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八百万荘の神様候補  作者: 脇汗ベリッシマ
1/9

名前を奪われた勇者

貧乏な村だった。


畑は痩せ、冬は長く、

鍋の底を掻き回しても湯しか鳴らない夜があった。


それでも、笑い声はあった。


「ユウ!」


母の声は、いつも明るかった。


「お前はなぁ、優しくなれよ。名前の通りに」


父は不器用に頭を撫でた。

幼馴染の少女は泥だらけで笑った。


その名は、この村では当たり前に呼ばれていた。



「お前が勇者? 冗談だろ」


王都の使者は笑わなかった。


冷たい声で告げた。


「神託が下った。お前だ」


「……ユウです」


思わず名乗った。


使者は一瞬も興味を示さなかった。


「勇者、出立せよ」


その日から、

名前は消えた。



村人たちは最初は喜んだ。

やがて、沈黙した。


母は笑えなくなった。

父は酒を飲んだ。

幼馴染は何も言わなかった。


夜、家を出るとき。


母の指が、袖を掴んだ。


「……生きて帰ってきなさい、ユウ」


それが最後だった。


勇者は振りほどいた。


振りほどかないと、行けなかった。


背後で何かが壊れる音がした。


振り返らなかった。


振り返ったら、

“ユウ”に戻ってしまう気がした。



王都は地獄だった。


勇者候補に与えられたのは栄光ではない。


鉄と血と罵声。


「立て」

「遅い」

「死ね」


「勇者!」


呼ばれるのはそれだけ。


訓練記録板。


番号十二。

神託対象:勇者。


氏名欄は空白だった。


誰も聞かない。

誰も呼ばない。


夜、布団の中で震えながら、

自分の名を小さく呟いた。


「……ユウ」


声に出した瞬間、

涙が出た。


次の日から、言わなくなった。



そして今。


空は黒く裂け、

大地は抉れ、

仲間の悲鳴が遠くで弾ける。


魔王は目の前にいた。


その眼は底なしだった。


「勇者」


低い声。


勇者は笑う。


「こっちも終わらせに来た」


剣がぶつかる。


火花が散る。


肉が裂ける。


血が飛ぶ。


踏み込む。


斬る。


斬られる。


痛みはもう、遠い。


魔王が踏み込む。


勇者も踏み込む。


躊躇はなかった。


剣が腹を裂く。


同時に、鉄が自分を貫いた。


鈍い衝撃。


血が喉から溢れる。


膝が折れる。


魔王の顔が、やけに近い。


同じ場所を貫かれている。


「……は」


魔王が笑った。


その目が、静かに揺れた。


そして、言った。


「……ユウ」


世界が止まる。


勇者の呼吸が、一瞬止まる。


なぜ。


なぜ、その名を。


魔王は血を吐きながら、かすかに笑う。


「俺も……奪われた」


痛みより先に、思い出が来た。


痩せた畑。

母の声。

「ユウ」と呼ぶ響き。


あぁ。


まだ、残ってたのか。


血がこぼれる。


「ははっ……」


声にならない。


後悔しかねぇよ。


でも。


戦ったことだけは、嘘じゃない。


視界が白に溶ける。


最後に聞こえたのは、


もう一度だけ。


「……ユウ」


――世界が、切れる。


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