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ヒソヒソという不躾な噂話と、嫉妬や好奇の視線。
元婚約者のフェリクスが逮捕され、コルネリウス商会が強制捜査を受けたというニュースは、すでに王都中に広まっていた。そして、その原因となった「仕事狂いの地味な男爵令嬢」が私であることも。
私が背筋を伸ばし、カイウス様の腕に静かに手を添えて歩いていると、人ごみをかき分けて一人の女性が立ち塞がった。
華やかなピンクのドレスに身を包み、濃い化粧を施した美しい令嬢。
……リウィア・フォン・子爵令嬢だ。
かつてフェリクスが「昔の恋人」として名前を挙げ、私を煽るために使おうとした女性だった。
「お久しぶりですわ、レティシア様。……まさか、このような高貴な場所でお目にかかるとは思いませんでしたわ」
リウィアは扇子で口元を隠しながら、甲高い声で言った。その瞳には、あからさまな蔑みと怒りが宿っている。
フェリクスが拘束され、彼の後ろ盾を失ったことで、彼女もまた社交界での立場を失いかけているのだ。その腹いせを私に向けようとしているのは明白だった。
「初めまして、リウィア様。ご挨拶申し上げます」
「あら、覚えていらしたのね? フフ、フェリクスからよく聞いておりましたわ。『うちの婚約者はドレスの一着も新調できない貧乏人で、手はインクで汚れ、色気も可愛げもない泥臭い女だ』とね」
広場に忍び笑いが漏れた。
リウィアは調子に乗ったように、さらに声を張り上げた。
「フェリクスに見捨てられ、お金に困って今度はシルヴィウス公爵閣下にすがりついたのですか? 哀れなことですわ。いくら立派なドレスを着飾っても、育ちの低さと、男を男とも思わない可愛げのなさは隠せませんことよ。閣下も、こんな女に騙されてお可哀想に……」
リウィアの嘲笑に、周囲の貴族たちも同調するようにニヤニヤと笑い始めた。
地方の没落貴族が、王国最高の公爵に乗り換えた「毒婦」として、私を仕立て上げようとしているのだ。
だが、私は取り乱さなかった。
かつての私なら傷つき、下を向いていたかもしれない。
けれど今の私には、泥に塗れて掴み取った誇りと、守るべき領民がいる。
私が言い返そうと口を開かけた、その時だった。
ドォン!!
激しい地鳴りのような威圧感が、大広間全体を叩きつけた。
温度が数十度下がったかのような、錯覚を覚えるほどの強烈な殺気。
カイウス様が、静かにリウィアを見下ろしていた。
その翡翠色の瞳は、完全に凍てつき、まるで虫ケラを見るかのような冷酷さに満ちていた。
「ひ……っ!?」
リウィアが短い悲鳴を上げて一歩後退る。周囲の貴族たちも、一瞬で顔色を失って静まり返った。
「……誰の許しを得て、私の婚約者に言葉を向けている?」
カイウス様の声は、低く、低く、広間の隅々にまで響き渡った。
「『貧乏で泥臭い』だと? 貴公らのような、民の血税で肥肥と太り、見栄と虚栄のためにしか時間を潰せない無能どもが、何を抜かすか」
カイウス様は氷のような視線で、リウィアと周りの貴族たちを射抜いた。
「レティシア・ヴァレリウスは、己の知恵と労働で崩壊寸前の領地を立て直し、国の財政に貢献する事業を興した、稀代の傑物だ。彼女のその手は、民の命を救うための名誉の手だ。……貴公らのように、男の庇護を貪るためだけに飾られた虚飾の手とは、根本的に価値が違う」
「か、閣下……! 私はただ、忠告を……!」
「黙れ」
一言で、リウィアの言葉を叩き潰す。
「我がシルヴィウス家、並びに王立監査院は、フェリクス・コルネリウスの不正取引に関与した者たちのリストをすでに作成している。……リウィア子爵令嬢。貴公の家も、コルネリウス商会から不当な利益供与を受けていた疑いがあるな?」
「なっ……! ぜ、そんな……!」
「明朝、監査官を派遣する。破滅の準備をしておくといい」
冷徹な死刑通告。
リウィアは顔を真っ青にし、ガタガタと震えながらその場に崩れ落ちた。誰も彼女を助けようとはしない。
カイウス様は満足そうに鼻で鳴らすと、周囲の貴族たちに向き直り、堂々と宣言した。
「いいか、者ども! レティシア・ヴァレリウスは、私が生涯をかけて愛し、敬う唯一の女性だ! 彼女に対する無礼は、私、並びにシルヴィウス公爵家に対する宣戦布告と見なす! 肝に銘じておけ!」
大広間全体が、息を呑む音で包まれた。
あの『氷結の処刑人』が、一人の女性のためにこれほどまでに激高し、公の場で愛を宣言するなど、誰が想像できただろう。
カイウス様は私に向き直ると、その凶悪なまでの冷徹さを一瞬で消し去り、心底愛おしそうな笑みを浮かべた。
「……待たせたな、レティシア。不快なゴミの清掃は終わった。行こう、陛下がお待ちだ」
「……はい、カイウス様」
私は誇らしく胸を張り、彼の腕を強く握り返した。
見下していた者たちの羨望と恐怖の視線を背に受けながら、私たちは玉座へと続く階段を上っていった。
──
玉座の間での謁見は、大成功だった。
国王陛下は、私が提出した『銀嶺草の栽培事業計画』と、薬師ギルドとの契約を非常に高く評価された。
さらに、不正を働くコルネリウス商会の悪行を暴き、自立を果たした我がヴァレリウス家に対し、男爵家から『子爵家』への昇格と、豊富な開発助成金を下賜してくださったのだ。
「レティシア・ヴァレリウス子爵代理。そ知の努力と勇気に賛辞を贈る。そしてカイウス……よい妻を得たな」
白髪の国王陛下のお言葉に、カイウス様は誇らしげに深く礼をとった。
「勿論でございます、陛下。私の目に狂いはございません」
──
夜会が終わり、月光が降り注ぐ宮殿の空中庭園。
喧騒から離れた静かなテラスで、私とカイウス様は二人きりで風に当たっていた。
夜風が私のドレスの裾を優しく揺らす。
「疲れたか、レティシア?」
「いいえ。……なんだか、夢を見ているようですわ」
私は夜空に浮かぶ双子の月を見上げた。
ほんの数週間前まで、私は古い執務室で一人、冷めたハーブティーを飲みながら、絶望的な帳簿と戦っていたのだ。
婚約者に捨てられ、破産寸前で、誰にも頼れなかった私。
それが今では、領地は救われ、弟は未来への道を歩み始め、私は子爵となり……そして、世界で一番強い人に愛されている。
「夢などではない」
カイウス様が後ろから私を抱きしめた。
背中に伝わる彼の体温。首筋に触れる彼の唇。
「すべて、君が己の手で掴み取った現実だ。私はただ、君という宝石を見つけ出し、支えたに過ぎん」
「カイウス様……」
カイウス様は私をクルリと向き直らせると、ポケットから一つの小さなベルベットの箱を取り出した。
箱が開かれると、そこには月光を浴びて青白く輝く、見たこともないほど巨大で美しいダイヤモンドの指輪が収められていた。
「これは……」
「シルヴィウス公爵家に代々伝わる『氷華の指輪』だ。……本当の婚約指輪として、君に受け取ってほしい」
カイウス様は私の左手を優しく取り、薬指にその指輪を滑り込ませた。
サイズは、驚くほどぴったりだった。彼が私の眠っている間に、そっと測っていたのだと気づき、胸が熱くなる。
「レティシア」
カイウス様が、真っ直ぐに私の目を見つめた。
その翡翠色の瞳には、もう氷など欠片も存在しなかった。そこにあるのは、私を溶かすほどの深い愛だけだ。
「私の命が続く限り、君を守り、敬い、愛し続けると誓う。……私と結婚し、私の生涯の伴侶となってくれるか?」
命令ではない。
一人の男としての、切実で、誠実な求婚。
私の目から、歓喜の涙が溢れ出した。
言葉はいらなかった。私は彼の首に腕を回し、つま先立ちになって、自ら彼の唇に重なった。
「ん……っ」
甘く、深い口付け。
カイウス様は愛おしそうに私の腰を強く引き寄せ、何度も、何度も口付けを重ねてくれた。
夜風の冷たさなど感じないほど、私たちの体は熱く結びついていた。
「……答えてくれないのか、レティシア?」
唇を離したカイウス様が、意地悪そうに微笑みながら私の額に自分の額を寄せた。
私は泣き笑いの表情で、溢れる想いを言葉に乗せた。
「……はい! 謹んで、お受けいたします……カイウス様! 私を……あなたの妻にしてください!」
双子の月が、愛し合う私たちを優しく照らしていた。
すれ違い、捨てられた過去の恋。
泥に塗れながらも諦めなかった日々。
そのすべてが、この最高で、最愛の結末へと繋がっていたのだ。
私と『氷結の公爵様』の紡ぐ物語は、これから最高の幸せとともに、永遠に続いていくのだった。




