名前を奪われた勇者
貧乏な村だった。
畑は痩せ、冬は長く、
鍋の底を掻き回しても湯しか鳴らない夜があった。
それでも、笑い声はあった。
「ユウ!」
母の声は、いつも明るかった。
「お前はなぁ、優しくなれよ。名前の通りに」
父は不器用に頭を撫でた。
幼馴染の少女は泥だらけで笑った。
その名は、この村では当たり前に呼ばれていた。
⸻
「お前が勇者? 冗談だろ」
王都の使者は笑わなかった。
冷たい声で告げた。
「神託が下った。お前だ」
「……ユウです」
思わず名乗った。
使者は一瞬も興味を示さなかった。
「勇者、出立せよ」
その日から、
名前は消えた。
⸻
村人たちは最初は喜んだ。
やがて、沈黙した。
母は笑えなくなった。
父は酒を飲んだ。
幼馴染は何も言わなかった。
夜、家を出るとき。
母の指が、袖を掴んだ。
「……生きて帰ってきなさい、ユウ」
それが最後だった。
勇者は振りほどいた。
振りほどかないと、行けなかった。
背後で何かが壊れる音がした。
振り返らなかった。
振り返ったら、
“ユウ”に戻ってしまう気がした。
⸻
王都は地獄だった。
勇者候補に与えられたのは栄光ではない。
鉄と血と罵声。
「立て」
「遅い」
「死ね」
「勇者!」
呼ばれるのはそれだけ。
訓練記録板。
番号十二。
神託対象:勇者。
氏名欄は空白だった。
誰も聞かない。
誰も呼ばない。
夜、布団の中で震えながら、
自分の名を小さく呟いた。
「……ユウ」
声に出した瞬間、
涙が出た。
次の日から、言わなくなった。
⸻
そして今。
空は黒く裂け、
大地は抉れ、
仲間の悲鳴が遠くで弾ける。
魔王は目の前にいた。
その眼は底なしだった。
「勇者」
低い声。
勇者は笑う。
「こっちも終わらせに来た」
剣がぶつかる。
火花が散る。
肉が裂ける。
血が飛ぶ。
踏み込む。
斬る。
斬られる。
痛みはもう、遠い。
魔王が踏み込む。
勇者も踏み込む。
躊躇はなかった。
剣が腹を裂く。
同時に、鉄が自分を貫いた。
鈍い衝撃。
血が喉から溢れる。
膝が折れる。
魔王の顔が、やけに近い。
同じ場所を貫かれている。
「……は」
魔王が笑った。
その目が、静かに揺れた。
そして、言った。
「……ユウ」
世界が止まる。
勇者の呼吸が、一瞬止まる。
なぜ。
なぜ、その名を。
魔王は血を吐きながら、かすかに笑う。
「俺も……奪われた」
痛みより先に、思い出が来た。
痩せた畑。
母の声。
「ユウ」と呼ぶ響き。
あぁ。
まだ、残ってたのか。
血がこぼれる。
「ははっ……」
声にならない。
後悔しかねぇよ。
でも。
戦ったことだけは、嘘じゃない。
視界が白に溶ける。
最後に聞こえたのは、
もう一度だけ。
「……ユウ」
――世界が、切れる。




