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第2話 届かない崩れを拾う

# 第2話 届かない崩れを拾う


灰鐘の森は、街から近いくせに、妙に音の少ない森だった。


風が吹いても枝葉の擦れる音は鈍く、鳥のさえずりも少ない。

代わりに、どこか遠くで鐘を打ったような、低く乾いた余韻が空気を震わせる。


受付で何度も聞いた説明よりも、実際に足を踏み入れた森はずっと静かで――

その静けさが、逆に不気味だった。


「足元、気をつけろ」


前を行くアルトが、振り返らずに言った。


「木の根が多い。躓くと死ぬ」

「はい……っ」


緊張で返事が少し上ずる。


エルシアは杖を胸の前で抱えながら、アルトの背を追った。


(あれ……?)


気づく。

アルトの歩幅が、妙に小さい。


本来なら大股で歩けば、エルシアなど簡単に置き去りにできるはずなのに――

彼は、エルシアが小走りにならない速度で進んでいた。


しかも、木の根や窪みを自然に避け、歩きやすい軌道を選んでいる。


「アルトさん……歩幅、合わせてくれてますよね?」


言うと、アルトの肩がほんの少しだけ跳ねた。


「勘違いするな。お前が無駄に疲れて倒れたら邪魔だ」

「ふふ……そういう合理的な優しさ、好きです」


アルトはそっぽを向いた。

耳の先が、ほんのり赤い。


そのささやかな変化が、エルシアには妙に嬉しかった。


森を進むにつれ、空気が重くなる。


「止まれ」


アルトが手を上げた。


前方の土が深く抉れている。爪痕だ。しかも新しい。


アルトが屈み込み、土に触れる。


「群れだな」

「やっぱり……報告通りですか?」

「報告より多い。少なくとも七。変異種が一体」


七。

数字でしかなかった危険が、急に現実味を帯びる。


「帰るか?」


不意にアルトが言った。


「え……?」

「まだ引き返せる。街道まで戻れば護衛できる」


「私が足手まといだから、ですか?」

「違う」


アルトは木々の奥を見たまま続ける。


「初陣にしては荷が重い。お前に選ばせる」


その言葉に、胸が少し熱くなる。


置いていくでも、無理に連れていくでもない。

ちゃんと自分で決めろと言ってくれている。


森の奥から、低いうなり声が風に乗って届いた。


怖い。

正直に言えば、かなり怖い。


でも――


(私の回復なら、アルトさんの間合いを広げられる)


あの言葉が、まだ胸の奥で熱を持っている。


「行きます」


エルシアははっきり言った。


「怖いですけど……それでも、行きたいです」

「そうか」


アルトは剣の柄に手を置く。


「ひとつ覚えろ」

「はい」

「俺は怪我をしてから治すより、怪我をしないほうが速い」

「……はい」

「だが避けきれない乱れはある。さっきみたいに、それを先に戻せ。傷は後でいい」

「先に、乱れを……」

「お前ならできるだろ」


淡々と前提にされ、エルシアは息を呑んだ。


「……はい、やります」

「ああ」


その直後――


右側の茂みが爆ぜるように揺れ、灰色の影が三つ飛び出した。


「下がれ!」


アルトが踏み込む。


先頭の一体が喉元を裂かれて倒れる。

残る二体は左右に散開し、片方がエルシア側へ回り込む。


「っ」


足がすくみそうになる。


でも――見えた。


左から来る個体は、飛びかかる直前に後脚へ力を溜める。

その一拍のために、首の後ろから腰へ魔力が細く集まる。


「アルトさん、左っ!」


叫びながら杖を振る。

白い光が糸のように伸び、アルトの足元へ触れる。


調律の補助。

ほんの少しだけ、踏み込みを軽くする。


アルトは右の個体を斬り捨てた勢いのまま軸を変え、左の懐へ潜り込む。

刃が顎下から脳天までを裂いた。


三体。

わずか数呼吸。


だが終わりではない。


奥の木々の間に、赤く濁った光がいくつも浮かぶ。

目だ。少なくとも五。


群れが囲もうとしていた。


「下がって、木を背にしろ」


言われた通り太い幹のそばへ寄る。


見なければ。

怖がる前に、見る。

怪我をした後ではなく、崩れる前を。


ひと回り大きい個体がいた。

毛並みは黒ずみ、口元から瘴気が漏れている。


変異種だ。


「アルトさん、正面の大きいのが」

「見えてる」


群れが一斉に動いた。


左右から二体、正面から一体。

残る二体は遅れて回り込み、逃げ道を塞ぐ。


アルトは正面の一体を即死させる。

だが左右の二体は速い。片方は囮で、もう片方が足を狙って低く潜る。


エルシアは息を呑む。


(足を取られる……)


その瞬間、アルトの右脚にわずかな硬さが見えた。

連戦で筋肉が張り、回避のタイミングが半拍ずれるかもしれない。


「今……!」


詠唱を切り詰めて光を飛ばす。

狙うのは脚。傷はない。

硬くなりかけた流れを走る寸前にほぐす。


アルトの踏み込みが滑るように変わる。


狼の牙は空を噛み、逆に首へ剣が落ちる。

続く横薙ぎで囮役も断たれた。


だが変異種が吠えた。


胸の内側へ直接叩き込まれるような咆哮。

恐怖を煽る魔力の波。


エルシアの膝が震える。

アルトもわずかに剣先を下げた。


(まずい……!)


「アルトさん!」


咄嗟に杖を握り込む。


回復じゃない。

守り。

恐怖に呑まれる前に、心の揺れを支える。


「《小聖護》……!」


白い光がアルトの背へ落ちる。


変異種の爪が胸元をかすめた。

革鎧が裂ける。浅い。致命傷ではない。


アルトの目が静まる。


「……助かった」


次の瞬間には前へ。


咆哮を発する喉、その根元へ剣を差し込み、返す一閃で心臓まで断ち切る。


巨体が崩れ落ちる。


森が静かになった。


エルシアは膝が折れそうになるのを堪えた。

終わった。

その実感と同時に全身の力が抜ける。


アルトは周囲を確認し、剣を収めて歩いてくる。


「怪我は」

「な、ないです」

「そうか」


自分の胸元へ視線を落とす。

革鎧が裂け、薄く血が滲んでいる。


「あ、あの、治します」

「頼む」


近い。

思った以上に近い。


掌をかざし、光を流す。

裂けた皮膚を閉じるより先に、傷の周囲の衝撃を整える。


「……お前、本当に傷だけ見てないんだな」

「え?」

「普通は裂けたところから塞ぐ」

「そっちのほうが分かりやすいですから」

「お前は分かりやすくないほうを選ぶ」

「あとが楽なので」


アルトがほんの少しだけ口元を緩めた。


「合理的だ」

「褒めています?」

「たぶん」


胸がくすぐったくなる。


治療を終えると、アルトが言った。


「さっきの聖護も悪くなかった」

「咄嗟に出ただけですけど……合ってました?」

「十分だ。恐怖の波を切ったおかげで視界が戻った」

「なら、よかった……」


心からそう思った。


役に立てた。

たまたまではなく、必要な形で。


変異種の牙と魔核を回収し、森を抜けるころには陽が傾き始めていた。


帰り道、エルシアは勇気を出して聞いた。


「アルトさんは、どうしてあんなに速く動けるんですか?」

「遅い動きを捨ててるだけだ」

「皆さんも捨てればいいのでは?」

「捨てたら困る動きもある」

「でも、アルトさんは困っていませんよね」

「一人だからな」


一人だから、最適だけを選べる。

裏を返せば、誰かと合わせるための遠回りを最初から持っていない。


それが強さであり、孤独の理由でもある。


「……じゃあ、私がいれば少しは困らなくなりますか?」


思い切って聞くと、アルトは前を向いたまま答えた。


「もうなってる」

「えっ」

「さっき、お前がいなければ胸を裂かれてた」

「そ、それは……」

「だから連れてきた」


当然のように言うので、エルシアは頬が熱くなる。


褒め言葉に飾り気がない人は、心臓に悪い。


ギルドへ戻ると、冒険者たちがざわついた。


「帰ってきたぞ……」

「エルシアちゃんも無事だ!」


ミレナが身を乗り出す。


「エルシア!」

「ただいま戻りました!」


アルトはカウンターへ、討伐証明となる魔核と牙を置いた。


「灰鐘の森の変異種、および群れ八体。討伐完了だ」

「……は?」


周囲が静まり返り、直後、どよめきが爆発した。


「八体!? 二人で全部片付けたのかよ!?」

「しかも片方は受付嬢だぞ!?」


エルシアが肩をすくめると、アルトが淡々と言った。


「受付嬢だった、だ」


ざわめきが止まる。


「こいつは使える。回復も支援も十分だ。次からも連れていく」


エルシアは目を見開いた。


今日だけの気まぐれではない。

臨時の穴埋めでもない。


本当に、自分を相棒として見ている。


ドノヴァンが言う。


「どうする、嬢ちゃん。今日の働きなら正式登録だって通るぞ」


エルシアはアルトを見る。

アルトは視線を逸らし、短く息を吐いた。


「俺に聞くな。決めるのはお前だろ」


受付の仕事は好きだ。

ここで過ごした時間も、人とのつながりも、大切だ。


でも――


(この人の背中を、もっと近くで支えたい)


エルシアは杖を抱え直し、まっすぐ言った。


「正式登録、お願いします」


歓声が上がる。


その喧騒の中で、アルトだけは静かに立っていた。

でもエルシアには分かる。

この人は何も言わなくても、ちゃんと待っていてくれた。


「アルトさん」


呼びかけると、視線だけで応じた。


「これからも、よろしくお願いします」

「ああ」


短い返事。

それだけで胸が温かくなる。


人気受付嬢エルシア・ルミナの冒険者としての最初の一日は、こうして静かに幕を閉じた。


だが、孤高の剣士に選ばれた元受付嬢の噂は、一夜にして街中の冒険者たちへ駆け巡ることになる。

翌朝、彼女の前に押し寄せることになる狂騒を、エルシアはまだ知る由もなかった。


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