秘密の愛は血濡れ色(前編)「少女の汚れた手と心」
第三弾です。このお話は前後編構成となっています。よろしくお願いいたします。
朝、俺はアラームの音にたたき起こされた。耳元で叫ばれるような大音量は、俺の寝起きが悪い要因である。
起床時刻は朝7時。じつにいつも通りの時間である。
歯を磨いてから、朝食の準備に取り掛かる。一人暮らしを始めて随分と月日がたち、準備も軽快なものである。
卵はぱちぱちと音をたてながら、フライパンの上で形を定めていく。もうもうと立ち込める湯気とともに、米の芳醇な香りが鼻に飛び込んでくる。出汁のしっかりとれたみそ汁は、俺好みの味になっている。
うむ、いつも通りのいい朝食である。
盛り付けをして、出来上がった朝食をテーブルに置く。椅子に腰かけて、ゆっくりと手を合わせる。
「いただきます」
子供の頃からの習慣であるこの言葉は、やめようとしてもやめられないほど、俺の頭に沁みついている。
朝食を食べながら、何となしにテレビのニュースを見る。見るといっても、ほとんど画面を見ることはないので、聞いているだけのようなものだが。
『…………続いてのニュースです。昨夜から、市内の女子高生二人が行方不明になっており、いまだ発見に至っていません。警察は操作を続け…………』
テレビでは毎日、様々な事件を報道する。様々な加害者が、様々な被害者が取り上げられるニュースを見て、俺はつくづく、映っているのが自分でなくて良かった、と心の底から思うのだ。毎日繰り返しているこの平穏な生活を崩されるのは、まっぴらごめんだ。
だが、自分が映っていなかったとしても、危機感を持つことはある。
女子高生の行方不明。このニュースには反応せずにはいられなかった。自分もまだまだ大学生になりたての身、自分が行方不明になってしまうのではないかという危機感が自然に生まれる。
「まあ、それも加害者がいた場合の話か……」
彼女らがただの家出少女なのだとすれば、俺は何の心配もない。どちらにせよ、早く見つかってほしいと思った。
朝食を食べ終え、大学に行くための準備を始める。
まずは着替えだ。クローゼットの中は、元々ファッションに興味がないため、最低限の衣服だけが揃えられ、ほとんど空いた状態になっている。こうしていれば、毎日服に悩むこともないので、準備の手間が省ける。
あとは荷物の準備だ。といっても、今日の講義で必要なものはすでにカバンに入れてあるので、携帯や財布などの貴重品を入れるだけだ。手早く机の上から取り上げて、カバンに突っ込んでいく。
携帯を入れようとしたとき、不意に着信音が鳴った。時計を見て、まだ時間があることを確認し、俺は通話ボタンを押した。
「もしもし」
『あ、先輩やっと出てくれましたね。おはようございます』
「ああ、おはよう」
聞こえてきた声は、聴き慣れた女の子の声だ。
高校の頃に知り合った女の子で、俺が先に卒業し大学に進学した今でも関係が続いている、俺と仲良くしてくれる数少ない後輩である。そんな彼女から電話が来たのは、俺にとって喜ばしいことだ。どうやら彼女は、まだ俺と仲良くしてくれる気でいるらしい。
よかったよかった、一安心だ。ただでさえ友人の少ない俺が、後輩さえも失うのはできれば避けたいところだ。
小さな安堵とともに、俺は彼女との会話に興じることにした。
『すいません先輩、こんな朝から。』
「別にいいよ、俺もまだ時間あって暇だし。それで、何か用か?」
あまり長引いて広義に遅れてもよくないので、早めに本題に入ることにした。
『先輩、今からそちらに伺いたいのですが、よろしいでしょうか?』
「今からか?急な話だな」
『ええ、急ぎの用がありまして』
俺の知る限り、彼女はとても計画的に物事を進めていく人間だ。物事の道筋を考えて、それを実現させることに秀でている。彼女が課題に終われていたり、遅刻しそうになっているところを、俺は今まで見たことがない。そんな彼女が急ぎの用とは、いったい何があったのだろうか?
だが、いくら彼女が急いでいるといっても、こちらにも都合というものがある。あまり時間を取られていると講義に遅れてしまう。
「悪いけど、俺これから大学に行かなきゃならないんだよ。悪いけど、ほかの人に頼んでくれるか?」
『そこを何とかお願いします。そこまでお時間は取らせませんので』
「えらく必死だな。そんなに大事な用なのか?」
『ええ、今の私にとって最大の急務です。先輩の講義なんかよりも格段に大切なことです』
「それはお前の主観だろ……」
しかしながら、彼女が急いでいるというのは本当のようだ。ここで突き放すと、なんだか悪いような気がする。無遅刻無欠席の記録と彼女の信用を天秤にかけ、少し考えると、あっさりと答えは出てしまった。
「分かった、お前に協力してやるよ。たった一人の大事な後輩からの頼みだしな」
どうやら俺は、年下の女の子には弱いようだ。
『ありがとうございます。先輩ならきっと協力してくださると信じていました』
「俺もえらく信用されたもんだな」
彼女の言葉に、俺はつい笑ってしまった。
「それで、手伝うのはいいが、俺はどうすればいいんだ?内容を一切聞いていないんだが」
『それはそちらに行ってから説明します。あまり人に聞かれたいことでもないので』
「こっちに来るって、今からか?お前の家と俺の家、そんなに近くないだろう」
『それなら全く心配はいりません、だって――』
突然、インターホンが鳴った。部屋に備え付けられたカメラを覗くと、そこには――
『さっき、到着したところですから』
彼女――豊浦捻乃は、マンションの一室、つまりは俺の部屋の前で、携帯片手に立っていた。
どこか謎めいた、独特な微笑を浮かべながら。
「断られたらどうするつもりだったんだ」
「その心配はありません。私は先輩を信頼していますから」
玄関から出て、即座に俺が投げかけた質問に、彼女は即答した。電話越しでも言われたがことだが、面と向かって言われると、違った気恥ずかしさがある。
カメラから見ているときは分からなかったが、捻乃はとてつもなく大きなリュックを背負っていた。
「そんなでかい荷物もってここまで来たのか?もしかして、家出したから泊めてほしいなんて言うんじゃないだろうな」
「私は先輩と違って一人暮らしですよ。そんな心配はありません」
「いや、俺も一人暮らしなんだが」
「あれ、先輩彼女とかいないんですか?モテそうなのに」
「お前が俺のどこを見てそれを言っているのか、さっぱり理解ができないな」
「そっかー、先輩彼女いないんだ―、今告白したら付き合ってくれるかなー」
「適当なこと言ってないで、とりあえず入れよ。お前の用を聞いてやるから」
捻乃のペースに流されないよう、適当に雑談を切り上げて部屋に迎え入れた。本来ならば大学に行っている時間だ。あまりだらだらと時間を使うのもできれば避けたい。
部屋に入ると、捻乃は背負っていたリュックをおろした。どうやら相当重かったようだ。
「ほら、適当に座れ」
「ありがとうございます、失礼します」
俺も床に座って、話を切り出した。
「で、なんだよ用って」
「ええ、実は私、先輩に手伝ってほしいことがあるんです」
「手伝ってほしいこと?なんだよ」
「あのリュック、開けていただいてもいいですか?」
彼女は、自分の持ってきたリュックを指さした。
「ああ、あのバカでかいリュックか。何が入ってるんだ?」
「だから何が入ってるかを見てくださいって言ってるんです。馬鹿なんですか?先輩」
「お前はもうちょっと柔らかくなろうな……」
冗談もそこそこに、おれはリュックに近づく。そして、その距離が縮まるごとに少しづつ、妙な匂いが鼻を刺激し始めた。違和感を感じながらも、俺はリュックに手をかけ、一気に開いた。
瞬間、鼻に異臭が飛び込んできた。
「うっ、何だこの臭い、中に何が……」
リュックの中には、黒いビニール袋が入っていた。
袋を開けようとして顔を近づけると、さらに臭いが強くなる。強烈な異臭に顔をゆがめながら、ビニール袋を開く。そこには――
「……なんだよ、これ……」
それは、とても人間のものとは思えない、徹底的に痛めつけられた、人間の顔だった。さらに困ったことに、入っていたのは顔だけではなかった。
腕。足。胴体。
それぞれがそれぞれのパーツごとに切断され、袋の中に押し込められていた。
「人間の体って、バラバラにすれば意外とコンパクトに収まるんですね。入るかどうか不安だったんですが、良かったです」
彼女が何を言っているのか、俺にはさっぱり分からなかった。いや、彼女の言葉が理解できていないのではない。彼女の心が理解できないのだ。こんな状況で、平然とそんなことを言える彼女に、俺は恐怖を覚えた。
「何言ってんだよ、お前……何でこんなもんを……」
「先輩、朝はニュース見ました?女子高生二人が行方不明になったっていう」
脳内に、先ほど見たニュースの記憶が流れる。そしてその瞬間、俺は事の道筋が見え始めた。
「まさか、お前……」
「そのまさかです」
捻乃はまた、薄い微笑を浮かべた。
「行方不明になったのは、私と〝その子〟です。そして彼女は、私が殺しました」
「…………」
俺の返事を待たずに彼女は続ける。
「先輩、彼女を埋めるの、手伝ってくださいますか?」
次の言葉を絞り出すのに、とてつもなく時間がかかってしまった。彼女の言葉を信じたくない気持ちが、俺の思考を鈍らせていた。
「……少し、考えさせてくれ」
「ええ、どうぞ」
しばらくの間部屋の中を、重苦しい沈黙と強烈な異臭が支配していた。一秒一秒が、とても重く、永遠のように感じられた。
どれほど時間がたっただろうか。俺は思考を落ち着かせ、まずは捻乃に話を聞くことにした。
「……お前がこの子を殺したっていうのは、本当なんだな?」
「ええ、本当です。そうでなければ、こんなお願いをしにきてはいません」
彼女はまた即答した。こういうときでも、顔色一つ変わらない。彼女の頭の中は、いったいどうなっているのだろうか。
「何で、この子を殺したんだ?」
俺は、話の本筋に入った。これからの俺の――俺たちの未来を決める選択をするために。
「理由、ですか。あまり詳しくは言えないんですが、簡単に言えば秘密を隠したかったというところです」
「秘密……?」
「ええ、秘密です。誰にだってあるでしょう。知られたくない秘密の一つや二つ」
「それはそうだが……だからって、なにも殺すことはないだろう」
「いえ、殺す必要が、少なくともあの時の私にはありました」
捻乃はまっすぐに俺を見つめて言い切った。
「私は彼女に秘密がばれました。そして彼女は、その秘密をばらそうとしたのです。それは絶対に止めたかった。私にとってそのことは、口が裂けても、いや、命が裂けても言いたくないことだったんです」
捻乃の顔は大まじめで、とても嘘をついているようには見えない。どうやら、よほどバラされたくない、重大ななにかを彼女は持っているのだろう、と俺は理解した。
「ですからね先輩、この子を一緒に、埋めに行ってくれませんか?」
一瞬が、恐ろしく長かったのを覚えている。彼女の言葉を咀嚼して飲み込むまで、どれだけ時間がかかったのだろう。
いや、実際は飲み込み切れてなどいない。今になっても、気持ち悪い感覚が口の中に居座っている、そんな気分だ。
「手順としては簡単です。このリュックを山まで持っていって、穴を掘って埋めれば終わりです。大丈夫です。リュックの替えならたくさんありますから」
「ちょ、ちょっと待て。俺はまだ、手伝うなんて一言も言ってないぞ」
「いえ、先輩は私を断ることはありません。というか、断ることができません」
「……は? どういうことだよ?」
捻乃は服のポケットに手を入れ、取り出したものを俺に見せる。
それは、一機のICレコーダーだった。捻乃の指が、再生ボタンにかかる。そこから流れてきたのは、一人の女性の声だった。
『……今、私は誘拐されています。今こうして喋っていますが、そのうち殺されることでしょう。犯人が外にいる今のうちに、最後の言葉を残します。まず、私を誘拐した犯人の名前は――』
その声が告げたのは、正真正銘、どこから聞こうが揺るぎようもなく――俺の名前だった。
「…………は?」
その後に続いた辞世の句は、全く耳に入ってはこなかった。聞き慣れた自分の名前が、形になって俺の背中にのしかかってくるようだった。
「先輩が協力してくれないというのなら、私はこれを警察に届けに行きます。分かりましたか、先輩。これは単なるお願いではないんです」
捻乃は艶やかな冷笑で続ける。
「先輩、どうぞ私の共犯者に、なりなさい」
俺は気づいていなかったのだ。賽はとっくに――捨てられていたことに。
後半へ続く