12・狼のクリスマス ~その2~
すでに深夜と言うべき時間になっていた。
わたしはしばらく車を走らせたあと、信号待ちで停車したときに、仕事で使っている<ブルートゥース・イヤホン>を起動させて耳の穴に押し込んだ。
これでスマートフォンを手に持たなくても電話での会話ができる。
「夏帆ちゃん聞こえる? いまハンズフリーのイヤホンつけた」わたしは電話の向こうの狼さんに声をかけた。
「もしかしてスナちゃん、こっちに来てくれてるんですか?」狼さんが囁くような声で訊いた。
少し聴きとりづらい。
「うん、いま向かってるよ。まだ後ろから誰かついて来てるの?」信号が青に変わり、わたしはアクセルペダルを踏み込んだ。
「はい。最初は行く方向が同じなのかと思ってたんやけど、もう20分くらい後ろにいるんですよ。距離はけっこう離れてるけど」
「そっちに着くまで、あと10分近くかかりそう。湊川公園はもう過ぎた?」
「まだです。でも、もうすぐかも」
「じゃあ、湊川公園に着いたら、西口のところにあるセブンイレブンにいてもらっていい?」
わたしは湊川公園近くのコンビニエンスストアまで車を飛ばした。
大通りはまだちらほら車が走っているが、さすがに歩いている人はほとんどいない。
それにしても、狼さんは歩くのが好きなのだろうか?
住宅街に入ると街灯が少ないため、道は暗くて危険だ。
物陰に誰かが潜んでいても、襲われる直前まで気付かないだろう。
酒を飲んでいるのならなおさらだ。
狼さんのこういうところに、わたしは危うさを感じていた。
これまで危険な目に遭ったことが無いからなのか、危機管理能力が欠けているように思えた。
むしろ彼女は、あえてそういう危険を望んでいるのではないか? と思ってしまうこともあったほどだ。
狼さんはときどき、どこか悲しげな、思い詰めたような表情をするときがあった。
わたしは狼さんのそういう顔を見るたびに胸が締めつけられた。
過去に何かよほど辛いことがあったのだろうか。名字のこと以外で。
それともいま、何か大きな悩みを抱えているのだろうか。
しばらく走ると湊川公園が見えてきた。
神戸市にある湊川公園は、南北に長い台地状になっている大きな公園で、公園内には「楠木 正成像」や、神戸タワーを記念したカリヨン時計塔などがある。
楠木 正成は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将で、いまで言う<ゲリラ戦法>を得意としていた。
その戦法は彼の子孫によって伝えられ、江戸時代には<楠木流の軍学>として流行したそうだ。
南北朝戦争の際、北朝側の勝利に終わったあと、南朝側に尽くして死んだ正成は朝敵とされてしまったが、子孫の嘆願により天皇の勅免を受けて朝敵ではなくなった。
さらに江戸時代には史家によって正成は忠臣として見直されたらしい。
現在、楠木 正成は湊川神社に祀られており、地元では親しみを込めて「楠公さん」と呼ばれている。
湊川公園の西口のそばにあるコンビニに近づいていくと、店の前に狼さんの姿が見えた。
このコンビニは専用駐車場が無いため、わたしはハザードランプをつけて道路の脇に車を寄せて停めた。
狼さんはコンビニの前で立ったまま夜空を見上げていた。
ショート丈の黒いピーコート、ぴったりしたデニムに、茶系のブーツを履いて、首には赤いマフラーが巻かれていた。
てっきりコンビニの中にいるものだと思っていたから、わたしは少し驚いた。
狼さんが寒い思いをすることなく待てるように、コンビニを指定したのだが……。
「夏帆ちゃん。コンビニの中に入ってればよかったのに」わたしは車を降りて狼さんのほうへ歩きながら声をかけた。
「だって、ここ駐車場が無いから」
コンビニの大きな窓から漏れてくる明かりが狼さんの白い肌の顔を照らしていた。茶色がかったストレートの髪の毛が輝いて見えた。
ずっと寒いところにいたせいか、頬と鼻の頭がほんのり赤くなっている。
「月を見てたんですよ。今日、天気が良かったからキレイですよ。ほら」そう言いながら狼さんは月のほうを指差した。指先も赤くなっている。
わたしも狼さんの横に並んで夜空を見上げた。
まるで縦に真っ二つに割ったような半月が輝いていた。
“満月”じゃなくてよかったね、とおもわず冗談を言いかけたが、言葉を飲んだ。
そんなことを言ってしまうと、狼さんの心の古傷を広げてしまうことになりかねない。
「うん。キレイだね」左半分しかない月を見上げながら、わたしはそう答えた。
こうして狼さんと肩を並べて月を見上げるのは、これから先、あと何回あるのだろう。
もしかすると、これが最後かもしれない。ふいにそんなことを思った。
狼さんに恋人ができたり、結婚したりしたら、もうこんな夜中にわたしと2人で会うことはなくなるだろう。わたしがいまやっている役目は、彼女の恋人や夫がするはずだから。
狼さんが幸せになるのは嬉しいが、どこか寂しさが残る、複雑な気持ちだった。
しばらく夜空を眺めていたが、体が冷えてきたので「家まで送るよ」と言いながら狼さんのほうを向くと、彼女はわたしの顔をじっと見ていた。
狼さんと目が合った。やはり彼女は、どことなく悲しげな目をしているように思えた。
不審な人物に後をつけられて怖い思いをしたせいかもしれない。
「ごめんねスナちゃん。わざわざ来てもらっちゃって」狼さんが言った。
「ぜんぜんいいよ。夏帆ちゃんの後をつけて来てたってヤツは?」
「どっか行っちゃったみたいです。それにしてもスナちゃん、すごい恰好」
「ああ、部屋着のまま出てきちゃったから」
確かにわたしはあまりにもラフな格好だった。
黒いダウンジャケットの下は、ユニクロのスウェット上下に、VANSのスニーカーだった。
2人で車に乗り込み、狼さんの自宅へ向かった。
どうやら狼さんがホテルオークラ神戸を出てしばらく歩いていると、後ろから黒ずくめの格好をした男が歩いてついて来ているのに気付いたらしい。
最初は帰る方向が同じなのかと思って気にしていなかったそうなのだが、わたしと電話で話しているあいだもずっとその男が後ろにいたから怖くなってきたのだそうだ。
狼さんがコンビニの前に着いたころにはすでに男は消えていた、とのことだった。
「オークラでの食事はどうだった?」わたしは助手席に座っている狼さんの横顔をちらりと見ながら言った。
「美味しかったですよー。夜景はキレイだし、荒木さんはステキだし。まさに、スナちゃん好みでしたよー」
狼さんの顔に笑顔が戻った。
わたしはあえて、狼さんの言葉尻を捉えてみることにした。
「ぼく“好み”って、どれのこと?」
「荒木さんに決まってるやーん!」狼さんの声が1オクターブ上がった。
「ぼくはホモやないっちゅうに! 荒木氏はどうか知らんけど!」いつものやりとり。
さっきまで暗い顔をしていた狼さんの元気が戻ってきたようだ。助手席でケラケラ笑っている。
それにしても、やはりホモネタがはじまってしまった……狼さんは、わたしがホモであることを望んでいるのだろうか?
それとも、本当にわたしがホモだとでも思っているのではないか?
おおいに心外だ。
「ところでスナちゃん。奥さんとはちゃんと仲良くしてますか?」しばらくして狼さんが訊いてきた。
ときどき狼さんは、わたしが元気かどうかの安否確認と、妻とのことを質問してくる。
「えっ……あぁ、まぁ、うん。今日、2人で食事してきたよ。近所の洋食屋で」
わたしは若干しどろもどろになってしまった。
「いいなーっ!」狼さんがヘッドレストに“ぼすん”と頭をあずけながら叫んだ。そしてそのままフロントガラスの向こうに流れている夜空を見つめた。
「夏帆ちゃんだって荒木さんと食事してたやん。オークラの最上階で」
「まぁ……そうですけど……」
それっきり狼さんは黙ってしまった。
「そういえば、一条くん……元ラグビー部員との食事はいつにする? 忘年会しようってことになってるんだけど」わたしはあえて話題を変えた。
「あー、ジョニーですか? 忘年会しようしよう! わたし28日からお正月休みなんですよ」
「そうなんだ。じゃあ28か、29日あたりでいいかな? ジョニーに都合を訊いておくよ。ゆっくり酒飲みたいしね」
「おう! 飲もう飲もう! ジョニー、どんな人なのか楽しみやなーっ!」
狼さんの中では、もうすっかり一条のニックネームは「ジョニー」になっているようだった。
そんな話をしていると、あっという間に狼さんの自宅に着いた。
狼さんは何度もわたしにお礼を言ったあと、「スナちゃんを夜中に連れまわしてしもうて、奥さんに申し訳ねぇ!」と言い残してマンションの中へ消えていった。
わたしはその帰り道に狼さんの自宅からほど近いコンビニに寄った。このコンビニには駐車場がある。
店のトイレを借りたあと、ホットの缶コーヒーを買って外へ出た。
そのときに、店の駐車場の隅に白のコルベットが停まっているのが見えた。
――あれ、あの車は……。
わたしはコルベットに近づいてみた。中には誰も乗っていないようだ。
車のナンバープレートを見ると、一条のコルベットと同じ埼玉県の“大宮ナンバー”だった。
間違いなく一条の車だ。なぜこんなところに?
店の中に一条の姿は無かった。車の中にも乗っていない。
彼はどこへ行っているのだろう。
いまいるコンビニは、狼さんが住んでいるマンションから100メートルほどの距離だ。
わたしの自宅の近くに住んでいるはずの一条が、なぜこんなところに車を停めているのだろう。
ただの偶然なのだろうか。
わたしは自分の車の中で先ほど買ったコーヒーを飲みながら、しばらく一条が戻ってくるのを待ってみた。
20分ほど待ったが、一条どころか、他の客すら誰も来なかった。
もしかするとこの近くに一条の友人か知人が住んでいて、そこへ行っているのかもしれない。
そんなことを考えながらわたしは帰路についた。
それと同時に、どうしてわたしがとつぜん夜中にいなくなったのか、妻への言い訳も考えておかなければならなかった。




