27 運命の女神の前で
ぎり、と四肢の枷を睨み付ける。
まずは、右手の枷から。
断ち切れないと考えるのではなく、断ち切るまで打ちつけ続ければいい。
鈍い金属音が、その場に鳴り響く。
「ユカリ……、と言ったか。人の子よ、無駄だ」
プロメテウスがくつりと笑う気配がしたが、ユカリは気にせず鎖に短剣を打ちつけ続ける。ヘファイストスの一品はさすがに丈夫で、何度金属に打ちつけても欠けることはなかった。
何度も何度も繰り返しているうちに、鎖に亀裂が入ってきた。もう少しと自分を奮い立たせ、ユカリは大きく腕を振りかぶる。
(――えいっ!)
きん、と澄んだ音と共に、鎖が砕け散る。
肩で息をしながら額の汗を拭うと、休む間もなく左側にとりかかった。
左側が終わったら、左足。
それが終わったら右足。
短剣は一向に刃こぼれしない。途中で何度もアキレウスの様子をうかがったが、彼も疲れたのか、だんだん動きが鈍くなってきているようだ。
早く、早く、早く! アキレウスだって、あんなに頑張ってくれているんだから!!
「その短剣……もしや、ヘファイストスの」
プロメテウスの呟きにうなずき、ユカリは黙々と作業を続ける。
汗で視界がにじむ。
短剣を持つ手は、すでにしびれて感覚が麻痺している。
呼吸をするのもつらい。
けれど、それが何だというのか。プロメテウスの今までの苦痛や、アキレウスがしてくれていることに比べたら、ちっともつらくなどなかった。
少し視線を落とせば、だくだくと脇腹から流れる血が見える。
先程彼は、肉体が毎日再生すると言っていた。だとすれば、いくら血が流れようとも、内臓を喰いちぎられようとも、眠って起きればまた同じ苦痛が待っているのだ。
なんて酷い、罰。なんて傲慢な、神の罰。
鎖に細かなひびが入り始めている。あと少しで、この枷を完全に壊すことができる。
疲れと緊張でわき出る手の汗を服にこすりつけて、もう一度と短剣を振り下ろしたその時。
「――ユカリ!!」
アキレウスの絶叫と強い衝撃、そして灼熱の痛みが訪れた。
「ユカリ! ユカリ!!」
アキレウスの悲痛な声が、どこか遠い。ただ、腹部が暖かいとぼんやり思った。
プロメテウスはどうなったかと聞こうとしても、何故か手が動かない。じゃらりと小さい音がして、影が一つ増えた。その時点で、ユカリはようやく自分が倒れていることに気づく。
「……仕留め損ねたか、アキレウス」
「捌ききれなかった……っ!!」
冷静なプロメテウスの声に、アキレウスの絞り出すようなそれが重なった。ユカリには逆光で、二人の表情が見えない。
どうしたの、どうしてそんなに苦しそうな声なの?
仕留め損ねるって、何を?
声が出ないとこんな時に不便だと、場違いな感想をユカリは抱く。光のまぶしさに目を細めると、視界まで霞む。
そんな中、一際まぶしい光を感じた。身体を動かす気力もなく視線だけをそちらに向けたユカリの耳に、アキレウスの小さな呟きが聞こえる。
「……運命の女神達」
温かな気配。ぼやけたユカリの目にも微かに見える姿は、三人の女神。
その中の一人が、彼女の胸の上に何かを近づけた。
「やめろ!! そいつはまだ生きてる!」
アキレウスの声が遠い。どうしてそんなに焦っているんだろうか。
「これは定め。いかなゼウスといえど、変えることのできぬ定め」
「この娘はここで命を終える、そう定められた」
「諦めなさい、英雄よ。誰もこの娘を救うことはできないのです」
何の話をしているのか、当人らしき彼女自身にはさっぱりわからない。それでも、何か嫌な予感がその背筋を這い上がった。
銀色の何か――ハサミがユカリの胸の上に掲げられる。
動こうとしたアキレウスは、突然人形のようにぎしりと動かなくなった。
そんな彼を、プロメテウスが静かな目で見ている。
「ユカリ!」
アキレウスの大きな声。ハサミがゆっくりと閉じられる。
同時に、何かがぷつりと切れる音がした。意識はゆったりと、温かな闇の中へ。
ああ、私は死ぬのか。これが死ぬということなのか。
最後に、アテナ様にお会いしたかった。
そうして、ユカリの意識は闇に沈んだ。




