愛
婿君はきちんと作法通り三夜通い、所顕しの宴もして正式な婚儀を結んだ。流石にわたくしの美しさには及ばないが、なかなかの美男である。わたくしに通うのならこの程度の美丈夫でなければ映えが無い。
この結婚を父はもちろん、母も周りの人々も皆が喜んだ。父は無事に内大臣様と良いつながりが得られたようだ。邸の雰囲気もずっと明るくなり、皆が幸せそうな笑顔を見せる。
わたくしは目的を達成した。中宮にはなれなかったが、それでも精一杯のことをして華を咲かせる事が出来た。いや、まだこれからもわたくしは華やぎ続けて、人々に注目され続けるのだ。そのためにこの婿君は絶好の相手だった。
使用人と言うのは安心すると口うるさくなる物で、婿君の噂を聞いていた侍従はいくら私が美しくてもひと月もすれば飽きて足が遠のくのではないかと心配し、
「早く御懐妊なされませ」
などと下らないことを言っていた。
「どんなにお美しい人が御相手でも、男心と言うのは不思議なもので、姿形ばかりでは飽きてしまうものなのです。ですがお子様を設けられれば情のわき方も変わります。早いご懐妊をなさった方がこれから安心できますよ」と。
さらに乳母が私に、
「もう少し、笑顔をお見せになっては? 愛嬌も女の魅力の一つでございます」
などと生意気な事まで言う。まるで以前の父上のようだ。何が「なよやか」だ。何が「愛らしさ」だ。このわたくしの美貌を侮るもの言いは許さない。わたくしに媚びや愛嬌は必要ない。わたくしが磨くのは絶対の美のみである。わたくしはこの美を磨くことによって、目的を達成できたのだ。
それに婿君はわたくしに満足している。いつも丁寧に一つの乱れも無く櫛通した黒髪を婿君は褒めて下さるし、ぬかりなく季節に合わせた上質な衣の襲も褒めてくれる。
丁寧に切りそろえた爪や、産毛さえ許さずに丹念に抜いた眉の上に、左右寸分の狂いも無く点打たれた桃眉と言った、細かなところにも目を行き届かせて褒めて下さる。
婿君の歌は相変わらず情熱的で達筆。古今集がいつでもそらんじる事が出来るわたくしにまったく引けを取らない。
男君と言うのはこうでなくてはならない。女の美に敏感で、その美を隅々まで丹念に堪能できる感性が無くては良い男君とは言えない。つまらぬ睦言などいらない。わたくしは美術品であり、輝かしい宝玉である。それを鑑賞する能力の無い男など男のうちに入らない。こうした崇高な美への探求は、使用人たちなどには分からないのだ。
わたくしは婿君の褒め言葉に喜んだりなどしない。顔をほころばせるのはおろか、微かに頬を染める事も無いようにしている。究極の美術品である以上、そのような事はすべて当然に出来ているよう振舞わねば、わたくしの価値が落ちると言う物だ。
だが、そのうち婿君はわたくしを褒めなくなった。どれほど化粧を凝らしても、どれほど美しい衣を身につけても、我が身の美を堪能なさらなくなった。毎晩足繁く通っては下さるが、暗い顔でわたくしの方を見ても下さらない。口にするのもありきたりな挨拶ぐらいしか無い。
わたくしはうろたえかけたが、顔には出さない。そんな表情は醜悪だ。この美しい男君にそんな醜態を見せるわけにはいかない。
わたくしはなんでもない風を装って、それから数日をいつも通りに過ごした。しかし婿君の様子は変わらない。
それがあまりに長く続くので、とうとう我慢できずに、
「……この衣装は、お好みに合わないでしょうか?」
などと聞いてしまった。ああ、これでわたくしは一つ価値を落としてしまった。
しかし婿君は私の姿を見ると表情も変えずに、
「よく、お似合いです。特にその華やかな表着は、あなたの瞳に合っています」
と、わたくしを観察しながら言う。
やはり、わたくしの姿は乱れ一つなく整っていたのだ。そんな事は自分が一番分かっていた。
それなのに婿君はわざと私を不安がらせて、こんな屈辱的な言葉を言わせたのだ。なのに婿君は言う。
「あなたは私の好みに合わせて衣を着る人じゃない。あなたは私を愛しているのでしょうか?」
愛? 今更そんなくだらない事を。
貴族同士の結婚は政略結婚しかあり得ない。しかもわたくしはもともと帝の皇子の女御になるはずだった女。そんな女を手に入れるのに本気で愛情を求める男がいるはずがない。わたくしだって長年結ばれることを夢見ていた皇子様が亡くなっても、それほど悲しくは無かった。顔も見たことのない相手など、そのくらいの認識しか無いのが普通だろう。
わたくしたちは親のために契りを結んだ身。あなたは美の称賛者であり、わたくしは美術品。それで充分なはず。
「あなたに愛されていないなら、私がここに通う意味はありませんね。それならそう、おっしゃって下さい。父達の対面を傷つけないよう取り計らって、私はここに来るのをやめますから」
婿君は目も合わせずにそう言う。
そうか。婿君はやはりわたくしに飽きてしまっていたのだ。私が愚かだった。侍従が言っていたではないか。
「どんなにお美しい人が御相手でも、男心と言うのは不思議なもので、姿形ばかりでは飽きてしまうものなのです」と。
この男は父上達の対面のために我がもとに通っていたのだ。いや、それはわたくしも同じだった。この結婚は親のための物。ただ、この男が思いの外才能豊かでわたくしの美への鑑賞能力が長けていたから、つい嬉しく思ってしまっただけのこと。こんな男、いつ別れても……
「それなら、さっさと御通いになるのを、やめて下されば良かったのに」
ああ、余計な事を言ってはいけない。見苦しい。黙って美しく別れてしまえばよいのだ。
「もう一度聞きます。あなたは私を愛してはいないのですか?」
わたくしに愛などあろうはずがない。わたくしは美術品。そしてこの男はいつもわたくしを隅々まで褒めてくれた。些細なことにまで目を向け、いつもわたくしを気にしてくれていた。わたくしは、それをどんなに嬉しく思っていたか。そしてどれほどこの男の目を楽しませようと熱意を持った事か。それまでも美しくあろうと熱意を持って自分を磨いてきたけれど、これほどまでに熱くなったことは無かった。それなのに……。
わたくしは、ふと思った。ひょっとしたら、これこそが恋と言う物だったのか。
皇子様が亡くなられた時はわたくしの心はまだ幼くて、憧れの宮中に上がれなくなった侘びしさしか感じなかった。でも、婿君の時は情熱的で巧みな歌を贈られて、胸躍るような手ごたえを感じていた。結ばれて後はその態度やしぐさの一つ一つが気になっていた。それはわたくしに挑んでくる人へ張り合う気持ちが働いたのだと思っていたが、いつしかその心は恋に変わっていたのではないか?
だが今その恋は終わりの時を迎えようとしている。婿君の心はわたくしとの別れに向かって流れている。このままではわたくしも流されてしまう。
流れなければならぬなら、いつか見た秋の川に散り落ちた紅葉の様に、潔く流されてしまえばよいのだ。
流されまいとする姿。それはたいてい見苦しい。流れを妨げ、散りを積もらせ、淀ませる。
そこに清らかさや潔さは無い。ただ醜く濁って行くだけである。
それはきっと、恋も同じ。美を追求してきたわたくしが男君にしがらみの様にまつわりついてすがるなど醜さの極みではないか。それなのに。
「……あなたこそ、わたくしを愛して下さらないの? あなたのために美しくありたいと、こんなにも努力を続けて来ましたのに!」
わたくしは婿君に……失いそうな恋にすがりつき、そう叫んだ。そして涙さえも流れてしまった。その愛の深さに自分が一番驚いていた。
すると婿君は表情を和らげて、わたくしの頭をまるで幼子をあやすように撫でた。
「ああ、あなたはやっと私に心を開いてくれた。分かっていますよ。あなたが私を愛していることなど。あなたは乳母に愛想が悪いと叱られながら、意地になって私に微笑まないようにしていただけ。本当のあなたは私の褒め言葉にとても喜んで、褒められた所は念入りに身を整えてくれた。あなたは子供のように意地っ張りで気が強い。私は自分より身分の低い女人達ばかり相手をしていたので、皆気が弱く卑屈で物足りなかった。しかし私はあなたのそう言う気丈さに惹かれたのです」
「それでは、ここに来ないと言うのは……」
「意地の悪い事をしてすまなかった。ここに来ないなんてもちろん嘘です。私ばかりがあなたを愛しているのでは少し悔しいので、あなたに私への愛を気付いて欲しかったのです」
そう言って婿君はわたくしを愛おしそうに抱きしめてくれる。
流されないようにと、しがらみの様にからみつく紅葉の姿も、恋の中ではこんなにも美しく輝くのだわ……。
私の中に宿った恋は、どんな宝玉よりも美しかった。




