26 プロメテウスの元で
「行くぞ」
本当に大丈夫かと確かめるように振り向いたアキレウスに、ユカリは口元を引き締めて小さくうなずく。
アキレウスに寄り添って寝たあの夜から、登るペースは徐々に速くなっていった。悪夢から逃げるように。
危険な岩場ではアキレウスが手を差し伸べ、ユカリもそれにためらわずにすがる。ユカリが疲れたと感じる頃合いに、アキレウスはちょうど休憩をとる。
食べ物は乾燥したパンとチーズ、そしてほんの少しの水だけ。それでもアキレウスは、自分の分までユカリに分け与えた。
頂上に近づくごとに冷たくなっていく空気は、しっとりと二人にまとわりついて、髪や服を湿らせていく。
アキレウスは自分の上布を脱ぎ、寒さに震えるユカリを覆った。
「風邪引くなよ」
ぶっきらぼうにそう言った彼の頬が赤かったのは、ユカリの気のせいではないだろう。
そうして二月ほどかけ、ようやくたどり着いた頂上。そこには、想像を絶する光景が広がっていた。
天まで届くのではないかと思うほど大きな、一枚の岩。
そこに四肢を枷で拘束され、磔にされた若い男神。
鈍く光る金髪は力なく垂れ下がって、隠された表情は口元しか見えなかった。
その口からは、絶え間なく漏れる苦痛の声。
無数のハゲタカが、彼の身体をくちばしで突き刺し、その内臓を貪り食っていた。
ユカリがまだ日本にいた頃、テレビの向こう側で見ていたサバンナの捕食風景。
それが一番表現として近い。
反射的にせり上がってきたものを、抑えることはできなかった。
吐いて吐いて、胃液しか出なくなるまで吐いたところで、やっとの思いで生理的な涙を拭う。
この男が、プロメテウス。ユカリが助けなければならない相手。
泣いている場合じゃない。拒絶している場合じゃない。
「……誰だか知らんが、物好きな、ものだ。好き好んで……この私を見に来ようとは」
二人に気づいたのか、呻き声しか出していなかったはずのプロメテウスが、皮肉気な口調で言い放つ。
けれど、その声に力はない。うなだれたまま、二人を見ようとすらしていないようだ。
「俺はアキレウス。こいつはユカリ。あんたを助けに来た」
「助ける? この私を? ゼウスの罰だというのに?」
「……あんた、マジで何したんだ? ヘラクレスが解放したはずだろ」
「――気に、食わなかったのだろうよ。私が。……ゼウスに反抗ばかり……していたし、なにせティターン、族、だからね。だが――正直、毎日再生する……この肉体も、この苦痛も、――飽いた」
ティターン族。
ゼウスによって、封じられた昔の神々。
その一員であるプロメテウスがどうしてこのオリュンポスにいるのか、ユカリにはわからない。
けれど、そんな事情などもうどうでもよかった。
この人を、苦しみから解放しなければ。クロノスとの取引やら条件やら、そういうことを一切抜きにして。
こんな酷い仕打ち、誰であっても受けていいはずがない。
衝撃が過ぎたユカリの胸にあるのは、怒りだけだった。
じり、と一歩踏み出した。けれど鳥が邪魔で、その攻撃を受けるのが怖くて、彼女の足はそれ以上動いてくれない。
そんなユカリの頭を小突き、アキレウスが不適に笑う。
「何のためについてきたと思ってんだ? この状況は予想してた、鳥は俺が相手をする」
だから、お前は早くプロメテウスを何とかしろ。
高らかに宣言して、アキレウスが走る。迷うことなく猛鳥にむかって。
その手には、ヘファイストスから贈られた剣がきらめいていた。
鋭い一閃に、ハゲタカがぎゃあぎゃあと鳴きわめく。視界が覆われるほどの羽が舞った。
「ユカリ、早くしろ!」
アキレウスを敵と見なしたのか、ハゲタカ達が一斉にそちらに意識を向かわせる。プロメテウスの周りに、鳥がいなくなった。
あらわになった傷口の赫さにおののきつつ、ユカリは彼に駆け寄る。
(助ける! ――でも、どうやって?)
手元には、短剣が一振り。
これであの鎖を断ち切れるだろうか。
不安が一気に戻ってくる。
ちらりと、アキレウスを見る。怪我をしながらも、鳥の相手を一手に引き受けてくれている。
――彼女が迷っていられる暇はなかった。




