第12章:一ノ谷の戦い
平家は、去年の冬頃から、八島を出て福原に移る準備を進めていて、年が明けてからは福原に本拠地を移しました。防衛のための拠点として、西は一ノ谷に城郭を構え、東は生田の森を城郭の正面としました。その2つを両端として、福原、兵庫、板宿、須磨に、山陽道、南海道14カ国から集めた軍勢、10万騎余が控えていました。一ノ谷は、北は山で南は海。福原へ入る道は西しかなく、入り口は狭くて奥は広い構造になっていて、攻めにくく守りやすい地形になっていました。
平家が福原に本拠地を移した後、四国の方で反乱が起きました。徳島の阿波国、香川の讃岐国の武士たちが、平家を裏切って源氏に味方しようとしましたが、「これまで私たちは長く平家に仕えてきたものだから、いまさら源氏に味方しても、信用されないに違いない。だから、平家に矢の一つでも射かけて、それを証拠に源氏のもとに向かおう」と考えました。
平教経はこれを聞いて、「にくい奴らだ。昨日、今日まで平家のために馬の飼葉を刈っていたものが、もう主人を裏切るとは。そういうことなら一人も討ちもらすな」と言って、小舟に乗って軍を率いて攻め立てました。四国の武士たちは、矢の一つも射かけたら退こうと思っていたところを、手ひどい反撃にあったので、まだ本格的な戦いになる前から敵わないと思って、すぐに逃げていきました。
その後、四国の武士たちは、兵庫の淡路国の福良というところの城にこもって、教経を迎え撃とうと待ち構えました。教経は、1日かけて激しく城を攻め、敵の大将を討って城を落としました。そして、城にこもって矢を射ていた武士たち130人余の首を切ってしまいました。
これを皮切りに、教経は、愛媛の伊予国、広島の安芸国、兵庫の淡路国、和歌山の紀伊国、大分の豊後国の反乱をことごとく鎮めて、福原に戻りました。この活躍で、教経の武勇は平家一門に轟くことになりました。
1月29日、京都にいる源範頼と源義経は、法皇の元へと参上して、平家追討のために西国に向かって出陣することについて、許可を下さるようお願い申し上げました。法皇はこれを許可なさって、「本朝には、神話の時代から伝わる伝説の3つの宝がある。内侍所、神璽、宝剣の三種の神器のことだ。くれぐれも無事に取り返してくれ」とおっしゃいました。範頼と義経の2人はかしこまって承りました。
2月4日は、清盛の命日ということで、仏事が行われました。そのついでに、福原で任官が行われました。昔、平将門が東国を従えて勝手に任官を行ったことがあり、その時は天皇も三種の神器もない正当性のない任官でした。しかし、今度の任官では、平家一門は、源氏によって京から追い落とされ、落ち延びたとはいえ、今上天皇を擁し申し上げ、三種の神器を伴っており、正当な朝廷としての体裁を整えていましたので、間違ったことではありませんでした。
源氏方は、4日には攻撃の準備が整いましたが、清盛の命日と聞いて延期し、5日は陰陽道で西に行ってはいけない西ふさがりの日で、6日は陰陽道で外出を控える道虚日だったので、7日の朝6時頃に矢合わせとしました。しかし、4日は吉日だったので、出陣は4日に行なって、その日の内に軍を進めておくことになりました。大手は範頼を総大将として、5万騎余で福原の東の生田口に向かい、搦手は義経を総大将として、1万騎余で福原の西の一ノ谷に向かいました。
迎え撃つ平家方は、故重盛の次男で維盛の弟の平資盛を総大将として、3千騎余で義経の進路を阻もうと、三草山の西に陣を取りました。義経は、2日かかる行程を1日で飛ばして、三草山の東に4日の夜にはたどり着きました。
義経は、部下を呼んで、「平家はここから12キロメートルほど離れた山の西麓に大勢で控えているが、今夜夜討ちにするのがいいか、それとも明日の戦にするか」と聞いたところ、部下の一人が、「明日の戦となったら、平家に勢いがついてしまいます。相手は3千騎余、味方は1万騎余。はるかにこちらが有利です。夜討ちにしましょう」と言ったので、その場にいた全員が一斉に立ち上がりました。「山道は暗いがどうしたものか」と部下が口々に相談していると、義経は「例の策で行こう」と言いました。
部下は「そのことを忘れていました」と言って、近くの民家に火をかけ、さらに野山にも火をかけていきました。炎の明かりであたりは昼のように明るくなり、夜の山道も問題なく、12キロメートルほどの三草山の山道を越えていきました。
平家方は、夜討ちがあるとは夢にも考えていないで、翌日の戦に備えて早く寝ていました。先陣の中には用心して起きているものも多少はいましたが、後陣は全員が眠り込んでいました。そんな中、源氏方の軍が、夜中に突然押し寄せて、鬨の声を上げました。平家方は大慌てで大混乱になり、弓矢を取り忘れるものがいたり、押し寄せる馬に反撃するどころか、馬に蹴られないように道を開けるものもいました。
源氏は、逃げ惑う平家の武士をあちらに追い詰めこちらに追い詰め戦ったので、瞬く間に平家の軍500騎余が討たれてしまいました。他にも手負いのものも多く、勝負は完全に決してしまい、平家の軍はほとんど抵抗するまもなく敗走することになりました。大将軍の資盛は、さすがに恥ずかしいと思ったのか、福原に戻ることはせず、海をわたって八島へと落ち延びました。
平家の棟梁の宗盛は、三草山で資盛が負けたということをお聞きになって、平家の人々へ、「義経が三草山で資盛を打ち負かして進軍してきました。山のほうが危うくなっています。急いで向かってください」とお伝えになりました。しかし、皆、義経と戦うことを嫌がって、誰も向かおうとしませんでした。そこで、武勇に名高い教経に直接お願いなさいました。
教経は、「戦とは、自分の命をかけるからこそ、立派に戦えるのです。狩りや漁のように、いいところには行くけれど、悪いところには行きたくないというような心がけでは、戦に勝つことはできるはずもありません。手強い敵がいれば、何度でもこの教経が向かって打ち負かしましょう。他はともかく、私が受け持つ方面だけは、安心していてください」と、宗盛にお返事申し上げました。宗盛は大変喜んで、教経に1万騎余を与えて、鵯越の麓を固めさせました。
5日の暮れ頃に、範頼が率いる源氏の軍の大手が、生田の森に近づきました。源氏の軍は、そこに陣を取って、平家方を威嚇するために、遠火を焚きました。平家方も負けじと遠火を焚いて、睨み合いになりました。源氏方は、矢合わせが7日と決まっていたために、馬を休めてゆっくりしていましたが、平家方は、三草山の戦いのことがあったので、いつ攻めてくるかと警戒して、夜も眠れませんでした。
6日の明け方に、義経は1万騎余の軍を2手に分けました。一方を腹心の土肥実平に7千騎余を任せ、一ノ谷の西の口に向かわせ、義経自身は3千騎余を率いて、鵯越に向かいました。
義経の配下の武士たちが、「このあたりは足場の悪い難所として有名です。同じ死ぬなら難所に落ちて死ぬのではなく、敵にあって死にたいです。誰かこのあたりの道に詳しいものはいないでしょうか」と義経に言ったところ、ある者が、「父の教えでは、『山奥に迷い込んだ時は、馬に鞍だけを置いて、人が乗らずに、馬の進みたい方向に進ませてやれば、必ず道に出る』とのことでした」と進言しました。義経は、「立派な父だ。雪が野原を埋めてしまっても、老いた馬は道を間違わないという話もある」と言って、白葦毛の老馬に鞍を置いて、先に追い立てて進み始めました。
時は2月、如月であったので、山の雪もところどころ消えて、桜の花のようにもみえました。谷からうぐいすが訪れて、霞がかった山の中で道に迷っているものもおりました。坂を登れば、白い雲がかかった山が皓々(こうこう)と光り輝いてそびえ立ち、坂を下れば、針葉樹の青葉が茂る山が峨々(がが)として険しい断崖をなしています。松にかかった雪さえまだ残っていて、苔生す細道がかすかに続いているのみでした。できるだけ急いで行軍しましたが、夕暮れまでに山を抜けることはできず、馬を降りて陣を取りました。
義経の腹心の1人の武蔵坊弁慶が、老人を1人連れてきました。義経が「それは誰だ?」と聞いたところ、弁慶は「この山の漁師です」と答えました。そして、地理に詳しい老人に平家の城郭への道を尋ねました。「とてもそのような道を通ることはできないでしょう。深さ90メートルの谷、45メートルも突き出した岩などというようなところがあり、人の通るような道ではありません。ましてや馬が通ることは不可能です。さらに平家も罠を仕掛けているかもしれません」と、老人は言いました。
義経は「しかし、鹿は通うのではないか?」と聞いたところ、老人は「鹿は通います。暖かくなると鹿は北東へ移動し、寒くなるとまた戻ってきます」と答えました。それを聞いた義経は「それならば馬の道のようなものだ。鹿の道を進んで行こう。お前が案内しろ」と老人に言いました。老人は、年老いているため辞退して、代わりに息子に案内をさせることにしました。まだ元服していなかったので、すぐに元服させて、鷲尾武久と名乗らせて、馬に乗せて軍の先頭に立たせました。
鵯越に向かう義経の軍の中に、熊谷直実と平山季重というものがいました。直実が息子の直家を呼んで、「この部隊は鵯越の難所を落とす予定だが、それだと誰が先陣ということもない。それではつまらんので、土肥実平が攻める一ノ谷の西の口に向かって、先陣を切ろうと思う」と言うと、直家も、「私もそう言おうと思っていたところでした。すぐに出発しましょう」と言った。
「そうだ。平山もこっちにいたはずだ。あいつも混戦は嫌いだろうから、どうしているかちょっと見てこい」と言って、直実は下人を季重のところに遣わしました。季重は、直実と同じ事を考えていて、直実よりも先に一ノ谷に向かって出発した後でした。この知らせを受けた直実は、「やはりそうか」と季重の後を追うように、息子の直家を連れて、急いで出発しました。
一ノ谷の近くの塩屋というところに、土肥実平が率いる7千騎余が陣をとっていましたが、直実はそこを通りすぎて、一ノ谷の西の木戸口まで近づきました。まだ夜中だったので、敵も静まり返って音もせず、味方も直実と息子の直家と郎党が1人の3人だけしかいませんでした。
直実は、「先陣を切りたいと思っているのは、私だけではないはずだ。すでにこの辺に控えていて、朝が来るのを待っているものもいるかも知れない。今のうちに名乗りを上げてしまおう」と考え、木戸口の近くまで進んで、「武蔵国の住人、熊谷直実とその息子直家。一ノ谷の先陣である」と名乗りました。平家方の武士たちは、「この暗闇の中で自滅してしまえ」と、音も立てず、相手をしようというものはいませんでした。
しばらくそのままでいると、直実の後ろに誰か武士が続いている気配がしました。直実が「誰だ」と尋ねると、「季重」と答えが返ってきました。「聞いたのは誰だ」と季重が問い返したので、直実は「直実」と答えました。季重は「直実殿はいつからですか」と聞いたので、直実は「夜中です」と答えました。
季重は、「私も、本当ならば同じ頃に着いているはずでしたが、成田助忠に騙されて、遅れてしまいました。先陣を切るなら証言をする味方がいる方がいいと言うので一緒に来たのですが、途中で助忠が抜け駆けしようとしたので、逆に置いてきぼりにしてやりました」と言いました。
そうして、直実と季重が総勢5騎で夜が明けるのを待っていると、遠くから笛の音が聞こえてきました。直実が「あれは誰が吹く笛だろうか」と言った時、あたりに光が差してきて、夜が明けて来ました。
直実は、季重が聞いている所でもう一度名乗ろうと思い、「先ほど名乗った武蔵国の住人、熊谷直実とその息子直家。一ノ谷の先陣である。われこそと思うものは勝負しろ」と大声で叫びました。平家方はこれを受けて、20騎余で木戸を開けて駆け出してきました。季重も遅れじと、「保元、平治の両合戦で先陣を駆けた、武蔵国の住人、平山季重」と名乗って、直実と競って、火が出るほどに激しく戦いました。
平家方の武士たちは、とても敵わないと思ったのか、再び木戸の中に入って扉を閉ざして、直実たちを城郭の外に閉めだして矢を射かけました。直実は、馬の腹を射させて馬が跳ねたので、素早く馬から飛び降りました。直家も左の腕を射させて、馬から飛び降り、父の直実と並んで立ちました。
「どうした直家。手負ったか?」と直実が聞いたところ、「そうでございます」と直家は答えました。「常に鎧を揺すって隙間ができないように注意しろ。顔を前に傾けて甲のしころを前に垂らして、甲の内側を射られないように注意しろ」と直家は教えました。
直実は鎧に刺さった矢を抜き捨てて、城の中を睨んで、「この熊谷直実は、この戦いで命を落すことを覚悟している。名だたる武将である平盛嗣、藤原忠光、藤原景清はいないか。あるいは平教経殿はいらっしゃらないか。功名を立てるのも、良い敵にめぐり合ってこそだ。見境なしに戦っては得られる功名も得られるものではない。我と思うなら出てきて勝負しろ」と大声で呼びかけました。
これを聞いて盛嗣は、直実父子と戦おうと馬に乗って向かってきました。父子は間に入り込ませないよう踏ん張って、逆に押し返しました。盛嗣は敵わないと見て、取って返しました。直実はそれを見て、「あなたは平盛嗣とお見受けした。私が敵として不足なのか、それとも臆したか。引き返して勝負しろ」と呼びかけましたが、「勝負する気はない」とだけ言って、盛嗣はそのまま引き返してしまいました。
その様子を見た景清は、「見苦しい父子だ」と言って、父子に向かって馬を進めようとしましたが、「教経殿の戦いにとって、意味のある相手ではありません」と引き止められたので、直実と勝負をすることはありませんでした。
直実が馬を降りて身動きがとれない間に、季重は、従者を射させた仇を討つために、木戸の内に駆け込んでその仇を見事討ち取りました。直実もその後乗り換えの馬を見つけて大活躍をしました。しかし、直実は木戸に阻まれ城内に駆け入ることができなかったため、後になって直実と季重の間で先陣争いの火種となりました。
そうしている間に、一ノ谷を攻める源氏方の搦手の本体である土肥実平の7千騎余が到着しました。彼らは、出自を示す思い思いの旗を掲げて、大声で叫びながら戦いました。
範頼が率いる源氏方の大手も、5万騎余で生田の森を攻めようとしていました。その中に梶原景時が率いる500騎余も含まれ、息子である景季、景高、景茂も参加していました。
5万騎余の軍勢は、一斉に鬨の声を上げて、平家方に向かって突撃をしました。梶原の500騎余はその先陣を切って突撃しましたが、その中で次男の景高は特に勇んで部隊を離れてどんどん先に進んで行きました。父の景時は使いを走らせて、「後ろが続かないのに勝手に先陣を切ったものには、報奨を与えることはないと、大将軍の範頼殿はおっしゃっているぞ」と諭しました。しかし、景高は、「
もののふのとりつたへたるあづさ弓ひいては人のかへすものかは
と申し上げてくれ」と使者に言って、更に勢いをまして敵陣に向かって馬を走らせました。自らを梓弓に例えて、一度はなった矢のように敵陣に向かって飛び出した武士が歩みを止めて引き返すことはないと詠んだのでした。
これを聞いた景時は、「景高を討たせるな。ものども続け」と叫んで、景時、景季、景茂を始めとした総勢500騎余は、景高の後を追って勢いを増して敵陣になだれ込みました。大勢に取り込まれる形になった景時たちは、さんざんに戦って、戦場から退却したときにはわずか50騎余になっていました。
「景季はどこだ」と景時は言いました。どうしたことか、残った50騎余の中に長男の景季の姿は見えませんでした。「深入りして討たれなさったのではないでしょうか」と郎党の一人が言うと、景時は「この世に生きているのも子どものためだ。景季を討たせて生き延びても仕方がない。もう一度行くぞ」と言って、再び残った50騎余を率いて戦場に引き返しました。
景時は平家の軍勢に向かって、「昔、源義家殿が後三年の戦いで、秋田の出羽国の千福金沢の城攻めの時、左の眼を矢で射抜かれながら、矢を射返してその敵を射落して名を上げた梶原景正の子孫、梶原景時。一騎当千の強者である。我と思うものは、景時を討って平家の大将軍にお見せするがいい」と名乗りを上げて、大声を上げて突撃しました。
それをお聞きになった平知盛は「景時は東国で武勇を轟かす武士だ。討ちもらすな」と大勢の中に取り込んで攻めなさいました。景時は、自分の身の上よりもまず景季の行方を心にかけて、数万騎の中を縦横に駆け回ったところ、景季と従者2人が敵5人に囲まれているところを見つけました。景季は甲も脱げ、馬も射させて徒立ちになっていて、6メートルほどもある崖を背にして、脇目もふらずに命がけで、ここが正念場と戦っていました。これを見つけた景時は、急いで駆けつけ、馬から飛び降りました。
「景時が来たぞ。いいか、景季。例え死ぬとしても、決して敵に背を向けるなよ」と言って、父子で5人の敵の内、3人を討ち取って、2人に重傷を負わせ、「武士とは攻めるときも逃げるときも、タイミングを見計らうことが肝心だ。行くぞ、景季」と言って、疲労で歩くこともままならない景季を抱え上げて、戦場から脱出しました。これが後に、梶原の2度の駆けと呼ばれるようになった戦いです。
景時の突撃を契機に、大手の生田の森の方面では、源平の死力を尽くした戦いとなりました。大声で叫ぶ声は山に轟き、馬が駆ける音は雷のようでした。矢は雨のように降り注ぎました。手負いを背負って退却するものも、軽傷を受けたまま戦うものも、重傷を負って討ち死にするものもいました。刺し違えるものもいれば、首を取るものも取られるものもいました。大手の戦線は、源平の力が拮抗して膠着状態となっていて、搦手の一ノ谷の勝敗が鍵を握っていました。
義経は、一ノ谷の後ろの鵯越の崖の上にたどり着き、今にも坂を落とそうと待機していました。その軍勢に驚いた鹿が3頭、崖を走り降りて来ました。それを見た平家方の武士たちは、「普段から里に出入りしている鹿ですら、平家の軍勢を恐れて山に隠れてしまったのに、これほどの軍勢の中に鹿が落ちてくるというのは不思議だ。坂の上に源氏方の軍勢がいるに違いない」と騒ぎになりました。
義経は崖の上から景色を見て、「馬を落としてみよう」と言って、馬に鞍を置いて追い落としてみました。何頭かは足の骨を折ってこけてしまいましたが、それ以外は無事に下まで駆け下りました。それを見た義経は、「馬は気をつけて降りれば怪我をすることはない。さあ落とすぞ。義経を手本にしろ」と言って、30騎ほどを率いて真っ先に落としました。その後ろに続いて、全員が一気に坂を落としました。一番混み合った所では、前の馬に乗る武士の甲に、後ろの馬に乗る武士のつま先があたるほどに密集して、もうもうと砂煙が巻き起こりました。
200メートルほど落とした所で、部隊の先陣は、段になっているところにたどり着きました。その先は、つるべ落としに50メートルほど下っている断崖絶壁でした。前にも後ろにも進むことができず、進退窮まってしまったときに、佐原義貫というものが進み出て言いました。「三浦の方では、小鳥を追う程度の狩りでも、こういう場所ばかり歩いている。こんなものは三浦の馬場と同じだ」といって、真っ先に駆け下りました。
義貫に続いて、他のものも一斉に断崖絶壁を駆け下りました。みな、怯える馬の耳元で声をかけて励ましながら進みました。あまりの恐ろしさに目をつぶって駆け下りるものもいました。急な絶壁を駆け下りる様子は、まったく人の所業とは思えず、鬼神が乗り移ったかのような鬼気迫る迫力がありました。
全員が坂を落とし切るか切らないかの時に、坂を落とした武士たちは一斉に鬨の声をあげました。その勢3千騎余でしたが、やまびこが響いて10万騎余の軍勢のようにも聞こえました。平家方は大慌てになって、城郭に火をかけて、海岸に用意してあった舟に乗り込んで、海に逃れようとしました。
1艘の舟に武装した武士たちが数百人から千人も乗り込もうとしたので、沖に出た舟が続けざまに3艘沈んでしまいました。これを見て、「身分の高い人だけを乗せて、それ以外のものは舟に乗せてはいけない」と、太刀や長刀で味方の雑兵を追い払いました。それでもパニックになった武士たちは舟に取り付こうとして、腕や肘を切られて血まみれになって倒れるものが続出しました。
これまで一度も戦で負けたことがなかった教経も、今度ばかりはどうにもならず、西に向かって逃げ延びて、兵庫の播磨国の明石浦から八島に渡りました。
宗盛の弟の重衡は、生田の森の副将軍でいらっしゃいましたが、手勢はすべて討たれてしまい。わずか主従2騎になってしまわれました。梶原景高が重衡を見つけて、大将だろうと推測して、追いかけ申し上げました。海岸には舟がたくさんいましたが、後ろから追われて逃れることができないとお思いになり、西に向かって馬を走らせなさいました。
重衡がお乗りになる馬は、屈強の名馬で、見る見るうちに景高との距離は開いて行きました。全く追いつく様子もなかったので、一か八かと景高が、鐙の上に踏ん張って立ち上がり、弓を構えて遠矢を射たところ、重衡の馬の腰のところに深々と矢が刺さりました。これを見た重衡の従者は、自分の馬を取られると思って、馬に鞭をあてて急いで逃げてしまいました。
後ろから刻一刻と近づく敵の足音に、重衡は自害を決意なさって、弱った馬を歩ませて海にお入りになりました。しかし、あいにく遠浅のところだったため、仕方なく馬から降りて、鎧を脱いで腹を切ろうとなさいました。そこで追いついた景高は、「それはいけません。私がお供します」と言って、自分の馬にお乗せして、自らは乗り換えの馬に乗って、源氏方の陣にお連れ申し上げました。
一ノ谷の先陣を切った熊谷直実は、平家が敗走する様子を見て、「平家の方たちは舟に乗ろうと海の方に出てきている。よい大将を討ち取って手柄にしたいものだ」と磯の方へ馬を進めました。そこで、立派な鎧に身を包んだ武士が一人、60メートルほど名馬に泳がせて海を進んでいるところを見つけました。直実は、「そこにいらっしゃるのは大将に間違いございませんね。敵に背を向けるとは見苦しい。引き返して勝負してください」と、扇を掲げて招きました。
その武士はそれを聞いて引き返し、岸に上がろうとしたところで、直実が組み付いて馬から落とし、取り押さえて首を切ろうとして甲を取ってみたところ、年は16、7歳ではあるものの、薄化粧をしてお歯黒をしていたため、元服していることがわかりました。ちょうど息子の直家と同じくらいの年頃でしたが、容姿端麗で、どこに刃を立ててよいものか途方に暮れました。直家が、「そもそもあなたはどなたでいらっしゃいますか。名を名乗ってください。お助けいたしましょう」と言ったところ、「あなたは誰ですか」と返事が返ってきました。
「私は、物の数に入るほどのものではございませんが、武蔵国の住人、熊谷直実と申します」と言いました。すると、「では、あなたに名乗るべき名前はございませんが、あなたにとってはよい敵です。名乗らなくても首を見せれば誰か知っているに違いありません」と返事が返ってきました。
直実は、「何という大将だ。この御方一人を討ち申し上げても、この勝ち戦が負けてしまうことはありえない。息子の直家が軽傷を負っただけでも、私は辛いのに、この御方の父が、息子が討たれたと聞いたらどれほど悲しむだろう。ああ、助けてあげることができれば」と思って、後ろを見たところ、土肥実平と梶原景時ら50騎余がこちらに向かってきていました。
直実は涙を流しながら、「お助け申し上げようとは思いましたが、味方の軍勢は雲霞の如く大勢います。とても逃れることはできないので、せめて人手にかけられるより、私の手にかけて後の供養をさせていただきたいと思います」と言うと、「ただ早く首をとれ」とだけ返事をしたので、直実はあまりにかわいそうで、どこに刃を立てればいいかもわからず、目も暮れ、心も消えはてましたが、そのままでいることはできないので、泣く泣く首を切り落としました。
「ああ、武士ほどつらいものはない。武家に生まれなければ、どうしてこんな悲しい思いをする必要があっただろうか」と恨み言を言って、袖を顔にあてて涙を流しました。
しばらくして、気持ちが落ち着いてから、首を手に取ろうとしたところ、錦の袋に入った笛を腰に差しているのに気づきました。「ああ、なんという事だ。明け方に城の中で笛を吹いていた方は、この方だったのだ。味方に東国の武士が何万人もいるけれど、戦場に笛を持ってくるものは誰もいない。身分の高い人はこれほどまでに優雅なのだな」と思い、後に首と共に笛を義経に見せたところ、義経も列席する人々もみな涙を流さないものはいませんでした。
後に聞いた話では、この方は清盛からみて甥に当たる敦盛という方で、当年17歳でした。例の笛は、小枝という名器で、笛の名手であった以仁王が愛用していたものでしたが、敦盛が笛の才能があるということで、巡り巡って敦盛の手に渡ったものでした。
このことで、直実は武士として功名を立てる生き方に疑問を覚えるようになり、出家入道したいと心から願うようになりました。後に浄土宗を興した法然上人を師事して出家し、法力房蓮生という法名を受け、熱心な念仏信者となって足跡を残しました。音楽は、狂言綺語の一つとして、人の心を惑わすものとして慎むべきものと仏道では考えられていますが、そのようなものでも出家入道のきっかけになるということは、心を揺り動かされます。
宗盛の弟で重衡の兄である知盛は、生田の森の大将軍でいらっしゃいましたが、軍勢は皆、敗走していなくなり、息子の知章と従者の武士1人の主従3騎のみで舟に乗ろうと波打ち際に向かわれました。そこへ、源氏方の軍勢10騎余が追いかけてきました。その中の大将と思われるものが、知盛に組み付き申し上げようとして、馬を並べたところ、知章がその間に割って入り、ムンと組み合ってドンと馬から落ち、取り押さえて首を切りました。
知章が立ち上がろうとしたところで、源氏方の元服前の小姓が走りこんできて、知章の首を切って落としました。知盛の従者の武士が助けに向かいましたが間に合わず、仇とばかりにその小姓の首を切って捨てて、手持ちの矢をすべて射尽くして、太刀を抜いて戦いました。多くの敵を討ち取りましたが、左の膝頭を射させて膝をつき、立ち上がることができないまま討ち死にしました。
この間に、知盛は馬に乗ったまま海にお入りになって、2キロメートルほど馬に泳がせなさって、宗盛がお乗りになる舟にお着きになりました。舟には人が多く乗っていたため、馬を舟に上げることはできず、海岸へ追い返すことになりました。武士の中に、「馬が敵の手に落ちてしまいます。ここで射殺してしまいましょう」と、弓に矢をつがえるものがいましたが、知盛は、「命を助けてくれた馬だ。そんなことはするな」と制しなさいました。
知盛は宗盛に対面し申し上げなさって、「知章を討たせてしまいました。無我夢中でここまでたどり着きましたが、いまさらになって情けなく心細くなってしまいました。子が親を助けようと敵に組み付くのを見ながら、親が子を助けないでこうやって逃げてくるなどと、これが他人のことであったら、どれほど歯がゆい思いで話を聞き、子を見捨てた親に腹を立てるだろうと思うのですが、いざ自分の身になると命とは惜しいものだと、今こそ思い知らされました。人からどのように思われるかと考えても、恥ずかしい限りです」と、袖に顔を当てて声を上げてお泣きになりました。
宗盛はこれをお聞きになって、「知章が、父の命の身代わりになったということは、大変立派なことだ。武芸の腕も立ち、心もこのように立派で、よい大将であった人を失ったことは、悲しいことだ。私の息子の清宗と同い年で、今年は16だったということだな」とおっしゃって、清宗の方をご覧になって涙を流されたので、大勢並み居る平家の武士たちは、皆、袖を涙で濡らしました。
戦に敗れてしまったので、天皇を始め、平家方の人々は皆、舟に乗って海の上に逃れました。福原に戻ってきて、14カ国を従え、10万騎余の兵力を擁し、都までわずか1日の距離まで近づいていたので、今度こそ都に戻れると期待していたのに、一ノ谷を攻め落とされて、皆、意気消沈してしまいました。
一ノ谷の戦いは、こんなに有名な戦いなのに、史実がいまいち不明な戦いです。平家物語の話は創作臭いという話なのですが、他に適当な資料がないみたいなんですね。
小枝の件は、参考にしてる平家物語の文献では、以仁王の笛と違うものと書いているのだけれど、平家物語以外で、同じものとしている話もあって、どうせ一ノ谷の戦いが全部創作なら、同じものとしたほうがおもしろいじゃんということで、こうしました。