17話
大学は楽しかった。講義は基本的に絵に関する内容のみ。
時間の融通が利く。一人暮らしはあれこれ注意されたり縛られることもない。
地方と比べて遊ぶところが多い。
バイト先もよりどりみどり。
新しい環境に慣れてきた頃には女の体にも大分慣れていて、それに比例するように最初の頃より空気が読めるようになっていた。女はこれをやったらアウトなんだなとか、こういう振る舞いが自然なんだなとか。たとえば一人称俺の女は引かれるということが痛い程わかり、ようやく「私」を使うのにも慣れてきたが内心違和感しかなく吐きそうだった。
本当は空気なんて読みたくないし周りに合わせたくない。もちろん嫌なことは嫌だし、言うことは言うようにしている。それでも出る杭は打たれるというべきか、特に女の世界は目立ったことをしない方がいいようだと悟った。男の俺を極力表に出さないようにしていれば案外うまくやっていけるのかもしれない。そうやって空気を読めば読む程、自分の存在がわからなくなっていた。
俺はこの先女として生きていくしかない。それなら過去の、男の俺は何だったんだろう。……などと考え出すと深みに嵌りそうなので、そんな時は絵を描く。余計なことを考えずに、昔の俺が培ってきたものを全てぶつけられるからだ。
大学には俺より上手い奴がたくさんいて刺激になった。決して安くはない学費を出してくれた親には感謝している。美大だからというと偏見だと怒られるかもしれないが、個性的な人間が多かった。
性別迷子の俺みたいな人間でも没個性に思える程なので、その点は少し安心していた。
「夏休みどこ行く?」
アイスを片手に吉野が尋ねた。吉野のアパートのクーラーは効いているのかいないのか、生ぬるい風を送り続けている。おかげでアイスもドロドロに溶けかけていた。
早いもので大学生になって二度目の夏が来た。来週からは長い夏休みが始まる。大学に入って気の合う奴も何人かできたが、なんだかんだで吉野といる時間が一番長い。大学は別だがそう離れてはいないのでお互いのアパートを行き来したり、一緒に美術館に出掛けたりしている。そんな具合なのでよく付き合っているのかと聞かれるのだが、断固として否定している。男女で仲がいいだけで関係を勘ぐられるのが面倒で仕方ない。
とはいえ、逆の立場だったら自分もきっとそう思うだろう。
男に戻れたらと、ふとした拍子に考えてしまう。同時に、いつまでも昔の体に未練がある自分に苛立つ。どうにもならないことだから受け入れるしかないのに。
それで去年の夏休みというと、吉野と一緒に美術館でボランティアをしたり、スケッチブックを片手に旅行に行ったりした。吉野は今年も当然一緒に行動するものと思っているようだった。
「あー、今年は時間取れそうにないんだよな。悪いけどどっか行きたいなら1人で行って」
スマホに視線を落としたまま答えると、吉野があ、と何か思いついたように俺に言った。
「もしかして彼氏?」
速攻で吉野の鳩尾に一発入れる。
「ぐぇっ、おま、本気でやらなくても……」
「次言ったら金的だからな」
青ざめる吉野。
「じょ、冗談だって……いてぇ……」
「お前こそ彼女の一人や二人作ったら。大学に可愛い子いるって言ってたじゃん」
「男と腕組んで歩いてるの見た」
「そりゃお気の毒に」
「思ってないだろその顔。ごめんって。悪かったよ」
「彼女なら欲しいよ、今でもな。それは置いといて、今年は合宿行ったり実家に帰ったりバイトしたり忙しいんだよ。吉野はいい加減俺離れした方がいいんじゃないか」
「なんだそれ、まるで俺が白崎にべったりみたいな……わかったよ、適当に他の友達誘うからいいよ。なんか白崎、いつにも増して冷たくない?」
口を尖らせ、恨めしそうに俺を見ている。
「いつも通りだけど?」
「それもそうか」
実のところ冷たくしている自覚はあった。吉野は俺を友人だと思っている。それは間違いない。
でもこの頃、いや俺がこの体になってから、俺を意識しているような素振りを見せることがしばしばあった。憧れの女が俺だと知った時はありえないと言っていた癖に。勘違い、ではないと思う。現に吉野は女の俺に一目惚れしたらしいし。女っ気がないから身近な俺を嫌でも意識してしまうというのも原因の一つだろう。
俺が女扱いされたり吉野との関係を疑われる度に否定的な反応をしているため、俺とどうこうなりたいとは思っていないはずだ。多分。
吉野といるのは楽しい。馬鹿話もできるし、共通の話題も多い。
だけど、これまでと同じ関係ではいられないことに俺は薄々気がつき始めていた。
吉野だってわかっているはずだ。
今の距離は近すぎる。俺が吉野を友達としてしか見られない以上、お互いのためにもそろそろどこかで一線を引かないといけない。そう思いながらもずるずる付き合いを続けてしまうのは結局寂しいからだ。
「はあ……誰誘うかなあ」
吉野はぶつぶつ呟きながら、スマホの画面をスクロールしている。
「合宿の準備しないといけないからそろそろ帰るわ」
「了解。いいなあ、楽しそうだな合宿」
俺は手早く身支度をし、吉野に声を掛けアパートを出た。
合宿では石膏や屋外の風景のデッサンを行うということだった。
ホームセンターまでやってきた。レジャーシートや帽子、虫除け、絆創膏やらをカゴに放り込んでいく。ふと店内に見知った人影を見つけた。
「白崎さん」
その人物は俺に気付くとゆっくり近付いて来た。
「ああ須藤。あんたも合宿の準備?」
「うん。そうだ、この間白崎さんに教えてもらった本、すごく良かったよ! 初歩的な内容ではあるけど、日本の美術史がわかりやすくまとめられていて」
「そっか、それなら勧めた甲斐があったよ」
「またおすすめ教えてくれる? そうだ今度うちに来ない? もっと白崎さんと話してみたいんだ」
「あー……うん。考えとく。じゃあまた……」
「せっかくだから一緒に買い物しようよ」
「いや、お…私、時間掛かるタイプだから。別々の方が」
「そう? じゃあ白崎さんのペースに合わせるよ」
「えっ」
須藤は俺のカゴの中をじっと覗き込んでいる。
「確かにレジャーシートもいるなあ。でも一つあれば良くない? 二人で使うならさ」
「……」
二人って誰と誰だよ。
俺はどちらかと言えば短気で、あまりちゃんと人の話を聞く方じゃない。
だが須藤よりマシだ。こいつときたら人の都合などお構いなしに話を進めていってしまう。
入学した頃に俺が要領の悪いこいつを見るに見かねてちょっと世話を焼いてしまったために、妙に懐かれてしまった。一見真面目な好青年だがどこかズレている。正直関わったことを後悔していた。こいつがいなければ平穏な大学生活を送れただろう。
会うと面倒なので講義も昼の時間も被らないようにしているが、出くわすとこの調子である。
「そうだ、洗濯物入れなきゃ。そういうことでもう行くから、それじゃあ」
「あ……待って、白崎さん」
「またな!」
俺は足早にその場から立ち去ると、ものすごい速さで会計を済ませものすごい速さでアパートまで帰った。
「はあ……」
どっと疲れが押し寄せて、部屋に入るや否やベッドに身を投げ出した。
合宿のメンバーは約20人で、須藤もそのうちの一人だ。
極力関わらないようにしたい。何かにつけて一緒に行動したがる須藤は俺と頗る相性が悪い。
このままだとキレるかもしれない。俺が。
「そうだ、あれまだ見てなかった」
おもむろに起き上がり、机の上のポストカードを手に取った。
湖と月の絵が印刷されたポストカードには「暑くなってきたから熱中症にはお互い気をつけよう」とコメントが添えてあった。差出人は千春だ。
スマホでのやり取りだと俺の反応が悪いからか、千春は季節ごとにポストカードを送ってくるようになった。受け取った後、俺は簡単な絵を描いた絵葉書を返す。その応酬の繰り返しだ。
初めのうちは俺が毎回手描きなことに気が引けたのか印刷で申し訳ないと謝られたが、好きで描いているんだから気にするなと言ったら何も言わなくなった。
気付けば送られてくるのを楽しみにしている自分がいた。
今の俺にはこのくらいの距離感がちょうど良かった。




