湯気の向こう側
鼻をくすぐる匂いで、目が覚めた。
土のようで、草のようで、
どこか乾いた陽だまりみたいな香り。
「……どこだ、ここ」
身体を起こす。
軋む音。
床は板ではない。
柔らかい畳の感触が足裏に伝わる。
知らない天井。
見たこともない木組みの梁。
なのに、不思議と懐かしい。
布団から抜け出す。
さっきまで血まみれだったはずの身体は、
どこも痛くない。
腹を押さえる。
傷はない。
「夢、か……?」
扉を見つける。
勢いよく押す。
――ばたん。
外れた。
「……は?」
扉がそのまま倒れた。
よく見ると、横に溝がある。
「……押すんじゃねぇのかよ」
仕方なく立てかける。
随分と変なところだ。
廊下に出る。
木の板がひやりと冷たい。
その先から、ふわりと香りが流れてきた。
温かい。
甘い。
腹の奥をくすぐる匂い。
気づけば、足がそちらへ向いていた。
木の珠が、紐で何本も垂れ下がっている。
じゃらり、と触れた瞬間、軽い音が鳴った。
それを押し分ける。
その瞬間。
トントントン、と響いていた音が止まる。
振り返ったのは、白い服――割烹着を着た女だった。
にかっと、歯を見せて笑う。
「起きたかい?」
訛りの強い声。
「なまら寝てたから心配だったんだわ」
「……あの、ここは」
「さっ! ご飯できてるよ!」
問いは遮られる。
「さっさと食べちゃって」
丸椅子にどんと座らされる。
目の前に置かれたのは、湯気。
茶色い汁。
白い山。
橙色の切り身。
甘い匂いのする煮物。
「……なんだ、これ」
「味噌汁。白米。鮭。肉じゃが」
当然のように言う。
湯気が頬を撫でる。
箸を持つ。
なぜか自然に持てた。
芋をつまむ。
口に入れる。
――甘い。
舌に広がる、優しい甘さ。
噛むたびに、じわりと沁みる。
「……なにこれ」
うめぇ。
次々と口に運ぶ。
止まらない。
味噌汁をすする。
温かい。
腹の奥に、灯がともる。
今までの食事は、ただの燃料だった。
生き延びるための作業。
でも、これは違う。
これは――
「……うめぇ」
ぽたり。
気づいたら、涙が落ちていた。
止まらない。
頬を伝う。
「なんなんだよ……」
泣きながら食べる。
箸が止まらない。
「美味しいね」
女が水をトンと置く。
にかっと、また笑う。
「美味しい?」
「……あぁ」
「そうだろ? 愛情込めたんだ」
湯気の向こうで、目を細める。
「あんたが元気になるようにさ」
胸の奥が、じわりと熱くなる。
優しくなれよ。
母の声が、一瞬よぎる。
ずっと忘れていた感覚。
温かい。
満たされる。
「……本当に、美味い」
女は満足そうに頷く。
くるりと背を向ける。
トントントン。
包丁の規則的な音がまた響く。
木の匂い。
味噌の香り。
湯気。
俺はその音を聞きながら、
ただ、黙って食べ続けた。
腹が満ちる。
胸が、少しだけ軽くなる。
――ここは、どこだ。
でも。
今はいい。
もう少しだけ。
この温かさに、浸っていたかった。




