十三 失踪
基冬が母から受け継いだ前の兵部卿宮の邸である白梅邸は、その名のとおり、庭といわず壺といわず数え切れぬほどの白梅が植えられ、春を迎えるとともに、それはそれは美事な情景と香りを生み出すことで知られている。
弥生も半ばとなった今は、小さな実が青々とした新緑の中のあちこちに顔を覗かせ、花曇りの日ざしに揺れている。一方で、蔀を下ろした邸のうちには昼間というのに薄闇が満ち、どこか不安げな気配が漂っていた。
内裏から退出した基冬は、従者である是親の手を借りて着替えをする。
帰邸し、衣に袖を通して茵に腰を下ろすまでの手順は寸分の狂いもない。妻である萩の宮がいた時分も、宮と子の危篤が知らされたあの、雪降る大晦の日も───いや、宮の降嫁を受ける以前から、基冬の日々淡々と繰り返される規則正しさは何ひとつ変わってはいない。
是親とともに基冬の身の回りの世話を担う年老いた女房が運んできた白湯を一口含み、傍に置かれた脇息を引き寄せると、基冬はようやく一息つく。そして、廂に控える人影にその時初めて、近う、と密やかな声をかけた。
口を真一文字にひき結び、うつむきがちに控えていた俊行が、薄暗がりの中からわずかに基冬に寄る。年老いた女房は基冬の脱いだ衣を抱え、是親とともに静かに妻戸から出ていった。その気配が届かなくなるのを待って、基冬はおもむろに口を開く。
「中将がおらぬようになったと?」
「は」
「そなたがそれを知ったは、昨日の朝か?」
もう一度、は、と短い声を発し、主人の兄に呼びつけられた俊行はますます頭を下げる。
「邸におられぬことを知ったのは一昨日の夜でございましたが、どうやら都にもおられぬのではと思い至ったのは昨日の朝になってからで───」
「なぜ気づいた」
「それは……」
畳み被せるように尋ねる基冬の声はどこまでも厳しく、俊行はその声に呑まれぬようにと無意識に手を握りしめる。
「馬が一頭、おりませぬ。中将さまの愛馬である朝霧が」
「馬?」
基冬はそう呟くと、わずかに眉を寄せて考え込んだ。
閉じられた蔀の外では鶯の鳴き声が長閑な気配を漂わせていたが、対屋のうちはますます緊張感が増す。
基冬は俊行を見据え、問うた。
「一昨日の夜、中将は何を? 例の女の許か?」
「いえ……」
言い淀んだ俊行に、基冬はぴくりと眉を上げる。
「他の女か」
「……」
隙のない問いかけは、俊行の逃げを許さない。一切の隠しごとなど通用せぬ相手を前に、ただの従者など無力に等しい。
「……実は、大納言さまよりお招きがあり」
大納言、と聞いても基冬は表情ひとつ変えることをせず、ただ厳しい目を俊行に向け続ける。
「なんの用であった?」
「中将さまは、特に何も申されませんでした」
任せてはくれぬか、そう言ってきた数日前の叔父彰良の姿が脳裏に浮かんだ。
基冬は俊行を見据えたまま、なおも問うた。
「その時、中将の様子にどこかおかしなものはなかったか? そのあとのことは?」
そう問われた俊行が、一瞬その顔をわずかに歪ませたのを基冬が見逃すわけはない。基冬の視線が、無言のうちにちらりと揺れた。
「そのまま……そのまま、高倉の邸に戻りました。夜も遅うございましたゆえ、よもや、また邸を出られるなどとは思いもしませんでした」
供もつけずに春恒を邸から出してしまったのは、いかなる理由があろうとも従者たる俊行の失態だ。しかも、俊行はひとつのことを隠した───召人の許を訪れたことを、そして、その女が右大臣家の血を受けた子を身籠ったと知ったことを。
背にじとりと嫌な汗をかきながら話す俊行を、基冬は深い眼差しでじっと見つめている。心の奥底までも見透かすかのようなその視線が、基冬の母のそれととても似通うていることを、基冬自身気づいているのいないのか。
とにかく、俊行はなおも顔を伏せたまま、震えを押し殺したような声で続けた。
「すべては、わたしの落ち度でございます」
じっと俊行に視線を置いていた基冬はしばらく黙り込んでいたが、ふいに背を伸ばして大きく息を吸った。
「分かった。このことを知っているのは?」
「西の対の女房のうち幾人かと、あとは大臣の北の方さまのみでございます」
「東北の御方は?」
それを聞いて、俊行はどこか驚いたように顔を上げた。それからすぐにまた、視線を落とす。
「いえ、お伝えしておりませぬ」
「……そうか」
基冬は、分かった、と呟き、それから改めて俊行に向かい合った。
「苦労をかけてすまぬな」
「滅相もございませぬ」
「ことを荒立てたくない。こちらでも方々当たってみるゆえ、下手に動かず高倉で待つように。場合によっては……」
そこまで言いかけて、基冬はふいに言葉を呑み込んだ。
「……いや。また、何か分かれば伝えてくれ」
「は」
床板に擦りつけるように頭を下げた俊行は、そのまま廂の薄闇に吸い込まれるように去っていった。
基冬はわずかに脇息を引き寄せ、しばし口元に手を遣って考え込んでいたが、やがて、傍らに置かれた文箱の中から畳まれた文を取り出すと、蔀の隙から差し込む光に翳して再び目を通した。
女性のものにしては力強い手蹟で認められたその文は、母からのものだ。今、俊行に聞いた話など、昨日のうちには母から知らされていた。もう一晩待ってみたもののやはり春恒は戻ってこなかったため、従者にしか知り得ぬ何かを聞き出せぬかと俊行を呼んでみたのだ。右大臣家としては、そこで何かを口軽く話してしまうような者を育ててきたつもりもない。矛盾しているようだが、何かを聞き出せるとも思ってはいなかった。
ただ、と基冬は思い返す。
馬の件は初耳であった。それに、中将の様子を尋ねた時に見せた、俊行のかすかな動揺。
もしや、叔父である大納言の許に身を隠しているのではと思っていたが、馬となればそれもないだろうと眇めた瞳で考え、再び文へと視線を落とす。
まだ何も知らぬ東北にはそなたから話してはくれぬか、母はそう書いていた。ちい姫のこともある、目通りするにはちょうど良い機会でもあろう、と。
母の言うことももっともだ。東北に入り浸るちい姫に、いつまでも見て見ぬふりをしておくわけにもいくまい。しかし、なぜ今。
軽く目を瞑り、いちど大きく息をついた基冬は、大弐、と呼びかける。程なくして先ほどの年老いた女房が現れた。基冬が高倉の邸にいた頃から右大臣家に仕える女房だ。
「高倉に先触れを頼む」
「畏まりました。東の対でよろしゅうございますね?」
「いや……東北に」
基冬がそう答えると、捧げ持っていた文箱を差し出す大弐の手が一瞬止まり、ぱちぱちと目を瞬かせて頓狂な声をあげた。
「東北」
「そうだ」
「……畏まりました」
大弐はそう言って小さく頭を下げると、それ以上深く問うこともなく、ただ、そ、と基冬の前に文箱を置いた。基冬は手を伸ばしたものの、それが叔父に宛てた己の文だと気づいてあからさまに顔をしかめる。
「どういうことだ?」
「大納言さま、物忌みということで御文もお受け取りなさらず、とのこと」
逃げたか、そうとしか思えぬ───基冬は、口の中で小さく舌を鳴らした。
このように逃げるそぶりを見せられれば、春恒について何かを知っているだろうという疑いはさらに深まる。
いつものことながら叔父の姿はなかった今日の朝政で、左大将の大君を尚侍とする話は完全に潰えた。その裏にある春恒の存在を知るものは決して多くはないが、いつ何時、主上の耳に入れる者が出てくるか分からぬ。
基冬は知らず知らずのうちに脇息に肘をつき、その掌で顔を覆っていた。
妻の死からまだ三月しか経っておらぬというのに、その死すらどこか遠く感じてしまうほどに、次々と起こる問題で基冬は常に追い詰められている気分だ。
疲れた。
叫び出したい衝動を抑え込もうと、息を止めてその目をきつくきつく閉じた基冬は、額に当てていた手を痛いほどに握りしめた。やがて、苛立ちを断ち切るように大きく息を吐き出すと、今度は妻戸の外に控えているだろう是親にいつもどおりの静かな声で言った。
「今すぐ高倉に向かう。牛車を頼む」
*****
「姫さま……!」
滅多に聞かせぬ声をあげて泊瀬が東北の対に飛び込んできたのは、もうじき酉の刻*になろうかという頃だった。
「宰相さまがこちらに参られるそうにございます」
にわかに翳ってきた対屋のうちで、ゆるやかに躑躅の襲*を身につけ、いつものように書を繰っていた揺羅は、思わぬ言葉に首を傾げた。
「宰相さまが? 何かの間違いでは?」
「姫さま、またそのように悠長なことを」
「だって……」
「ちい姫君のことをお咎めに参られるのではございませぬか? そうでもなければ、この東北に参られる理由がございませぬ」
そこまで言うと、泊瀬はせわしなく几帳を揺羅の前まで動かし、廂にかけられた御簾を下げた。曇り空から注ぐ陽は弱く、対屋のうちは途端に薄暗くなる。
揺羅の住まう対屋を人が訪れることは稀だ。御簾が下げられわずかな明るささえ遮られてしまうと、揺羅は憂鬱な吐息をついた。
泊瀬は書を傍に寄せ、揺羅の袿の裾を直しながらひそめた声で言う。
「あの乳母が何をか申したのやもしれませぬ」
「何を?」
「姫さまがちい姫さまを誑かしているとか何とか」
「まさか」
思わず笑ったものの泊瀬はどこまでも真面目で、揺羅の口元に浮かんでいた微笑みに影が差す。
ちい姫と会うことを禁じられるならば、揺羅が高倉邸でようやく見つけたぬくもりをまた失うこととなる。あの冷たく暗いだけの日々に戻ってしまうのだ。
泊瀬は、黙りこくってしまった主人に心配げな視線を向けながら、諭すように続けた。
「よろしゅうございますか、姫さまは決してお言葉を発せられぬよう。すべて、この泊瀬にお任せくださいませ」
灯を取って参ります、と対屋を出て行った泊瀬の衣擦れを聞きながら、揺羅は細い自分の手に視線を落とした。
以前に一度だけ、ちい姫を捜しに不意に現れた宰相の姿を思い出すと、あの時、揺羅の心にほんの少しのぬくもりを落とした、ありがとう、という宰相の声が同時に聞こえた気がした。
ゆっくりと対屋のうちを見まわしてみる。
かつて幼い頃、この東北の対に住まっていたという宰相。怜悧な頭脳を持ち帝の信も篤く、やがては政の中央に立つであろうと目されている、夫の兄。あの、可愛らしいちい姫のお父君───
よくよく考えてみれば、物心ついて以降、そもそも春恒以外の公達と差し向かいで会ったことなど、父や兄を除けば一度もない。言いようのない不安はますますふくらんで、戻ってきた泊瀬の気配に気づくや揺羅は、弱々しい声で思わぬ言葉を呟いた。
「ね……殿は今、どちらに?」
言ってしまってから、己が口から出た言葉に揺羅自身が驚く。あのお方を頼りになどできようはずもないものを。
泊瀬は、手にした火を大殿油に移しながら、申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「わたしも、ここ数日はお姿も見ておりませぬゆえに……尋ねて参りましょうか?」
「いえ! ……いいえ、いいの。いいのよ、いつものことですもの」
慌てて首を振り、そのまま黙り込んだ。春恒がこの場にいたとして、いったい揺羅のために何をしてくれるというのか。
対屋にしんと沈黙が落ち、そこに揺羅の小さな吐息が滲む。どれほどの不安があろうとも、揺羅は結局この邸でどこまでも孤独な存在なのだと思い知る。庭のどこかで鶯が場違いに鳴いた。
「───水無瀬……左近の君はどうしている?」
居心地の悪い沈黙を破るように、揺羅はわざと明るい声で問うた。
「もう、体調は落ち着いた頃でしょう?」
揺羅の問いかけに、泊瀬はなおさら困った様子で答える。
「それが……ちょうど二日ほど前に文を送ったのですが、いつもならすぐに返事が来るのに今回は音沙汰なしで」
「なぜ? 榊もともにいるのでしょう? 文の返事すら書けぬなど───」
「姫さま」
はっと視線を上げた泊瀬が揺羅の言葉を遮り、視線で廂を指し示す。
「おいで遊ばしました」
泊瀬が言い終わらぬうちに廂に先導の女房の姿が見え、やがて落ち着いた佇まいの公達が簀子から廂へと入ってくるのが見えた。
曇り空を背に鈍色の衣はなお暗く沈み、その顔もまた影になっていてよくは見えなかった。初めて目のあたりにする宰相の、その身に漂うどこか人を寄せつけぬような気配は噂どおりだ。揺羅は、知らず知らずのうちに衵扇をきつく握りしめ、御簾の向こうに腰を下ろすその姿を几帳の陰から見守った。
「……退がっておれ」
そう囁く声が聞こえ、先導の女房の立ち去る衣擦れが遠くなる。
こちらから声をかけるべきだろうか、そんなことすらどうすべきか分からなくて、揺羅は小さくくちびるを噛んだ。
目の前にその姿を認めて初めて、男の訪問を受けるというのがどういうことであるのかを理解する。ただ、怖い。どう接すればいいのかすら分からない。いったい、このような場所に、わたくしに、何を言いにきたのか。
「急の訪い、どうかお許し願いたい」
しばしの間を置いて聞こえてきた物静かな声に、揺羅は打たれたようにびくりと揺れた。
「かようなところへわざわざお越しくださいましたこと、わが北の方さまも大変嬉しゅう思うておいででございます」
揺羅の代わりに口上を述べる泊瀬の声もまた、どこか震えを帯びているようだ。
「して、宰相さまが、こたびは何用でございましょうか?」
よそよそしく警戒を滲ませる女房に、基冬は黙ってちらりと視線を投げかけた。
几帳の帷の隙から窺う揺羅の目に、何をどう言おうかと考えているような、どこか逡巡した様子の基冬の姿が映る。
その時、にわかに雨の気配を孕んだ風が音を立てて吹き、御簾を大きく揺らした。すぐ近くに鳥の羽音がして、それをきっかけに空を見上げた基冬の視線が御簾のうちに戻される。
揺羅が我知らず身構えて次の言葉を待つその間も、不穏な風が幾度も御簾を叩く。どこか不安を煽るような雰囲気の中、基冬は揺羅が予想すらしなかったことを問うた。
「こちらの御方には、この数日のうちに中将を見たかどうか、そのことをお尋ねしたい」
酉の刻
おおよそ、現在の午後六時の前後二時間。
躑躅の襲
躑躅の花色である紅の濃淡から葉の青(緑)を表した色目です。
(つつじ。紅匂いて三。青きこきうすき二。ひとへ白きくれない。こゝろこゝろなり。───『満佐須計装束抄』より)




