幕開け
周囲に木霊する慟哭と耳を劈く獣の咆哮。
視界を覆うように焔の鱗粉は辺りを舞い、立ち並ぶ街路樹を炎柱へと変える。
周囲に立ち込める黒煙が視界を遮り、何かが灼け落ちる焦げ臭い匂いと、ツンとした生臭い匂いが鼻についた。
一言で表すならば地獄。そう形容するしかない光景の中に僕は一人、立ち尽くしている。
暑いよ……苦しいよ……誰か……助けてよ……。
僕は精一杯叫ぶがその声に応える者はいない。
黒煙の中、朦朧とする意識をどうにか保ち、前へ前へと進んでいく。
理由は分からない、ただ宛てもなく黒煙を掻き分けて果ての見えない先を目指す。
すると――。
唐突にそれまで全身を包み込んでいた黒煙の檻から抜け出し、視界が一気に開けた。
黒煙が晴れた先、先の見えないその果てに待っていたのは獣の大口だった。
腐臭のする涎を垂らし、口から獰猛な牙を覗かせる。悍ましい口はまるで歪んだ笑みを浮かべるようにゆっくりと裂け、真っ赤に染まった大口が迫ってきた。
口から零れ落ちる唾液が土瀝青に触れた瞬間、ジュッと音を立ててそれらは融け落ちてしまう。
頭の中を支配するのはこれまでに感じたことも無いような恐怖。
泣き喚くことも出来ず、ただその瞳に涙を堪えて迫りくる獣の顔を見つめることしかできない。
黒色の硬毛に包まれた巨大な狼のような顔。その大きな真紅の瞳は濁っており、真っ直ぐに僕のことを見つめている。
徐々に近づく獣の大口を前にあまりの恐怖から尻餅をつくと、悍ましいその大口が大きく開かれ僕を貪ろうと迫った。
恐ろしくて恐ろしくて、目を固く閉ざした。
もう何も見たくないと。
これ以上怖い思いをしたくないと。
肉が潰されるような不快な音と共に全身に生暖かい何かが掛かった。何かを咀嚼する音と燃え盛る焔の音だけがその場に残る。
痛みない。不思議に思い、恐る恐る目を開けると―――。
♢
「ッ……!」
飛び起きるように上体を起こし、乱れた息を整えながら辺りを見渡す。
今いるのは自分の寝室。僕はベッドの上に横になっていた。
遮光カーテンの隙間から漏れ出た光が部屋の中を優しく照らしている。
「……何か凄く、嫌な夢を見た気がする……」
凄く恐ろしい夢。でも起きると必ず忘れてしまう夢。
最近は見なくなったと思っていたのに。
シャツは嫌な汗で濡れている。ベタッとした気持ち悪さが全身に残っている。
ベッドの横に備え付けられた時計に目を向けると、時刻はまだ六時になったところだった。
「はぁ……アラームが鳴る前に起きちゃったじゃないか……」
二度寝しようにもこれだけ汗を掻いた状態では気持ちよく眠れるわけもない。
制服を持ってシャワーを浴びるべく浴室へ向かった。
♢
リビングに香ばしい匂いが満ちる。
てきぱきとフライパンで卵焼きを包みながら、出来上がった具材を二人分の弁当箱の中に詰めていく。
「今日は卵焼きか?」
「あ、おはよう祖父ちゃん」
「おはよう」
祖父は朝のランニングから帰ってくると少しリビングに顔を出した後シャワーを浴びにいってしまった。
もういい年だというのに毎日早朝からランニングしている祖父の元気には本当に驚かされる。
僕の家は祖父と僕の二人暮らしだ。
父さんと母さんは僕が小さい頃に亡くなってしまった。僕はその頃の記憶が全然ないが、ただ一つだけ覚えていることがある。僕は両親のことが大好きだったということだ。
当時は凄く悲しんだ、それでも父さんと母さんはいないが祖父が引き取ってくれたから二人が亡くなった後も僕が寂しい思いをすることは無かった。
「っと」
僕と祖父の分のお弁当を作り終え、残った食材で簡単な朝食を作っていると祖父が風呂から上がってきた。
「いつも悪いな駿」
「いいんだよ。僕が好きでやってるんだから」
風呂から上がってきた祖父が座っているテーブルに自分と祖父の分の朝食を運ぶ。
「「いただきます」」
風呂上りの祖父はズボンは履いているが上半身はタオルを掛けているだけで、その六十代とは思えない程鍛え抜かれた肉体を曝け出している。
「……どんどんお前の卵焼きの味がお前のお母さんの味に似てきた……」
「え? そうなのかな。僕、母さんがどんな料理を作ってくれたかあんまり覚えてないんだ。でも、卵焼きだけは何となく優しい味がしたってことを覚えてて、それを意識してるからかな?」
「そうだな。きっとそうだろう。駿はお母さんに似て優しいからな」
六歳の時に祖父に引き取られて、その頃から僕は家事をやり始めた。初めのうちは祖父が料理も掃除も全てやってくれていたが、仕事から疲れて帰ってきてそのうえ家事までこなすなんて大変だろうと子供ながらに思ったからだ。
あとは祖父がずぼらな性格で、そういった家事が苦手すぎて僕がやった方がマシだったということもあるが。
いつの間にか朝食を食べ終えていた祖父の手が少し不器用ながらも、優しく僕の頭を撫でた。
「ちょっ! やめてよ祖父ちゃん!! 僕だってもう子供じゃないんだからさ!!」
恥ずかしさとこそばゆさで赤面しながら僕は祖父の手を頭から振り払った。
「そうだったな、駿ももう今日から高校生、だな」
そう言うと祖父は自身の部屋へと向かった。制服を着て仕事に向かうのだろう。
僕も洗い物を早く終わらせて出る支度をしなくては。入学式初日から遅刻するわけにはいかない。
僕も祖父の後に続くように家を出た。
♢
青々とした晴天の下、駅に向かって歩く。
太平洋上に浮かぶ人工島、トウキョウ。
人口は約五百万を超え、その大きさは巨大人口浮島を越える超巨大人口浮島とでも言うべき広さを誇る。
因みに島の名前であるトウキョウというのは昔は日本列島にあった日本の首都の名前だったらしい。だが、二十年前の事件でそれも今では《《海の中》》である。
ここトウキョウは今から十五年前に太平洋上に作られた日本の新しい首都だ。
その地の利を活かして世界各国と盛んな貿易に行い、加えて世界中の研究機関が集まっている為に、世界で最も科学的に進歩している町でもある。
そんな人工島であるトウキョウは研究都市、又は学園都市トウキョウと呼ばれている。
♢
超電導磁気浮上式鉄道に乗り込むと通勤通学の人々でごった返す車内に息を詰まらせる。
圧迫されながらも何とかバッグの中に手を入れると、今では殆ど見かけることのなくなった有線のイヤホンを取り出した。
最近はワイヤレスの骨伝導イヤホンが主流であるが、僕はこちらの方が落ち着いた。これをつけていると周りの人のことが気にならず安心できる気がして。
リニアの窓から太陽光を反射し、青々とした空の下、蒼銀色に輝くビル群が覗く。
あちらこちらに備え付けられた太陽光パネルが日中に電力を蓄え、夜には鮮やかに光輝く街。
それを横目に僕は目を瞑り、イヤホンから流れてくる音楽に集中した。
「――まもなくシブヤ、シブヤです。」
アナウンスと共にドアが開く。洪水のようにリニアから降りていく人の流れに沿って僕もリニアを降りた。
♢
トウキョウは二十三の区画に分けられている。
僕がこれから通うことになる高校はここシブヤにある、トウキョウ都立シブヤ第一高校だ。
リニアを下り、駅を出ると辺りに自分と同じ制服を着た生徒達の姿が多々見受けられた。今日は入学式ということもあり、一年生と一部の三年生だけが登校しているはずなので周りにいる生徒達は殆どが僕と同じ新入生だろう。
周りの生徒達は緊張した面持ちをしているが、側にいる両親が彼等を安心させていた。その光景を見て、チクリと胸の奥が痛んだ。
皆には当たり前のようにいる両親が自分の隣にはいない。
今日の入学式に祖父は一緒に来るつもりだったみたいだが、僕はそれを丁重に断った。祖父ちゃんの仕事が忙しいのは分かっているし。
それに皆が両親と来てる中、一人だけ祖父と二人で来てたら目立つじゃないか。
僕は生徒達の間を縫うようにして足早に学校へ向かった。
♢
入学式というのは退屈なもので、しかし初めての高校でそれを態度に出すわけにもいかず、皆が緊張した空気を纏っている。
ようやく校長先生や生徒会長の話が終わり、僕達新入生は各々の教室へと案内された。
案内された教室は一年A組。
教室に着くや否や生徒達は席につかされて先生から話を聞いていた。
当たり障りのない話だ。高校生になったことの自覚をもちなさいとか、これからの予定などの。
一通りの話が終わると、正午になる前にホームルームが終わった。それと同時に生徒達は周りの人達と話し始める。これからクラスメイトになる皆に興味深々といった感じだった。
「なあお前名前何て言うんだ?」
「え? 僕?」
「そうそう」
突然話しかけてきたのは隣の席の男子だった。
「僕は……永田駿。君は?」
「俺は上杉健司。って呼んでくれよ」
そう言ってにかっと笑みを浮かべる健司はすっと手を出した。
「これからよろしくな」
「よろしくね。僕のことも駿って呼んでよ」
「おう! 駿」
伸ばされた手を握り返すと僕も自然と笑顔になった。
「健司は何かスポーツやってるの?」
「お、なんで分かったんだ? って、こんだけ日焼けしてたら分かるか」
ハハっと健司が快活に笑った。
健司はどうやら中学の頃からサッカーをやっているらしい。
そのおかげか身長が高く、程よく筋肉もついているためか制服が良く似合っていて格好良く見える。日焼けして薄く焼けた肌も男らしく感じた。
何となくだが周りの女子も健司のことが気になっているようだ。
「そういう駿は何かやってるのか?」
「ううん。僕はスポーツは特にやってないよ。あんまり得意じゃないんだ」
照れ臭くて左手で頬を掻きながら答える。
「おーい健司! お前もリネア交換しようぜ!」
「ん? おう! 駿も一緒に交換しに行くか?」
「ん~僕はいいや」
「そっか、じゃあ俺とリネア交換しようぜ」
「え? あ、うん」
携帯情報端末のΣ《シグマ》を取り出したケンジにつられて僕も取り出すと、手慣れた手つきで健司は僕のことをリネアで友達登録していた。
「じゃあ僕はもう帰るね」
「おう。じゃあまた明日な、駿」
「それじゃあまた明日」
健司と別れると僕はワイワイと盛り上がる教室を後にし、帰路についた。
朝とは打って変わって人の少ないリニアに揺られ、数分。最寄り駅のイケブクロについた。
まだ昼ご飯を食べていなかったため、近くの蕎麦屋で昼食を済ませると時刻は十四時を回っていた。
「夕飯の材料買って帰らなくちゃ」
スーパーに寄り、今日の晩御飯は何にしようかと考えながら食材をかごに入れていく。
買い物が終わると真っ直ぐ家路についた。
「ただいまー……って言っても誰もいないんだけど……」
静まり返った家の中に自分の声が木霊しているような気がするほど日中の我が家は音が無い。
やることもないので夕飯の下ごしらえをしていると唐突に睡魔が襲ってきた。
今朝は夢見が悪かったのでそのせいかなぁと考えながら、リビングのソファに横になる。
まだ夕飯まで時間があるし少しだけ寝よ……。
僕は睡魔に襲われ朦朧とする意識を手放し、ソファに身を預けた。