9・元ラグビー部員 ~その2~
喫茶店の外に出ると、強く射し込んできた陽の光に目が眩んだ。いつにも増して天気は良いが、吹いている風は冷たい。
店の入口から少し離れた場所に向かって歩きながら、狼さんからの着信電話に出た。
「はい、新田です」名前を名乗って電話に出るのがわたしの癖だった。
「お仕事中にすみません。いまちょっとだけ大丈夫ですか?」
電話での狼さんの声は、いつもより少し低く感じた。
「ああ、今日は仕事休みだから大丈夫だよ。いま人と会ってるから少しだけなら。夏帆ちゃんはいま仕事中?」
「はい。今日は11時から休憩なんで、いま昼休みです」
腕時計を見ると、午前11時10分だった。
狼さんは事務の仕事をしていて、他の社員と交代でお昼休みをとっているようだ。「早い昼」と「遅い昼」が日によって違うらしい。
「スナちゃん。明日の荒木さんとの件なんですけど」
会社の休憩室にいるからなのか、狼さんの声は小さめだった。
「あぁ、荒木さんとのお食事?」
「はい」少しの間。「……あのー」少しの間。「スナちゃんも一緒に行きませんか?」
また狼さんが突拍子もないことを言いだした。
「えぇっ?! 荒木さんとデートじゃなかったっけ?」
外にいるためすぐそばの道路を走る車の騒音がうるさく、狼さんの声とは対照的に、わたしの声のボリュームは大きめだった。
「べつにデートってほどやないですよ。お食事するだけやし。スナちゃんも荒木さんと会ってみたらどうですか? お友達になったらいいですよ」
「いや、でも……荒木さんに誘われてるのは夏帆ちゃんだけだし、いきなりぼくが行ったら驚くんじゃない?」
「わたしがスナちゃんを荒木さんに紹介するから大丈夫ですよ。行きましょう」
狼さんはどういうつもりなんだろう?
やはり荒木と2人で会うのが不安なのだろうか?
彼女が言っていることは理解できるが、荒木はクリスマスの夜に狼さんと「ステキなお食事」をするのを楽しみにしているんじゃないのか?
そこにわたしが行ったらどうなる?
荒木がイメージしていた「クリスマスの夜」はぶち壊しになり、その場にのこのこ現れたわたしは荒木に恨まれるだろう。
自分を荒木の立場に置き換えてみると明白だった。
わたしだったら絶対に嫌だ。
もし食事に誘った女性が男友達を連れてやってきたら、いったい、どんな顔をして迎えればいい?
ましてやクリスマスなのだから、食事をする予定の店にはすでに2人分の予約を入れているだろう。
なにしろ今日はもう「クリスマスイヴ」だ。
そういえば、前にも同じようなことがあった。
狼さんが職場で知り合った20代の男性2人に誘われて、狼さんの友達1人を含めた男2女2で、ランチをすることがあった。
そこに、わたしが呼ばれた。
「スナちゃんも行きましょうよ。ただのお食事やから」
わたしが行くと男3女2になる。
あのときのわたしは愚かだった。「ランチだけならまぁいいか」と、のこのこと狼さんについて行ってしまったのだ。
瞬時に男2人の顔は凍りついたが、幸い気の良い男たちで、食事をしながら彼らと話をしていると次第に仲良くなったのでまだ救われた。
だが今回は状況がずいぶんと違う。
クリスマスの日に男が女を食事に誘った場にオプションのようについて行くほど、わたしは愚かではない。
「夏帆ちゃん。誘ってくれるのは嬉しいけど、ぼくが行くのは荒木さんに悪いよ。たぶん、クリスマスだからもうお店の予約とかしてるだろうし、夏帆ちゃんとの二人だけの食事を楽しみにしてると思うよ」
本音を言えば、狼さんについて行って荒木を監視しておきたかった。
しばしの沈黙。「……そっか……やっぱり、そうですよね。ごめんなさい。それに、スナちゃんは奥さんとの予定がありますよね……」狼さんの声のトーンがさらに下がった。
狼さんにとって、わたしはいったいどんな存在なのだろう? ずっと疑問だった。
単なる「優しいおにいちゃん」なのか、「保護者がわり」なのか、ただの「知り合いのおっさん」なのか。
それとも本当に「マブダチ」なのか。
どうやら異性として見てもらえていないのが濃厚なようだ。
なんとなくそんな気がしていた。
女心は、いまだによく理解できない。
わたしは場をとりつくろうように話題を変えた。
「そういえば、前に言ってた元ラグビー部員って覚えてる?」
「あー、たしか、ジョニー・デップもどきって人ですか?」狼さんの声はまだ暗い。
「そうそう。いまその人とコーヒー飲んでるんよ」
「えーっ! なんで? また会ったんですか? スナちゃんが声かけたん?」狼さんのテンションが少しアップ。
「また近所のスーパーで会ってね。むこうから声かけてきた。で、いま喫茶店でお茶してるとこ」
「わたしもジョニーを見てみたい! こんど3人で食事行きません?」
携帯電話から少し耳を離しても狼さんの声が聞こえるほど、彼女のボリュームは上がっていた。
クリスマス以降に3人で食事ができるように、わたしが手配をすることになった。
狼さんとの電話を終え、わたしは急いで喫茶店の中に入った。
一条はコーヒーカップを両手で包んだまま窓の外を眺めていた。
「すみません、お待たせしてしまって」わたしは一条に詫びた。
「いえ、とんでもない。こちらこそお忙しいときにすみません」
一条はとても礼儀正しい男だった。
しばらく雑談をしたあと、狼さんに依頼されていた「3人での食事」を一条に伝えた。
彼は「ぜひ食事したい」と満面の笑みで答えた。
結局そのまま昼まで話をしていて、場所を変えて一条とランチをとった。
とにかく一条はよくしゃべる男だった。
ただずっとしゃべり続けるわけではなく一定のリズムで間をとりながら話す、いかにも営業マンらしい話し方だった。
話をしているうちに、わたしは自然と一条に対する警戒心が無くなっていった。
営業マンが初対面のお客さんと会話をするときに、「まず自分のことを話す」というちょっとしたテクニックがある。
例えば自分の出身地や、いま住んでいるところ、家族のこと、趣味のこと、そういったことをオープンにすることで自分がどんな人間かをお客さんに知ってもらう。
そうすれば、お客さんは少しづつ営業マンに対する警戒心を無くしていくのだ。
一条は、わたしに対しても自然とそれを行っていた。
埼玉出身で、先月この近所に引っ越してきたばかり。埼玉ではいまも母と妹が暮らしている。
独身で、恋人がいないかわりに愛車のコルベットにはずいぶんと貢いでいる。
不思議な男だった。
顔は凛々しく体格は筋骨隆々で、いかにも「体育会系の男」という印象だが、話し方はとても柔らかく、態度も顔の表情も常に穏やかだった。
柔和な男だ。
彼に対して好印象を持たざるを得ない。
わたしたちは携帯番号を交換して、年内に狼さんを含めた3人で「忘年会」をすることを約束した。
そしてついにクリスマスの日を迎えた。