エピローグ
使節団をウルフベリングに見送った後も、ロザリンドの日々は慌ただしかった。
エランの求婚を受け入れたとまずは父に報告すれば、彼は頭を抱えて唸っていた。
そのまま父はしばらく使い物にならなかったので、代わりに兄が何かと手続きを手伝ってくれた。
そんな兄が漏らした言葉によれば、父には祖母からエランの邪魔をしないように司令が下っていたらしい。どうりで今回は随分とおとなしいと思っていたのだ。
どうも、去年のグレイン侯爵家との一悶着の際、エランと祖母の間で何やら取引があったようだ。
邪魔をしないだけで、応援をするわけでもなく静観に徹してはいたようだが、まさか祖母まで取り込んでいるとは、改めて敵の手強さを思ってロザリンドは頭痛がする気がした。
エランの仕事は速く、彼はさっさとドミヌク伯爵の問題を片付けると、まずは婚約者決定の内示を出し、秋の社交シーズンの終わりを告げる送華祭でエランとウルベルトの婚約者の正式なお披露目がされることとなったのである。
二人の王子同時の婚約発表は、随分と国を騒がせて、ウェジントン侯爵家にはお祝いのためにひっきりなしに客が訪れた。
そんな彼等に対応しながら、他の細々とした手続きをこなす毎日は忙しく、暑い夏はあっという間に過ぎていく。
王太子の婚約者ともなれば、行く行くは王太子妃、そして国の王妃である。
それだけに普通の婚約よりも何かとするべきことが多く、母が居ないロザリンドのために、祖母も手を貸してくれた。
あれやこれやを乗り越えて、ようやく訪れた送華祭の日、ロザリンドは開場前のホール横に設置された鏡の前で息を吐いた。
今日のドレスも、当然のように赤である。
もちろん、アリィシャも赤だろう。
何度着ても、エランの鮮やかな赤い髪を思い出させるこの色のドレスは恥ずかしい。
かと言って、今日はこの色以外無いだろう、とロザリンドも思うので、後は自分が本番で取り乱さないようにだけ、気をつけねば。
気合を入れ直して振り向くと、こちらへ足早に秀麗な王太子が、赤い髪を揺らしてやってくる。
彼は今日は、王族の礼装である黒い軍服だ。
黒地に赤と金で縫い取りが入っているその服は、物語の王子様のようで、彼にはよく似合っている。
そんな王子様の金色の瞳は、まっすぐこちらを向いていた。
その瞳の輝きに、ロザリンドの頬が朱に色づく。
「ローザ!今日もあなたは美しいですね!この輝きがようやく私の腕におさまるかと思うと感慨も一入です。」
そのままぎゅっと抱きしめられて、彼の頬が頭に擦り寄せられる。
エランと会ったのはつい数日前だが、なんだかこの体温は久しぶりな気がする。
ロザリンドが彼の求婚に頷いて以来、彼はスキがあればこうやって抱きしめてくるので、ロザリンドもさすがにもうこれだけでは取り乱したりしない。
「エラン様、髪が乱れてしまいますわ。こういうことは終わってからになさってくださいませ。」
少しばかり彼の体温を堪能したのち、満足したロザリンドは文句をいいながらエランの胸を押した。
すると彼は素直にその腕をといて、にっこりと笑う。
「すみません。嬉しかったもので。でもそうですね、楽しみは後にとっておかないといけないでしょうね。美しいあなたを見せびらかしたいですし。」
上機嫌にそう言いながら、彼は腕を差し出してきた。
それに手を乗せれば、嬉しそうな笑顔を見せて主催席のほうへエスコートしてくれる。
そこには、やはり赤いドレスを着たアリィシャと、近衛騎士団長の礼装である白の軍服のウルベルトがすでに立っていた。
「ローザ!」
嬉しそうに手をふってよこす親友に、ロザリンドも手を振れば、彼女はこちらへ歩み寄ってきた。
「ふふ、今日も綺麗ね。さすがだわ。今日はお互いがんばりましょうね。」
「ありがとう。あなたも素敵よアリィシャ。良かったですわね、ようやく婚約ができることになって。」
「ええ!ローザのおかげよ。…それとも王太子殿下かしら?でも、私昨日は緊張して眠れなかったわ…。目の下、クマになってないかしら?」
「まあ、大丈夫ですわよ。だけれど、睡眠不足は大丈夫ですの?夜会の間に寝てはダメですわよ?」
「…気をつけるわ。私、前科があるから。」
アリィシャは、どうもウルベルトの腕の中にいると安心して寝落ちしてしまうことがよくある。
ロザリンドとしてはよくあの腕の中で安心できるものだと思うのだが、結局今日までウルベルトは彼女の信頼を裏切らなかったので、アリィシャのほうが正しかったということか。
…いや、この親友は何も考えていないに違いない。
「ロザリンド嬢、久しいな。今日はよろしくたのむ。」
自分の手を離れていったアリィシャの腰を抱き寄せながら、ウルベルトがにっこりと会釈する。
彼とは、使節団が帰国し、ロザリンドも家に帰ってからはあまり顔を合わせていない。
まあ王子というものは忙しいものなので、個人的な用事が無ければ当然である。
「ええ、よろしくお願い申し上げます。ウルベルト殿下も本日はおめでとうございます。ようやくですわね。」
「ああ、めでたいのはお互い様だな。本当に長かった…。」
今までの忍耐の日々を思ってか、ウルベルトがふう、と重い息を吐く。
彼とアリィシャが心を交わしたのは春の社交シーズンが始まる開華祭の時だったのだから、たっぷり1シーズン分の重さだろう。
とは言え、予定ではさらに来年の春まで待たなくてはいけなかったのだから、彼の耐え忍ぶ季節は随分早めに終わりを告げたことになる。
「ふふふ、私に感謝していいぞウルベルト。どうだ、言ったとおりになっただろう。兄を敬え。」
自分もロザリンドの腰を抱き寄せながら、エランが得意げに胸をはった。
なにをどう言っていたんだか、と思うロザリンドの前で、ウルベルトが眉を寄せる。
「どの口が言うんです。まったくハラハラとしましたよ。回りくどいことばかりなさるものだから!」
「馬鹿め、お前のようにまっすぐ行っては捕れる魚も逃してしまうわ。キースが居なかったら今頃どうなっていたかわからないんだからな。反省しろ。」
「キースですか?」
「お前もう少しあの補佐官を大事にしてやれよ。奴が居なかったら今頃お前の机は書類の山だぞ。」
「まあ…それはそうですが。兄上もグレイン子爵をもう少し労っては。」
「十分労ってる!あれは私の可愛がりだよ。奴はすぐキースに追いつくぞ。」
クライムは、相変わらず忙しい王太子の横で同じく忙しそうにしている。
おかげで最近あまり社交の場には出ていなかったが、それをセレスに手紙で伝えたところ、『そのまま忙しくしていてくれていいわ』と返事がきたのを思い出す。
忙しくしていても、ちゃんとセレスに手紙は送っているようで、彼女からの手紙には、そんな二人のやりとりを喜ぶ報告が度々見られた。
一応クライムは次期侯爵ではあるが、さすがに一国の王女を嫁にもらうとなれば何かと問題もあるだろう。
なにより、セレスの後ろにはあのロランジュと、さらに第二王子もいるのである。
無邪気に喜ぶセレスの手紙を見ながら、クライムの今後の苦労のこともロザリンドは思わずにはいられなかった。
しかし、もしセレスが竜王国に嫁いできたなら、ロザリンドにとっては嬉しいことだ。
彼女は帰国の挨拶の時、「王女殿下じゃなくてセレスでいいわ!私達もうお友達よね!」と言って、ロザリンドの手をぎゅっと握ってくれた。
ロザリンドには、女友達が諸事情により大変すくない。
だからこそ、まっすぐこちらを見つめてくる彼女の言葉は、素直に嬉しかった。
また、アリィシャやベリンダと共に、彼女とお茶を飲みたいものである。
「まあまあ貴方達!そろそろじゃれ合うのはおやめなさい。もうすぐ開場よ。」
相変わらずやいやいと言い合っていた王子二人の声に、穏やかな貴婦人の声が割り行った。
見れば、王妃が国王と腕を組んでこちらへやってくる。
「王妃様、本日はよろしくお願いいたします。」
そう言って、ロザリンドとアリィシャが淑女の礼をすると、彼女は少女のような微笑みを浮かべて頷く。
「ええ!もちろんよ。ああ、本当に素晴らしいわね!わたくしがんばったかいがありましたわ。ねえ陛下。」
「そうだな、息子二人の横にこのように美しい華が咲くとは、めでたいことだ。ふふ、あなたが私の横に咲いてくれた日のことを思い出すな。」
王妃が国王の腕に寄りかかれば、王も嬉しそうに一つ頷く。
その言葉に、王妃は頬を染めて彼を見上げた。
「まるで昨日のことのようですわ。陛下、あの日からわたくし、心は一つもかわっていませんわ。」
「嬉しいね。私も同じだ。」
国王の金色の瞳が、王妃を見下ろして蜂蜜色になる。
ああ、本当、そっくりなご家族だわ…とロザリンドが思っている横で、アリィシャは目を輝かせていた。
「素敵ね。私もあんなご夫婦になりたいわ。」
「わたくしはちょっと……自信がありませんわ。」
先日、自分の気持ちを短く伝えるだけでも一杯一杯だったのである。
人前で、こんなに堂々と愛の言葉を言えるようになるものかとロザリンドが首をひねると、腰を抱いていたエランの腕が、ロザリンドをその胸に抱き寄せた。
「ふふ、私達は私達らしい夫婦になればいいですよ。」
「まあ、そうですわね。」
そのまま、また頭に頬を寄せようとする彼の顔に、扇子をあてて押し返す。
髪が乱れるといったでしょう、と視線でたしなめれば、彼は楽しそうな笑顔を浮かべてロザリンドを抱き寄せた腕の力を緩めた。
〇・〇・〇・〇・〇
婚約発表に、最初のダンスを終え、夜会はつつが無く進行した。
ここ数ヶ月飽きるほど聞いたお祝いの言葉に答えているうちに、もう終盤である。
横でアリィシャの淡い金色のまつ毛が、重そうに瞬くのを視界の端にとらえながら、ロザリンドも随分と疲れてきていた。
そこへ、亜麻色の髪の青年と、夜空のような色のドレスを着た、黒髪の令嬢がやってくる。
ラフィルと、ベリンダである。
ベリンダは近衛の制服を着ているところばかり見ていたせいで、こうやってドレスを着て着飾っていると、なんだか別人のように感じる。
先日フェリンド邸で行われた二人の婚約披露パーティーで初めてその姿を見た時は、本当に彼女があのベリンダなのかと二度見したくらいである。
「王太子殿下、ウルベルト殿下、本日はおめでとうございます。ウルベルト殿下、妹をよろしくおねがいします。」
ラフィルがにっこりと祝辞を述べながら、礼をする。
その横で、ベリンダも淑女の礼をした。その姿勢はなかなかに様になっているのだから驚きだ。
「どうもありがとう。義理兄上、どうぞ今後もよろしくたのむ。」
「畏れ多いことです。リィシャ、ほら、しっかりしろ。ウルベルト殿下に恥をかかせちゃいけないよ。」
「そ、そうねお兄様。どうもありがとう。」
ラフィルがぼんやりとしていたアリィシャに声をかけると、彼女は姿勢を正して淑女の礼を返した。
その様子を、ベリンダがニヤニヤと見つめている。
「ふふふ、よくいうものですね。我が婚約者殿はさきほどまで随分と難しい表情をしていたんですよ。そのままの顔で挨拶に行くんじゃないかとヒヤヒヤしました。」
「そういうことは君に言われたくないな…。仕方がないじゃないか。妹が二人同時に攫われていくんだよ。両王子殿下には申し訳ないが、心中穏やかとはいかないだろう。」
「ふふ、そうですね、ラフィル殿には随分と私の婚約者がお世話になりましたので…。ご安心ください。他の誰よりも幸せにするとお誓いしますよ。」
ベリンダの言葉に眉を下げたラフィルに向かって、エランが柔和な笑みの下から冷気を放つ。
なんだかこの光景はものすごく久しぶりだ。
「ははは、ご安心ください王太子殿下。この男は私が見張っておきますので!」
「ええ、仲がよくてよろしいことですね。」
思わず身をひいたラフィルの肩を抱いて、ベリンダが胸を叩く。
しかし男女逆のその体制は、ラフィルには許容できなかったのか、彼女の腕を自分の肩から下ろすと、あらためて彼がベリンダの肩を抱いた。
この二人は、本当に見ていて飽きない。
「いやあ、しかしこれで私の役目も終わりますね。婚約者ともなれば最後までいかなければOKですから!あとは姫に自分の身を守ってもらいましょう!」
「ベリンダ…!やめなさい。淑女がこんな場でそんな発言をしてはいけないよ。」
「おっと、申し訳ない。」
慌てて婚約者の口を制するラフィルに、悪びれた様子もなくベリンダが笑う。
ルミールは使節団が帰った後、さっさと王立騎士団に戻ったが、ベリンダは今も近衛騎士として働いている。
そしてロザリンドとエランが顔をあわせる度に横に居て、エランとロザリンドを見守っていてくれた。婚約後も彼女はロザリンド付きの近衛となる予定である。
しかし今後は彼女の仕事にストッパーとしての役割は含まれ無くなるのかということに思い至り、ロザリンドが顔を赤くさせた横で、サラ、と赤い髪が揺れた。
「なるほど、たしかにそうですね。」
「エラン様!」
不穏なつぶやきを漏らした王太子をたしなめるような視線で睨み上げると、彼は蜂蜜色の瞳でこちらを見下ろし、にっこりと深く微笑む。
「ローザ、疲れていませんか?」
「いえ、大丈夫ですわ。」
実際は少し疲れていたが、ここで正直に言ってはいけないということは火を見るより明らかである。
気持ち、エランから身をひいてロザリンドが答える。
その返事に、彼は金色の瞳を宙にぐるりと回して何かを考えた。
そしてまた蜂蜜色の瞳が降りてきて、にこっと笑う。
「ふむ、しかし私は疲れました。休憩室に行きましょう。」
ロザリンドの返事の内容は、どちらでも同じだったらしい。
「エラン様、主催が席を立ってはいけませんわ。」
「大丈夫ですよ!もう終わるところですし、こういうものは主役が居なくても進むものです。結婚式なんかもそうでしょう?」
「いえ、それとこれとは…きゃあっ」
主役では無く主催である。
首をふるロザリンドを、エランの腕が抱き上げて、彼女の足は床を離れた。
鮮やかな赤いドレスがふわりと視界を舞って、ロザリンドの顔も赤くなる。
思わずベリンダを見ると、彼女はにっこりと爽やかな笑みを浮かべて手をふっている。
相変わらずムカつく!!
「では、失礼しますよ皆さん。どうぞ最後まで楽しんでいってください。」
「ちょっと待て兄上!ずるくないか?」
「ははは、ベルト、こういうのは早い者勝ちだ。兄に譲れ。あとは頼むぞ。」
もっともな抗議の声をあげるウルベルトに、エランは爽やかに笑いながらホールの出口へ向かった。
ロザリンドが助けを求めるように後ろを見れば、そこには少し赤い顔のアリィシャとウルベルト、そして楽しそうなベリンダに苦笑しているラフィルが居て、その後ろでは王妃様がキラキラした瞳で手を振っていた。
助けが居ないことを察してロザリンドはエランの金色の瞳を睨みあげた。
こうなったらベリンダの言う通り、自分で身を守るしか無い。
「エラン様、下ろしてくださいませ!ベリンダが言うことは少し極端ですわ。民の模範となるべき王太子殿下がこのようなことをなさってはいけません。」
「ふふ、そうですね。でもすみません。もう逃して差し上げられませんよ。ようやく薔薇が、私の懐中に咲いたのですからね。」
エランの胸を押しながら、抗議の声を上げると、彼は上機嫌な様子で笑う。
いつもであればロザリンドが拒否をすればすぐに離れるその腕は、今日はまったくびくともしない。
彼は優雅に歩を進めているように見えるのに、一体どこにこんな力があるのかとロザリンドは内心で首をひねった。
「でも…まだ婚約だけで、婚姻を結んだわけではございません。こういうことは節度を持って…。」
「ええ。大丈夫です。その辺は心得ていますからご安心ください。あなたの心や評判を傷つけたりはしませんよ。ただちょっとギリギリを攻めるだけです。」
「まったく安心できませんわ!」
ギリギリって一体どのへんまでなのか!
一応、ロザリンドだって貴族の令嬢として、その辺の知識はあるが、どこからどこまでが婚約中のOKラインかなどといった記述があるような教本など無い。
エランの中の線引きがまったく予想がつかなくて、ロザリンドはもう一度彼の胸を押した。
しかしやはり、びくともしない。
ひとしきりそんな抵抗をした後、いささか疲れたロザリンドは、一体どうしたものかと考えながら、エランの胸に寄りかかった。
そんな彼女の頭に、エランがすり、と頬を寄せる。
もう夜会に戻らないだろうから、乱れても問題ない。
エランの好きにさせながら、ロザリンドはため息をついた。
後でベリンダには何か仕返しをしよう。
そんなことを考えるロザリンドの耳に、エランの心音が聞こえる。
幾分か早い気がするそれは、なんだかとても安心する音だった。
後で思い返せば、それは間違いだったと思うのだが、夜会疲れも手伝って、この時ロザリンドはつい、その心地よい心音に、油断してしまった。
「ローザ、見てください。月が綺麗ですよ。」
ふいに柔らかい声で呼びかけられて視線を上げる。
そこには金色の瞳が、銀の月明かりに照らされて、夜空を仰いでいた。
その金の視線の先にロザリンドも目を向ければ、秋の澄んだ空気の中に、満月がひんやりと清廉な光を落としている。
遠くに聞こえる夜会の賑やかな音が、今いる場所の静けさを際立たせて、ロザリンドは息を吐いた。
「本当、綺麗ですわね。」
ここ数ヶ月、本当に騒がしかった喧騒から外れて、なんだか二人きりの世界に足を踏み込んでいる気分だ。
そういえば、エランと二人だけになるのは初めてではないだろうか。
まあ、婚約前の男女が二人っきりになるなんてありえないのだから当たり前なのだが。
不意に、ロザリンドの上に注がれていた銀の月明かりが陰った。
ロザリンドの視界に、銀の代わりに赤と金が降ってきたかと思うと、唇に柔らかいものがあたる。
それがなんの感触なのか、理解が一瞬遅れたロザリンドの耳に、ちゅっという音が響く。
その音に、何が起こったのか思い至って驚きに思わず小さく開かれたロザリンドの唇の隙間から、温かいものが押し割って口内に忍び込んできた。
触れ合った唇で、彼女の口を押し開くと、その柔らかい侵入者はロザリンドの舌を絡め取りながら優しく口内をなで上げる。
「ん、ふっ」
初めてな上に深いその口づけの感触に甘えるような声が漏れて、ロザリンドは思わず身を引こうとした。
しかしすでに身体は横抱きにされていて、踏ん張る場所など無い。その腕がエランの胸を押しただけで、彼の身体はやはりびくともしなかった。
逆に、口づけを深めるように、エランの腕がロザリンドをさらに抱き寄せる。
そのまま、しばらく逃してもらうことも叶わず、口の中をゆるりと柔らかい感触が舌を絡めて動く度、酸素が届かなくなってふわふわと頭がしびれ、ぞくぞくと背を這う感触が、胸を疼かせた。
「ふぁっ」
ロザリンドの身体を抱き上げていたエランの指が、ついっと胸の横を滑った。
それだけのことなのに、その感触がびりびりと得体の知れない甘い衝撃を伝えて、びくりと肩が跳ね、抑えきれなかった声が口からもれる。
ロザリンドがその驚きに白い手でエランの胸を打つ。
そこでようやく、赤と金が視界から離れて、銀の月明かりがぐったりとしたロザリンドの顔の上に再び降り注いだ。
肩で息をしながら、不本意ながら頭をエランの胸にもたれかけ、しばらくぶりに空気を吸い込む。
秋のひんやりとした空気が、肺に収まり、火照った身体を覚ましながら、その熱をともして口から漏れ出る。
悔しいことに、さきほどの口づけのせいで全身から力が抜けてしまったようで、このままでは下ろしてもらっても一人で歩けそうに無い。
運ばれるしかなくなってしまい、それが狙いなのかとぎりりと歯噛みしながら、涙が滲んだ瞳で睨み上げると、そこにはあんな不埒なことをしたというのに少年のようなはにかんだ笑顔があった。
「すみません、待ちきれませんでした。」
「…もう!」
少年のような笑顔で、しごく嬉しげにそんな事を言ったエランに、怒る気もうせてロザリンドはもう一度彼の胸を叩いた。
そんな彼女の顔を見て、エランの足が、歩を早めた気がした。
「エラン様!薔薇は日の光にあてなければ枯れるものですわ!つ、月明かりでもかまいません。もう少しゆっくり参りましょう!」
「…そうですね。努力しますが…。今日は無理そうですね。なにせ、三年越しの悲願ですから。」
慌ててもう一度止めようと試みるロザリンドの言葉に、エランは苦笑しながら首をふる。
三年前と言えば、ロザリンドが十三の頃だ。
それはエランが、ロザリンドに会いにわざわざ四日かけてウェジントン侯爵家を訪れた時のことだろう。
「…ということはやっぱりあの初対面の時からですの?一体何がエラン様の琴線に触れたのか、わたくしちょっとよくわかりませんわ!やっぱり特殊なご趣味をお持ちなの?」
「ふふ、そうではありませんが…。随分苦労しました。なにせ去年はあなたは私のことなんてちっとも見てくださいませんでしたからね。」
チラ、と金の瞳がエランの腕の中のロザリンドに向けられる。
その視線が去年の己の素行を攻めているように感じて、ロザリンドはぐっと詰まった。
あの行いについてはこちらにも色々と言い分はあるのだが、たしかに彼の話をよく聞かずに追い払っていたことに関しては反省している。
「しかし私のほうこそ興味がありますね。まさかあなたからあのようなことを言っていただけるとは思いませんでしたから。何があなたの琴線に触れたんですか?」
サラ、と視界の隅で赤い髪がすべる。
あのようなこととは、例の告白のことであろうか。
あの告白をしたのはエランがセレスに取られてしまうと思ったからだが、そういうことが聞きたいわけでは無いだろう。
そういえば、自分でもあまり考えたことは無かったように思う。
ロザリンドは口に手を当て、自分の胸の内の答えを探した。
たぶん、答えは一つではない。しかしあえて挙げるとするならば。
「……そうですわね……。書類を確認する時のまつ毛かしら……。」
「…は?」
ロザリンドの言葉に、エランの足が止まった。
見上げれば、彼は片眉を上げ、何を言っているのかよくわからない、と言った表情をしている。
いつもなんでもお見通しのようなすました顔をしている彼が、こんな表情をするなんて、随分愉快だわ、とロザリンドは思わず口角を上げた。
「エラン様はいつも笑顔をお顔に貼り付けていらっしゃるでしょう?でもお仕事で書類を確認なさる時は真面目なお顔なのですもの。真摯な眼差しで書類に視線を落とされた時に、伏せられるまつ毛がわたくし、好きですわ。」
初めてみるエランの表情に、機嫌よくすましてロザリンドがそう解説すると、エランの顔が赤くなる。
先日の使節団を送る夜会以来、この顔を見るのは二度目である。
あの日胸中に渦巻いた感情が、また胸を満たすのを感じながらロザリンドはにっこりと微笑んだ。
エランには言わないが、普段余裕な彼の顔が自分の行いで赤くなるところも、ロザリンドは好きなのだ。
「ふむ…。どうやら私もクライムのことは言えなかったようですね。どうもまぐれ当たりがあったようです。」
「グレイン子爵が何かおっしゃっておりましたの?」
眉を寄せ、首をひねりながら唸るエランに、ロザリンドは首をかしげる。
その問いに、エランはこちらを見下ろしてから、胡散臭い笑顔で微笑んだ。
「秘密です。」
「どういう……」
何か隠し事の気配に、更につっこんでロザリンドが聞こうとしたところで、またエランが歩みを再開する。
月明かりに照らされた柱の影が自分を横切っていくのを見て、そういえば自分が運ばれていたことを思い出したロザリンドは慌てた。
もう立てないなどと言っている場合では無い。
「エラン様!わたくし、まだわたくしの何がエラン様の琴線に触れたのかお聞きしておりませんわ!」
「それは長くなりそうなので…。じっくりお話しましょう。」
「お話するのは構いませんから、どうぞ下ろしてくださいませ!花は横に咲かせるものだと申し上げたでしょう!」
もう一度、胸を押したロザリンドの前に、サラリと赤い髪の毛が垂れて、それを追うようにエランの顔が眼前に降りてきた。
さきほどの胡散臭い笑顔は消えて、その顔には蜂蜜色の瞳が、蕩けるような甘い微笑を浮かべて銀の月明かりの中に輝いている。
本当のところを言えば、この顔も、ロザリンドは好きである。
うるさいくらいの自分の鼓動に、思わず息を詰めて見入っていると、エランの薄い唇から、ささやくような声が漏れた。
「忘れてしまったのですか?私も何度も申し上げましたよ。竜は求めるものを懐中に収めるものですから。あなたが咲くと言ってくださったのは、私の横では無く腕の中でしょう?」
「うっ、う…!?」
狸が最後には竜に化けた。
サラ、と赤い髪を揺らして、優しくおでこに口づけを落とし、また離れていった蜂蜜色の瞳に、ロザリンドが翻弄されている内に景色が移り変わっていく。
エランの足が、回廊を抜け、階段を上り、サファイア妃とエルランド王が見守る廊下を曲がって、赤い絨毯の上を行く。その先に見えてきたのは、彼の自室だ。
「…休憩室じゃありませんでしたの!?」
「話せば長い話なので、時間が足りないと判断しました。」
そんな会話をする二人の前で、近衛が扉を開く。
秋の夜長が、東雲の幕で閉じるのは、まだしばらく先である。
良い子の皆さん。お話をするだけですよ。
ここまで読んでいただき大変ありがとうございました!
妖精姫から読んで頂いていた方、このお話から読んで頂いた方、とにかくたくさんの方のお時間を頂き、本当にありがたく思っております。
今回はお話を仕上げることに一杯一杯で続く番外編などはありませんので、ここで完結となります。
彼等の今後についてはまた思いついた時にでも足せればなー…と。
また皆さんとお会いできることを願っております!




