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たぎつ瀬の  作者: 夕月 櫻
12/39

十二 嵐前

「では、わたしはこれで」


 ちい姫の眠りを見届けたのち、基冬もとふゆがそう言って立ち上がると、淀んだ夜の空気が沈む高倉邸の東の対に大殿油おおとなぶらの灯影がわずかに揺れた。

 にびを纏う長男の背を見送った右大臣の北の方は、妻戸が閉まると同時に脇息きょうそくをたん、と指で叩き、そして呟く。


東北ひがしきたに……?」


 大きく息をつき、深く眉を寄せて目を閉じた。

 邸の中で幾度となく行方知れずになったちい姫が、実はそのほとんどの時を東北ひがしきた春恒はるつねの北の方の許で過ごしている、なんとかならぬかと北の方と基冬に懇願してきたのは、乳母めのと小宰相こさいしょうだ。

 だがしかし、父である基冬はそれを聞かされても、ちい姫が東北に出入りするのをやめさせる必要はないと考えている、と言うだけだった。

 春恒の北の方と基冬の娘が関わりを深めることで、また要らぬ諍いが起こることを北の方は懸念したが、いつになく強い調子で構わぬと言った息子にそれ以上異を唱えることもできず、ただ、なぜ? とだけ尋ねると、しばらく考え込むように口を閉ざしていた基冬は、母の目をまっすぐと見据えて言った。


「ちい姫のことでは母上にもご心労をおかけし、申し訳なく思うております。しかし幸か不幸か、ちい姫は東北あちらに馴染んでいる様子。ならばと」

「心労などと。春恒に比べれば、可愛らしいものよ」

「……」


 これまた、新しい難儀な問題を起こした弟を揶揄するような母の言葉に、基冬は口を噤んだ。北の方は小さく首を傾げ、基冬を窺うように続けた。


「ですが、小宰相を……あの乳母めのとを、ないがしろにすることにはなりませぬか?」


 そう返した瞬間、基冬の眉がぴくりと震えたのを北の方は見逃さなかった。

 ちい姫がここ高倉の邸に来て半月足らず、それでも、愛しい孫娘が決して乳母に心開いておらぬのを理解するには充分だ。基冬もそれを分かっているのだろう。

 北の方は、深々と息をついた。


「……分かりました。東北にとっても、新しい風が吹くやもしれませぬな」


 視線を落としたままの基冬は、そんな北の方の言葉にもただ黙って頭を下げるだけだった。

 ───つい今しがたのそんなことを思い出しながら、北の方は一人、静かに脇息に凭れかかった。その指から生まれるたん、という音が、静寂を湛える対屋たいのやのうちに響き渡る。

 普段から多くを語らぬ基冬の腹のうちを探るのは、時として母である北の方にも難しい。ただ、基冬は春恒と違って愚かな道を選ぶことはせぬであろうという確信はある。きっと、何か考えがあるのだろう。

 北の方はぐるりと対屋のうちを見まわし、さて、とちい姫の乳母を脳裏に思い起こした。

 かつて、白梅邸にいた頃には周防すおうと呼ばれていた小宰相は元々、基冬の北の方であった萩の宮が宮中から連れてきた女房だ。周防に対する宮の信頼は、それは篤いものだったと聞く。その分、どこか鼻持ちならぬ雰囲気を漂わせてもいるが、恐らく女房としては非常に有能だ。

 小さな愛しい孫娘はやがて、かつて母宮が暮らした内裏うちに入ることを求められることとなるだろう。その日のために、とちい姫のまわりの者たちはそれぞれに心を砕いている。基冬も北の方も、そしてきっと、小宰相も。

 恐らくだが、小宰相はことあるごとに内裏うちの話を持ち出し、無意識にも幼子を追い詰めているのではあるまいか。そうでなければ、あれほどまで乳母という存在を嫌がるわけはない、北の方はそう考えている。

 ことの重さをちい姫にどれほど理解できているのかは分からぬけれど、もし、東北を訪ねることでちい姫が心穏やかに過ごせるのならば、それも悪いことではないのかもしれない。

 母を亡くして間もないちい姫と、夫に顧みられぬ若い妻。どこか、呼び合うものでもあるのか。今はまだ心開いてはくれぬちい姫も、やがてはこの祖母にも馴染んでくれよう───北の方は鷹揚にそう考えると、その物思いに決着をつけ、傍にあった衵扇あこめおおぎ*でぱん、と床を打った。

 ほどなくして、女房の安芸あきが静かにやってきて後ろに控える。


「お呼びでございましょうか」

「中将をこれへ」


 は、と短く返事をし、安芸が静かに退がると、北の方はもう一度大きく息をついた。

 ちい姫はともかく、春恒だ。

 恐れを知らぬのか、破滅を望んでいるのか。

 くだんの少納言という女のことだけでは飽き足らず、新しい尚侍ないしのかみと目された姫を我がものとするなど、帝がお怒りにならぬはずはない。

 もはやどうすればいいのか、さすがの北の方も途方に暮れていた。


「……御方さま」


 戻ってきた安芸が静かに告げる。


「中将さま、邸にはおられぬとのこと」


 北の方は思わず安芸を振り返り、その目を眇めて聞き返した。


「いない?」


 すでに亥の刻*になろうかという頃、まだ懲りておらぬのかと言わんばかりの北の方に、安芸が頷いた。


「はい」

「いったいいずこへ?」

「それが……大納言さまの」


 その答えに、北の方の目が見開かれる。


「大納言? 彰良あきよしのこと? なぜ、あの者のところへなぞ」


 北の方は心底驚いた声を上げ、責めるような口調で安芸に問うたが、安芸は存じませぬと頭を下げるばかりだ。

 彰良はさきの兵部卿宮の娘である北の方の異母弟で、幼い頃にはまだ関わりもあったものの、互いに元服裳着を済ませたのちには数えるほどしか対面していない。ましてや、若い頃に彰良が起こした醜聞は彰良自身だけではなく宮家の体面をも大きく傷つけた。そのことを、北の方は今なお許せていないのだ。

 ろくに出仕もせず日々何をして暮らしているのか、それすらも分からぬ叔父の許へ、春恒はいったい何をしに行ったのだろう。


「詳しいことは存じませぬ。ただ、大納言さまより遣いが参り、従者を連れて向かわれたとのこと」


 北の方は脇息を引き寄せ、額に手を遣って底知れぬほどの吐息を零す。


「北の方さま、もうおしずまり遊ばした方が」


 安芸が労わるように声をかけると、北の方はそうね、と頷いた。


「明日の朝、もう一度中将を呼んで頂戴」

「畏まりましてございます」


 しとねの用意をするため御帳台みちょうだいへと入っていく安芸の背を見ながら、北の方はただ一ヶ所開けられた半蔀はじとみから差し込む月の光をぼんやりと眺めた。



     *****



「して、なんでございましたのか? 大納言さまの話とは」


 子の刻*も近い深夜、叔父である彰良の五条堀川の邸から一条高倉への帰途、春恒の従者である俊行としゆきは声をひそめて尋ねた。

 しばらく待ったが返事はない。俊行は目を瞬かせ、小さくうつむいた。

 大納言の邸で牛車くるまに乗り込んだ時から、主人あるじの様子がどこかおかしいと感じている。何ごとも起こらねばいいのだが、と俊行はよぎる不安に眉をひそめた。

 五条大路をそのまま東へ進み、車はやがて烏丸からすま小路にさしかかる。俊行ははたと思い当たり、しばらく考え込んだのち、思い切って口を開いた。


「中将さま、恐れながら」


 再度呼びかけると物見がわずかに開き、春恒の涼やかな瞳が覗く。


「なんだ?」


 いつもと変わりなく気だるげに問う春恒の声はしかし、いつもより若干低く強ばっているようにも思え、俊行はちらと窓の方を見遣った。


「いえ……実は、烏丸を少しばかり下がると、左近どのの隠れ住もうておられる家があるとか」


 言ってしまってから、にわかに鼓動がはやくなる。

 春まだ浅い頃、春恒の許から忽然と姿を消した召人めしうどの左近の居場所を知ったのは偶然だった。どうやら身を寄せている家は六条坊門のあたりにあるらしい、という口さがない女房たちの噂話を耳にしたのだ。春恒に命ぜられあれほど探したのが何だったのかと思うほど、その隠れ家はあっけなく見つかった。

 しかし実のところ、そのことを春恒に伝えるか否か、俊行はここ数日迷い続けてきた。

 左近は春恒に居場所を伝えぬまま身を隠したのだから、本来なら秘しておいてやるべきだ。否、知ってしまったものを黙っておくわけにもいかぬ。そうやって逡巡しながらも結局、今こうして春恒に知らせてしまった俊行は、己が主人は春恒なのだから、と心に言い訳をする。

 相変わらず、春恒からの返答はない。このままではもうじき烏丸小路を通り過ぎてしまう。俊行は牛飼童うしかいわらわに声をかけ、牛車を停めさせた。

 煌々と明るい十三夜月が天空に輝いている。弥生とはいえ吹く風は冷たく、俊行は身を縮こませて月を見上げ、口を閉ざして主人の行動を待つ。

 どれほど経った頃か、物見が細く開き、春恒が一言、向かえ、と告げた。




 その家は、おおよそ一条界隈では目にすることもない、いわば荒屋あばらやに近い家だった。門はおろか透垣すいがいすらなく、そのまま家に入っていけるような造りになっている。

 俊行が声をかけても、深夜のことゆえ返事すらない。裏にまわってみても、もちろん家人一人出てくることはなかった。


「いかがいたしましょう?」

「誰もおらぬのか?」


 牛車くるまの中からそう問う春恒の声は、すでに苛立ちを滲ませている。


「夜も遅うございます、恐らくは灯りも乏しく、早々に眠ってしまうしか過ごしようもないのでございましょう」

「では、おまえが探ってこい」

「え」

「左近を見つけ、そして伝えよ。わたしが来たと」

「……」


 嫌な展開になった、と俊行は春恒を連れて来たことを後悔したが、すでに遅い。仕方なく、その荒屋のうちに忍び込む。

 思っていたとおり、すでに寝静まっているようだ。火の気もなく、ただ、差し込む月の光だけが朧げに家のうちを照らしていた。床を踏むたび、ぎしりぎしりと嫌な音がする。

 暗闇を手探りで進んでいけば、突然、人の気配がした。


「……どなた!?」


 若い女の声、それも驚くほど間近に。


「母さま、起きて! 誰ぞ……!」


 俊行は慌てて、しっ、と女を制した。暗がりの向こうに褥から起き上がる人の気配がする。


「中将さまの従者でございます。今、こちらに───」


 最後まで言う間もなく、ひいっ、と引きつった声なき叫びが聞こえた。


「まさか……まさか、殿が? 殿がここに?」


 ひそめた声が動揺を滲ませて、まさかと繰り返す。その言葉で、この女は間違いなく左近であると知れた。その横では、恐らくは左近の母であろう女の声もする。


「なんてこと……こんなところにまで」


 俊行は、二人の動揺に尋常ではない気配を感じた。

 逃げるように身を隠したのだ、それ相応の理由あってのことだろう。だがそれが何なのか、俊行には皆目見当もついておらぬのだ。


「お願いでございます、殿には、ここには誰もおらぬと」

「なぜ?」

「後生でございますから……!」


 縋りつくように必死に頼んでくる左近に気圧されて、俊行は咄嗟に次の言葉が見つからない。


「何のためにここに隠れ住んでいたか。姫さまのお立場もございます、どうか……」

「姫さま? それは誰のことだ、東北の御方さまのことか?」


 解せぬ、と呟いた俊行の耳に、咽び泣くような左近の声が聞こえた。


「お会いせぬ方が殿の御ため。どうぞ、このままお引き取りを」

「しかし、それでは中将さまが」


 俊行は言い淀む。このまま戻れば、何を言われるか分かったものではない。


「せっかくお見えになったのだ。お会いすればいいではな───」

「なりませぬ! それだけは決して……」


 御簾はおろか隔てるものすらない、恐らくは一間しかない小さな家に、悲鳴のような左近の声が響く。

 暗闇に慣れてきた目に、薄いふすまを胸にかき抱き、こちらを見据える女の姿がうっすらと見えた。


「どうか、ここで見たことは殿にはご内密に」

「だから、何ゆえかと聞いている」


 埒のあかぬ問答に、隣にいる年老いた女が、言ってはどうかと左近に囁いた。


「言わねば、この先どのような暮らしが待っているか……御子の───」

「母さま!」

 

 左近が悲鳴のような声で遮ったその言葉を、俊行は訝しげに繰り返す。


「御子……?」

「……」

「そなた、まさか」


 喉に絡みつくような声で俊行が問いただすと、左近はついにさめざめと泣きだした。


「お願いでございます、どうかどうか、殿にはおっしゃらないで……」


 それきり、家の中には左近の咽び泣く声だけが満ちる。月が翳って、わずかに見えていた女の姿も消えた。

 まさか、この女は中将さまの子を身籠っている……?


「なぜ……」


 中将さまもご存じないのか、呆然とそう呟いた俊行に、左近は涙に濡れた声で言う。


「殿の御許にいて子を生めばどうなりましょう? 子と引き離されるか、わたしが邸を追われるか」


 それが召人の定めだ、という言葉を俊行は呑み込む。


「わたしは嫌です、子と離れるのも、殿に冷たく邸を追われるのも。そのようなことになるくらいなら、わたしは……わたしは」


 そこで言葉に詰まり、そのままうつむいた左近は、再び現れた月のかすかな光を受けてそっと腹を撫でた。

 俊行は、そんな左近の姿を恐ろしいものでも見たかのように眺める。なんということだ、と頭を殴られたような心地で呟いた。


「……中将さまに追わせようと目論んだか」


 先ほどの激情はどこへやら、左近は黙りこくって何も答えない。


「黙って邸を去れば、事情の分からぬ中将さまはそなたを捜すに違いないと。そうして子も、中将さまのお心も、掴んで離さぬことを狙うたか」

「そのようなつもりは」

「なんと浅ましい」


 俊行は吐き捨てるようにそう言うと、ぎゅっと拳を握りしめた。


「分かった。中将さまには言わぬ」


 どこか安堵の表情で顔を上げた左近に、俊行はただし、と言い放った。


「二度と中将さまの前に姿を見せるな。東北の御方さまの前にもだ」


 それだけ言うと、俊行は暗闇にいる二人にくるりと背を向けた。




「どうだ、いたのか?」


 苛々した様子で尋ねてきた主に、俊行は一瞬の間を置いて決然と答えた。


「早う立ち去りましょう、中将さま」

「なぜだ? 誰か人のいる気配があったが」

「いたのは、家に住みついた盗人の類いです。下手に関わらぬ方がいいでしょう」

「左近はいなかったか」

「はい、残念ながら。ご足労をおかけし、申し訳もございませぬ」


 俊行はやり切れぬ思いを隠して牛飼童に声をかけ、一刻も早くとその場をあとにした。

 やり場のない怒りの向こうで、春恒のため息を聞いた気がした。




 そして───

 春恒の姿が高倉の邸から消えたのは、その翌朝のことだった。

亥の刻

おおよそ、現在の午後十時の前後二時間。


子の刻

おおよそ、現在の午前零時の前後二時間。

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