25 悪夢と恐怖と小さなぬくもり
獲物は罠にかかった。
彼が待ち望んでいたその瞬間が、刻一刻と近づいてくる。
罠を罠と知らず、その意味も知らず、まんまと手中に収まる獲物。
ああ、早くその時が来ないものか。
暗闇に一つ、彼のため息が落ちた。
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くちゃり、ごり……ごり……くちゃり、くちゃり。ぴちゃ、がり。
不気味な音が聞こえる。あえて言うならそう、弾力のあるものを食べる音とやすりをかける音が同時に聞こえているようだ。女性のすすり泣く声も、どこか遠くで聞こえた。
けれどそれよりも、ユカリの意識はたった一つに集中する。
痛い、痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い!!
四肢をちぎられるような痛み。
灼熱の炎のようなそれが、全身を襲う。
痛みから身を守ろうとしても、何故か身体が動かない。それがさらに恐怖を煽りたてて、がむしゃらに動こうとした。
途端に襲う、灼熱。
おやめください、女性のか細い声がする。
それでも痛みは消えてくれない。
何をやめるというのか。
この拷問のような痛みを与えることだろうか。
そもそも、どうして私がこんな痛みを味わわなくてはならないのだろうか。
ぷちり。
何かが切れる音がした。また襲う痛み。
そして、視界が真っ赤に染まって――。
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遠目からもその高さがわかったカリカウス山。
茶色い岩肌が目立つそこは見上げても頂上が見えず、七合目辺りで雲を突き抜けている。
一体どれほどの高さなのかとおののくユカリは、アキレウスに励まされながら少しずつ足を進めていた。
二人とも装飾など欠片もない、簡素な旅の服装に着替えていた。ごわごわとした生地がユカリの柔らかい肌を刺激して、あちらこちらが赤くなっている。
サンダルは今までよりも、底がしっかりしていて分厚いものを。今までよりも弾力があり、始めの頃は戸惑っていたユカリも、山を登り始めてからその重要性に気づいた。
髪は風で乱されないように、ただ後ろで一つにまとめて。慣れない革紐で髪を結うのは苦労したが、そこはアキレウスの手を借りて何とかしのいだ。
さすがに化粧をしている余裕はないということで、アキレウスは素顔に戻っている。それはユカリに抵抗感を芽生えさせたが、彼女も現状を考えずにわがままを言うつもりはなかった。
ごつごつとした岩が続き、道と言えるようなものはない。
枯れ果てた山はせせらぎすらなく、革袋に持ってきていた水はとても貴重なものとなった。
少し登っては休憩し、また登っては休み。
ユカリの少ない体力では、一日かけてもほんの少ししか登れなかった。つきあってくれているアキレウスに申し訳ないと思ったが、彼女にどうこうできる問題でもない。
星が瞬く夜空を見上げながらの野宿。旅慣れていたのか、アキレウスは岩肌が痛くないように厚手の毛布を用意していた。
けれど毛布は一枚きり。いつもユカリが使っている。
野宿に慣れない自分のために用意してくれたのだと気づき、ユカリは顔が熱くなるのを感じた。
毛布を譲り譲られ最後には押し込まれる。そんな繰り返しをした十日目の夜、柔らかな寝床に根転びながら、彼女はふと思いついた疑問をアキレウスに投げかけてみる。
『どうして、ここまでついてきてくれるの?』
彼自身もヘラに目をつけられたとはいえ、それは彼女のおまけのようなもの。様々なツテがあるアキレウスならば、それから逃れる方法はいくらでもあるだろうに。
危険なことだと承知しているはずなのに、どうしてここまで良くしてくれるのかが、彼女にはわからなかった。
首を傾げるユカリに、アキレウスは小さく苦笑した。
「……ほっとけねえんだよ、お前のことが。このままじゃお前、一生そのままだぞ?」
『でも、アキレウスも危険なんだよ?』
「自分の身を守れないほど柔じゃねえ。それよりも、お前を守る方が先だ」
その時、とくりと動いた心臓は何だったのだろう。
胸に手を当てて小首を傾げるユカリの額を、アキレウスが軽く小突いた。
「お前、最近よく寝てないだろ。どうしたんだ?」
顔を覗きこまれ、ユカリは反射的に目をそらす。
まさか、気づかれているとは思ってもいなかった。
そう、今何よりも恐ろしいのは、眠ること。
山を登り始めてから、毎晩不気味な夢を見る。この先にあるのは不吉だけだ、そんな気持ちにさせるような、嫌な夢。
うなされては起きる、その繰り返しで、ただでさえ少ないユカリの体力は限界に近づいていた。こけた頬に視線を感じながら、ユカリは沈黙を貫く。
「ユカリ、何にうなされてるんだ?」
『何でもない。大丈夫』
「お前、毎日それ言ってばっかじゃねえか」
頭をがりがりと乱暴にかいたアキレウスは、ため息をひとつ落として立ち上がった。とっさにその服をつかんでしまったユカリは、驚いて自分の手を見る。
「……どうした?」
どうしたと訊かれても、彼女も自分の身体に訊きたい状態だ。いや、わかってはいるのだが、なんとなく認めたくなかった。
悩んで悩んで、結局おずおずと地面に文字を書いた。
『寝るまででいいから……傍にいて』
一瞬虚を突かれたような顔をしたアキレウスは、小さく息を吐いて座り直す。
そっぽを向いた口元を片手で覆った彼は、ぶっきらぼうにユカリの頭をなでた。
「休め。傍にいるから」
――その夜も同じ悪夢を見たけれど、いつもより恐怖は少なかった。