躙されない方法が。城が攻撃される前に降伏すればいい。上洛軍が名前の通りの軍ならば、攻撃前に降伏した城を無碍にはすまい」
降伏のタイミングについてである。
慣例として、城攻めが始まる前に降伏すれば許されることが多い。
これは、まだどちらにも被害が出ていないという状況であるからだ。
しかし、城攻めが始まってしまえば、資材も、時間も、人命も、多くのものが刻一刻と失われていく。そうなれば、降伏した城に対して何のお咎めもなしというわけにはいかない。
城主の処刑。城主に加えて城兵の処刑。城主・城兵に加えて城民の処刑。
これらはもちらん、敵の指揮官の胸三寸によって決まる。
悪賊であれば、こちらがどのタイミングで降伏したとしても城内は蹂躙されるだろう。
しかし、上洛軍というのが呼称通りの軍ならば。
攻め込まれる前に降伏すれば許される公算も高い。
「県長であるあなたが、賊に降ると、そう仰るのですか?」
衛軫が強い瞳で閻行を見る。他の三名は我関せずといった様子で素知らぬ風を決めていた。
「俺が? 賊に? なぜ?」
「――――は?」
閻行のきょとんとした表情に衛軫はあんぐりと口を開ける。
「今俺は民の処遇の話をしている。我々は国に任命された責務がある故な。城を出て上洛軍に野戦を仕掛けるなり、他の県と合流するなり、やりようはいくらでもある。俺は屈する気はない。しかし、民がそれに付き合う必要もまた、ないだろう」
はくはく、と衛軫が言葉もなく立ち尽くす。
と、そこに。
県長室の扉の外から声がかけられた。
「け、県長様! 民が!」
閻行が首を傾げながら扉を開け外に出る。
室内に残された四人は顔を見合わせ、すぐに閻行を追った。
そして、追った先の光景を見て、固まった。
「デク県長―! 俺たちも戦うぞーーー!」「水臭いぞデクさん! 一緒に戦わせてくれ!!」「俺は娘さんと一緒に戦いてー」「姫将軍の活躍、間近で見たいーーー!」「十万の敵兵がなんぼのもんじゃーーーい!」「俺たちを置いて、自分たちだけ危険に飛び込もうとするの、無しですよ!」
数百人の民たちが、政庁の前に集まっており、閻行が姿を見せた途端、爆発したように各々が声を上げる。
通りの向こうではこの集まりに参加できなかった民たちが遠巻きにこちらを見ながら、歓声を上げていた。
「商人や隴の方から逃げてきた民たちが情報を流したようです」
なぜ民が知っているのか。
それに対する疑問はすぐに解ける。
そもそも、上洛軍はなにも秘密裏に動いているわけではない。
市井に情報が広まるのも当然といえば当然だ。
「ふむ」
その光景を見て、閻行は顎を撫でた。
「ならば、抗戦しようか」
その言葉に、汧城の民たちは鬨の声を上げた。
右扶風郡とは、異民族問題がいまだ根深い涼州と、首都・洛陽がある司州との玄関口ともいえる郡だ。
西部は涼州の漢陽郡に、北部は涼州の安定郡に接しており、涼州が異民族に制圧されれば、次に狙われる地になりかねない。
涼州とは、それほどの危険地帯だと朝廷には認識されていた。
故に、右扶風郡に詰める官吏たちは涼州からやってくる軍勢を仮想敵とした防御策の構築を行っている。
今回発動するのは『西方防御策』だ。
西方防御策では汧水が防衛ラインとなる。
一段階目は情報共有だ。
汧城が敵を補足した際、汧水の南方にある陳倉城に伝令を送る。陳倉城は汧水のほとりに建っている立地で汧水の渡河拠点としての役割もある。陳倉城は情報を受け取るとその情報を汧水の対岸に配置されている渝麋国、雍県の両県に送る。雍県はその情報を右扶風郡の郡治である槐里県に送る。
第二段階は物資の集積だ。この時点で右扶風郡を舞台とした防御策は槐里県に赴任している太守が握ることになる。雍県に物資を集める手筈であり、そこに兵糧、資材、援軍の兵が集まる。
第三段階が援軍の編成だ。雍県に集められた物資を纏めて、太守が汧城を救援するために動く。現場に着けば、汧城を攻めている敵軍の背後を援軍が取る形となり、城内の兵とも呼応して二面作戦を行うことができる。
発動すれば二週間ほどで敵軍の背後を突ける算段だ。
この時も、その防御策は疎漏無く動き始めた。
はずだった。
司州右扶風郡陳倉県。
その政庁はにわかに活気づいた。
汧城から涼州を発した上洛軍と呼称する賊軍が隴を抜いたことを伝える伝令が来たからだ。
「これはまずいですね。すぐさま西方防御策を発動しましょう。渝麋と雍に伝令を送ります。武虎。あなたは船の準備を」
陳倉県県長。
渡舟、字を伯楷。
老齢の男が隣に侍るガタイのいい男に声をかけた。
声をかけられた男は顔を歪める。
「また俺が渡しをやるんですか!? 何度も言いますが、俺は船が苦手なのですが!?」
彼は陳倉県県丞を務める男で、名は孟于、字を武虎といった。
筋骨隆々な男で、いかにも船の扱いに慣れていそうな風貌だ。
しかし、彼には問題がある。
「あ、あはは。武虎殿はそれでいいのですよ。船が苦手で、気を失えば、巧みな楷捌きを見せるではないですか。あはは」
気の弱そうな線の細い男が口を挟んだ。
彼は陳倉県県尉、名を辛建、字を呑空という。
「呑空殿。気を失えばいいと気楽に言ってくれる! なら貴殿も来い!」
「ぼぼ、僕は無理ですよ。準備が足りません。効果が出るまでにも時間がかかります。すぐに動くべきなんですよね?」
辛建の言葉に渡州が頷く。
「事態は一刻を争います。だからこそ、我が所属の中で渡しに秀でた武虎に頼んでいるのです。どうか、よろしくお願いします」
そう言ってなんと、渡州は孟于に頭を下げた。その様子を孟于は嫌そうに見る。
「県長ともあろうお方が、簡単に頭を下げないでいただきたい!」
「簡単にではありません。下げるべきだから、下げているのですよ」
孟于が嫌がることはわかっている。身体的にも精神的にも辛いこともわかっている。それでも、耐えて、任務に従事してほしい。
それを命ずることと引き換えに、立場の高い自分の頭を下げる。
そこまで言われて断れる孟于ではない。
結局、いつものように、半ば悲鳴を上げながら承知することになった。
船に足を乗せたその瞬間から、孟于の意識は落ち、その意識と引き換えにするように巧みな楷捌きであっという間に伝令を対岸に送り届けてしまった。
司州右扶風郡雍県。
各県城で対処できないような変事が起きた際に本部拠点として活用される城だ。
とはいえ、平時では使われない部屋、使われない倉庫、使われない武装、使われない道路。
実際にこの城が建てられてから、本部拠点として使われた記録はない。
それでも。
いつでも変事を予測して、危難に備える。
そんな難事をそつなくこなし続ける奇跡的な城でもあった。
そんな城を預かる今代の県長。まさか自分の代になって備えを活用することになるとは夢にも思わなかった男が、伝令から情報を受け取った。
雍県県長。
名を桓茂、字を繁冨という。
「やあ、まさか西方防御策。僕が在任中に利用することになるとは思いもしなかった。さて。疎漏無く策が動けばいいが。汧城の兵は確か二千ほどか。あそこの住民も併せると一万に届くかどうかというところ。対する上洛軍は十万を超すと。ふぅむ。これだと例え疎漏無く防御策が動いたとしても、汧城はもたないかもしれないねぇ」
そんな不穏なことを言って、伝令や室内に集まった官吏たちを凍らせた。
「相変わらず県長殿は話が長くていけねえやな。何言ってんのかわかんねえ」
否。
ひとりだけ凍った空気をものともしない男がいる。そんな―――県尉の焦勲、字を叔宣という男の存在に伝令が表情を緩めるも。
「やれやれ。叔宣殿はおつむが弱いからね。仕方ない。雲台二十八将がひとり、舞陰侯・岑君然の末裔たる僕様が解説してあげよう。『敵、来たり』だよ」
「どこにだ!?」
「『汧城』」
「大事じゃねえか!?」
「『そうなのさ」』
焦勲に説明しながら伝令にぱちりとウインク。
「ごめんね。彼、五文字を超える言葉を聞くと頭動かなくなっちゃうんだ」
雍県県丞の岑当、字を君義という男は申し訳なさそうにそう言った。
雍県で伝令が愕然とする頃、渝麋国に走った伝令も謁見の許可を受けていた。
渝麋国は行政単位としては県と同位である。
しかし、後漢政権の樹立を助けた功臣の一族が列侯として封じられ、渝麋県は渝麋国と名を変えている。
この地は他の地と異なり、県長・県令の代わりに国相が行政官として君臨しており、それに伴って国相を補佐する者を国丞、警察機構の長官を国尉と呼ぶ。国相は任地内の税を洛陽ではなく、列侯に封じられている者に届けるとことになっている。
その列侯に封じられている者。
名を耿紀。字を季行という女だ。
彼女は後漢政権樹立の立役者にして、雲台二十八将が序列四位の耿弇、字を伯昭という男の末裔である。
本来であればとっくに嫁ぎ、子を成し、列侯の跡継ぎを生み出していなければならない年齢であるが、とある事情により未婚だった。その事情は、まあ、今は割愛する。
楚々とした雰囲気にたおやかな佇まい。利発そうな顔つきに、腰まで伸びた艶やかな髪。着こまれた厚手の着物は職務を行うことを考えられたものではなく、屋敷の奥で儚く時を待ち続ける姫のようでもあった。
しかし、そんな風体の彼女が、渝麋国の国相室にいるのは、彼女自身、後漢建国以来食い扶持を与えてきてくれた国に対する恩義の気持ちからであった。
「いやはや。来るべき時が来てしまいましたな」
伝令を受け取った男が室内の者を見渡しながらそう言う。
国相・薛熊、字を崇恩というその老人は、しかし五十二歳という年齢を感じさせない伸びた姿勢で深く嘆息する。
年季を感じさせる重いため息。生真面目にまとめ上げられた灰褐色の髪が、ひと房顔に落ちており、それが彼のため息とともに揺れる。唾を飲み込んだのだろう。薛熊の骨ばった喉仏がごくり、と艶めかしく動いた。
「―――父祖の代より続く国からの恩を、今こそ返す時かと思います。西方防御策の発令をお願いしてもよろしいかしら」
薛熊の老いた色気を振り払いながら、耿紀は室内の面々に向けて懇願をする。
そんな耿紀の心中などひと欠片たりとも知らない薛熊は、幼い頃から見てきた彼女の凛々しさに目を細める。
「ご立派になりましたな、姫様。しかし、姫様は列侯であらせられます。我々に任せて休んでいてもいいのです」
そう静かに言ってくる薛熊に耿紀は首を振る。
「じい。いつまでも子供扱いはやめてください。列侯として国から扶持をもらっているのであれば、有事の際に、国に尽くすのは当然のことです」
「姫様のお覚悟、このじい、とても嬉しく思います。よくぞここまで立派に育てられました。ですが、此度の難事、下手をすれば前年の黄巾に匹敵するかもしれません。動き方は慎重にせねば―――」
薛熊がそこまで言った時。
悲鳴にも近い声が割って入った。
「っていうかさぁ!!」
その声に耿紀はびくり、と身体を強張らせ、薛熊は煩そうに視線を送る。
「西方防御策! これに関していえば、情報を太守殿に送り、その後、太守殿が兵を纏める! 列侯であるお嬢に従軍要請が来れば、それに従う必要もありましょうが、今現在においては、その議論はまだ早い!」
肩を怒らせてじいやと姫君の話に割って入ったのは、渝麋国国丞・許南、字を長容という男だ。
「あとねぇ。お嬢。あなたが従軍するとなると、あなたの護衛にも兵を割かなきゃいけなくなる。ただでさえ兵が少ないんだ。そんな余裕ウチにはないぞ!」
「あら、長容殿? ではわたくしはお留守番かしら」
「当たり前だろうが! あんたは女だろうが!」
「あら。わたくしが女だから駄目だというの? わたくし知っていましてよ? 汧には女だてらに兵を率いる姫将軍がいるとか。ならばわたくしにも同じことができるのではないかしら?」
「じゃあ、あんたは兵法を知ってるのか!? 兵に指示を出す時どうやって出すか知ってるか!? どういった時に攻めて、どういった時に退くかわかってるか!?」
「それは」
「汧の姫将軍はそれこそいつも、兵と共に訓練をしてるらしい。県内の警邏にもよく参加して賊の討伐でも何度となく実績を上げている。そうやって積み上げた結果が姫将軍という名だ! あんたには、その積み重ねがない! その状態で戦地に来ても、他の兵に気を遣わせ、意思疎通もできず、双方に百害しか与えない!」
「………………長容殿は、随分と、その、姫将軍様のことに詳しいのですね?」
「特異な人物はそれだけで注目の的になる。下手に調べようとせずとも、自然と情報など手に入る! そも! ウチには優秀な国尉がいる! 兵を率いるのはその専門に任せればいい!」
突然話を振られた国尉が肩を跳ね上げさせる。
「あ、え、あ、俺、ですか。いや、そんな、大したもんじゃないですよ。俺なんかが率いるより、崇恩殿が率いた方が、勝利も確実ですし、兵たちも喜ぶと思いますよ?」
渝麋国国尉・鄧方、字を伯武という男が卑屈そうに言った。
「伯武!! 貴様も貴様だ! その職務にいる以上、職責を負うべきだ! いつまで昔のことを引きずるか! 今では貴様も立派な、この、渝麋の国尉ではないか!」
「そうよ。伯武殿? 前のじいの折檻については、じいにも謝らせたでしょう? それに、あなたも上には上がいると知れた。その上であなたは国尉としての職務も変わらず成してくれました。あなたよりも、じいがいいなんて、そんなこと誰も言わないわ」
「この通り! 通例通りのことをしなければ、委縮してしまう者もいるのです! 考えなしにものを言うものではありません!」
「長容。少し姫様に当たりが強すぎるのではないか」
許南の物言いに、さすがに薛熊が口を挟むが、許南は首を振る。
「処理をしなければならないことが多いのです! それなのに、お嬢に出張られては処理するものが三倍に増えます! 多少口が過ぎようとも、お嬢には絶対に大人しくしていてもらいたい!!」
「わかった。わかったわ、長容殿。ごめんなさい、わたくしが考えなしでした。大人しくしています」
しゅん、と肩を落としながら憂いを帯びた眼差しで素直に謝る耿紀。そんな彼女の姿に許南の毒気が目に見えて抜ける。
「国難に協力しようというその思いは立派です。できれば、渝麋の兵が出陣する際に、兵たちにお声がけをしてやってください。それだけで、彼らは天にも昇る気持ちで討伐軍に従事できるでしょう」
そう言われた耿紀は花のように笑った。
そんな二人のやり取りを見て老人は秘かに思う。
(ううむ。やはり、長容殿は姫様のお相手に相応しい)
そんな老人の視線を受けて、列侯の姫は表情に出さずに思う。
(あああああ。崇恩が見つめてくる。渋くて、カッコいい目が、わたくしを! こ、興奮しないようにしないと! はしたないから!!)
そんな老人の視線を受けて少しずつ微振動をしている列侯の姫を見て短気な男は思う。
(………崇恩殿、またなんか余計なこと考えてないか? やめろよ。考えるだけでも、お嬢の心に大ダメージなんだぞ。行動に移すなよ? 言葉に出すなよ? ………………胃が痛い)
そんな三者三様の様子を見て心が折られた国尉は思う。
(崇恩殿は今日もカッコいいなぁ)
渝麋国は今日も、平和だった。
司州右扶風郡槐里県。
右扶風郡の郡治である。
皇甫嵩が前年、戦果の褒賞としてあてがわれた領地であるが、まだ実際に赴任はしていない。
右扶風郡を取りまとめている太守が赴任している地でもある。
太守は有事の際、郡内の兵を指揮する軍権をもっている。
そんな槐里県にも遅ればせながら上洛軍進軍の知らせが届いた。
太守府の太守室に県令、県丞、県尉が集まっている。
「どうなさいますか」
口を開いたのは県丞の左彪、字を恕堅という老齢の男だ。
その視線の先には壮年の男が青い顔をして縮こまっている。
この男こそ、司州右扶風郡太守・鮑鴻、字を伯和その人であった。
三十歳という若さは太守となるには早い方だ。早すぎるというわけではないが、珍しい。
太学で優秀な成績を収め、後ろ盾もない庶民の出身ながら出世をして太守になった。
政務能力は高い。
しかし、軍務能力に関しては全く経験がなかった。
そんな状況で、一郡を舞台に兵を率いなければならないなど、悪い冗談か悪夢のようだった。
しかし、そんな彼にも光明はある。
洛陽から討伐軍が進発したという情報が入ったのだ。
それを聞いた時、彼は心に決めていた。
「私たちは動かないぞ」
『は?』
鮑鴻の言葉に、室内にいた全員が唖然としたように間抜けな声を上げる。
「考えてもみろ。私には軍務経験がない。そして洛陽より討伐軍も進発している。ならば、私たちは情報を集め、討伐軍に渡し、討伐軍の将の指揮下に入るべきだ。余計なことをして賊軍を警戒させたり、兵を汧に送って無駄に兵を減らしてみろ。それが、討伐軍の想定を崩すことになりかねない。私は動かない。お前たちも動くな。各県城にも、待機の命を出せ」
その言葉に、太守室に集まった面々は一理を感じた。
感じて、しまった。
こうして、西方防御策は、詰めの段階で発動がされることはなかった。
それがどういうことかというと。
「ふん。小城よな。一思いに踏みつぶし、この新しき王が三舖侵入を果たした狼煙としてくれよう!」
汧城は援軍が来る確証もないままに、上洛軍十万と接敵することになってしまったのだ。
シーズン2の本編における右扶風郡のキャラ紹介回。
半数がもう出てこないかもしれない(泣)。
各県のキャラたちはほとんどが『ランダムキャラ作成』で性格を決めました。




