18話
「皆さん、スケッチブックは持ちましたか? 施設内のアトリエでデッサンしても良いですし、外に出てスケッチしていただいても構いません。自由に描いてください。ただし危険な場所には絶対に行かないように。昼食までには戻って来てください」
合宿2日目。ようやく自由に絵を描ける時間が来た。昨日は座学や一般教養がメインで実技の時間はろくになかったので少々退屈していた。
合宿先は緑の豊かな高原で、すぐ側に大学所有の施設がありそこが宿泊施設も兼ねていた。
この施設は無駄に部屋数が多く、今回の参加者全員に個室をあてがってもまだ余裕がある。女子と相部屋だと緊張するし個室で安心した。
自由時間が始まり、連れ立って行く者もいたがそうでない者の方が多かった。浅く広くの交友関係しかない俺は後者だ。良いスポットが見つかるといいけど。
こじんまりした場所かと思っていたが、歩いてみると結構広い。誰かと場所の取り合いになることもなさそうだ。
ニッコウキスゲやらナデシコやら、あちこちに色んな高原植物が咲いている。子供の頃親に連れられてこんな光景を見たことを思い出した。
「ここでいいか」
周りには背の高い植物があり、人目につきそうもない。ここなら落ち着いて描けそうだ。
筆を走らせること30分。ふと違和感に気付く。
人の気配がする。
後ろを振り向くが誰もいない。
気のせいかと思い再び描き始めるが、見られているような感覚がある。
自分では結構物事に動じない方だと思っていたのだが、身体中から嫌な汗が噴き出てくる。
「だ、誰かいるのか」
弱々しい声になってしまい自分にがっかりする。もっと相手を射殺す勢いで叫びたかったのに。
反応はない。
だんだん冷静になってきた。よく考えてみればこんな場所に見知らぬ不審者がいる可能性は限りなく低いだろう。野生動物でもいるのだろうか。
しばらく経つと、明らかに物音がした。
立ち上がり、思い切ってあたりの茂みを手当たり次第探ってみる。
手応えがあった。人だった。背中のあたりだろうか。心臓がバクバクする。
「ひっ」
触れると即座に手首を掴まれた。
ゆらりとこちらを向いたのは見覚えのある顔だった。
「君なら見つけてくれると思った」
目は笑っていないのに口元は限界まで吊り上げられて、歪な笑みを作っている。
須藤だった。
「何してんだよこんな所で! 何考えてるんだよ、真面目にやれよ!」
大学に入ってから粗っぽい口調は控えるように心掛けていたが、気にする余裕はなかった。
「怒らないでよ。俺、真面目にやってるよ。ほら」
そう言ってスケッチブックを俺に差し向ける。
「……これは……」
顔が引き攣るのがわかった。
「白崎さんてさ、表情豊かで楽しいよね。ずっと見ていたいなあ」
須藤が描いていたのは俺だった。
ぞっとした。今まで感じたことのない種類の不快感があった。
頭に血が昇りそうだったがどうにか抑えた。もう大学生なんだから、感情的にならないようにしないと。
「まさか本気でこんなもの提出する気だったんじゃないだろうな」
須藤の青白い顔が、少しの赤みを帯びた。
相変わらず生気のない瞳には、静かな怒りが灯っていた。
「こんなもの。こんなものって言ったのか、俺の作品を」
「は……?」
「君を描いたらおかしいのか。先生は自由に描いていいって言ってた。それなのに、否定するのか」
呆然とした。こいつは想像以上にヤバい奴だ。これまで出会った誰よりも。関わらない方がいい。逃げるべきだと、本能がそう告げている。
勝手に描かれて作品として提出されるなんて嫌に決まっている。すぐにでも破り捨ててやりたいくらいだ。だがそんなことをしたら何をされるかわかったもんじゃない。くそ、昨日は平和だったから油断していた。もっとこいつに警戒すべきだった。だけどこの手の奴は下手に刺激しない方がいい。
「……確かに描いたらいけないものなんて指定されてないけど、スケッチの対象になるのは気が進まないから。ちょっと落ち着かないから移動させてもらうよ」
すると須藤は俺の足に縋りつき、ふくらはぎのあたりに頭を何度も擦り付けた。信じられない。こいつ、本当に頭がおかしい。
「ごめん、ごめんね白崎さん。俺が悪かった。間違ってたんだね、俺が描いた君は。ちゃんと表現できなくてごめん、ごめんなさい」
俺は固まった。何を言っているのかわからない。理解できない。対処法がわからない。
元々おかしいとは思っていたが、今日は本格的におかしい。
「おい離せよ!」
蹴り上げるように脚を何度か動かすとどうにか引き剥がすことができた。
須藤がその場にへたり込む。恨めしそうに俺を見上げていた。
「ひどい、ひどいよ。白崎さんは俺のことわかってくれると思ってたのに」
その瞬間頭の血管が切れた。
俺は須藤の胸ぐらを掴み、思い切り睨みつけた。
「おい」
「な、何するんだよ。そんな怖い顔するなよ。白崎さんは優しい人だと思ってたのに……こんなに暴力的だったなんて」
「お前の考えを押し付けんな。こっちは真剣にやってるんだから邪魔すんな馬鹿」
吐き捨てるように言って、すぐさま手を離す。
須藤はバランスを崩して尻餅をついた。
俺はスケッチブックを勢い良く閉じ、荷物をまとめて歩き出した。
まだ追いかけて来るようなら殴りつけてやるつもりでいた。
その場合傷害沙汰になってどう考えても俺が悪くなるだろうが、今の俺には後先のことまで考える余裕がなかった。
施設に戻り、アトリエの扉を開ける。
中には3人しかいなかった。俺が入って来ると一斉にこちらを見た。
「白崎さん、どうしたの?」
不思議そうに声を掛けられる。
「あー、ちょっと……」
扉をさりげなく振り返る。須藤が来る気配はなかった。
「虫除け忘れちゃって。高原って言っても意外と虫が飛んでてさ。取りに戻ってきたんだけど、疲れちゃったから石膏でもいいかなって」
「そうなんだ。せっかくだから行けばいいのに」
「あはは……」
アトリエにいたのはいずれも大人しそうな学生で、黙々と取り組んでいた。これなら集中できそうだ。もし須藤が入ってきたとしても、流石にここで妙な真似はできないはずだ。
本当は石膏より草花を描く方が好きだが、外にはもう行きたくなかった。
夕食を終えて、部屋に戻った俺は慎重に室内の様子を探った。
まさかとは思うが、須藤が忍び込んでいやしないかと不安だった。
気にしすぎだろうか。
男子と女子でフロアは分かれているし誰にもバレずに来るなんて難しいはずだ。
シャワーを浴びてさっぱりしたら夜風にあたりたくなった。
ちょっと外に出たい気もするがやめておいた方がいいだろう。
なんであんな奴1人のためにこんな不自由な思いをしないといけないんだ。
今後の大学生活が憂鬱でしかない。とりあえずさっさと寝て嫌なことは忘れよう。
布団を被った時、足音がした。それはひたひたとこちらに近付いてくる。
シャワーを浴びたばかりだというのに冷や汗が止まらない。
ホラー映画やゲームを怖いと感じたことはなかったが、現実だと恐怖でしかない。
この特徴的な足音には聞き覚えがあった。多分須藤だ。
案の定俺の部屋の前で足音が止んだ。なんで部屋特定できるんだよ。俺はゾッとした。
だがこの時、恐怖より怒りが上回っていた。また訳のわからないことを口走るようなら大声を出してやる。
念のため虫除けスプレーを背後に忍ばせ、俺はドアを開けた。やっぱり須藤だった。
想定外だったのか目を丸くしている。
「し、白崎さん」
「いい度胸だな。何しに来た」
「謝りたくて」
「なんだって?」
「反省してる。俺、白崎さんに嫌われても仕方ないことした」
「そんなの信じられるか」
すると須藤は、廊下に手をつき頭を垂れた。涙ぐんだ声でぶつぶつとひたすら謝り続けている。
「おい……やめてくれよこんな所で、誰かに見られたら――」
「ちょっと、騒がしいけどどうしたの」
何人かの女子が駆け寄ってきた。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
異様な光景に女子達は顔を引き攣らせた。
「……どういう状況?」
こっちが聞きたい。だが馬鹿正直に答えて変な誤解を受けるのは避けたい。
騒ぎを大きくしたくない。
「白崎さん、須藤くんに何かされたの?」
心配そうに声を掛けられる。
「いや、そんな、大したことじゃないんだけど」
「俺が、白崎さんをちゃんと描けなくて、それで」
余計なことを口走るな。俺は遮るように言葉を被せた。
「お昼のスケッチの時、たまたま須藤と私が描こうとしたものが被っちゃって! ちょっと喧嘩になっちゃったんだよ。そうだよね、須藤?」
ぽかんとする一同。
「今思えばなんでそんなことでって感じなんだけど。お互いお腹が空いてイライラしてたんだよ」
俺の気迫に気圧されたのか、須藤はこくりと頷いた。
1人の女子が、あ、と声を上げた。
「そっかー、だから慌ててアトリエに入ってきたんだね。変だと思ったんだあ」
この子はあの時アトリエにいた子か。湯木っていったっけ。
別の女子が首を傾げる。
「でもそんなことで土下座までする? いくらなんでも大袈裟すぎない? おかしいって絶対」
「須藤くんて元々オーバーなとこあるじゃん?」
「確かに」
好き勝手議論する女子達をよそに、俺は須藤に目配せした。
早く行け。
すると須藤は、こちらを振り向き頭をぺこぺこ下げながら戻っていった。
須藤の姿が見えなくなったのを確認してから、湯木が俺に向き直って言った。
「須藤君には気を付けた方がいいよ」




