第1話 回復だけしていればいい
冒険者ギルド《白梟の止まり木》がいちばん賑わうのは、朝と夕方だ。
朝は依頼を奪い合う熱気で。
夕方は生きて帰ってきた者たちの安堵と、酒と武勇伝の喧騒で。
その両方を、エルシア・ルミナは毎日カウンターの内側から見ていた。
「おはようございます、ダグさん。今日は東門の巡回依頼ですね。昨日、左肩を庇っていましたけど、痛みは残っていませんか?」
依頼票を受け取った大柄な戦斧使いが、ぽかんと口を開ける。
「……なんで分かるんだ、エルシアちゃん」
「いま判子を押すとき、少しだけ腕が上がりにくそうでしたから」
ふふ、と笑うと周囲がどっと沸いた。
「相変わらずよく見てるなあ」
「俺なんか一週間前の飲み代のツケまで覚えてそうだ」
「覚えてますよ、ハンスさん。銀貨三枚です」
「ひどい!」
笑いが広がる。
エルシアはこの空気が好きだった。荒っぽくて騒がしいのに、どこか温かい。
(今日もみんな、無事に帰ってきますように)
そう願いながら、いつもの朝を過ごしていた――そのはずだった。
大扉が乱暴に開かれた。
「誰か! 治癒師を呼べ!」
血の匂いが流れ込む。若い冒険者が仲間を背負って駆け込んできた。肩口から胸元にかけて赤黒く濡れ、呼吸は浅く、顔色は死人のように白い。
「奥の処置室は!?」
「上級治癒師は今、別の対応中だ!」
声が飛び交うなか、エルシアはもうカウンターの外に出ていた。
「こちらへ寝かせてください。大丈夫です、まだ間に合います」
周囲が驚く暇もない。
エルシアは男の首筋、胸元、脇腹へ指先を滑らせた。
(傷は深い。でも――いちばん危ないのはそこじゃない)
呼吸が詰まりかけている。
魔力の流れが胸の奥でねじれ、息の通り道を塞いでいた。
「水を一杯、それと清潔な布を二枚お願いします」
静かに告げ、掌を肩口と脇腹へかざす。
短い詠唱。
淡い光が灯る。
まず傷を塞ぐのではない。
先に“通す”。
崩れた流れを戻し、呼吸の道を開ける。
「……っ、がっ!」
負傷者が大きく空気を吸い込んだ。周囲が息を呑む。
「呼吸が戻った……?」
「今、何をした?」
「まだです。もう一度」
二度目の光で裂傷を閉じる。血が止まり、肉が寄る。
そこへ正式な治癒師が駆けつけた。
「よく繋いだ! この状態なら助かる!」
安堵の声が広がる。
褒め言葉が飛ぶたび、エルシアは困ったように微笑むしかなかった。
「たまたま近くにいただけです。正式な治療は先生が――」
「たまたまで、あの順番にはならない」
低く、よく通る声がした。
ざわめきが止む。
入口近くの壁にもたれ、黒革の装備を纏った青年が立っていた。
灰黒の髪。飾り気のない長剣。無駄のない佇まい。
アルト・ヴァレイン。
冒険者たちが遠巻きに囁き合う名を、エルシアはもちろん知っていた。
だが、酒場の噂話としてではない。カウンターの奥で毎日のように目を通してきた、羊皮紙の帰還報告書を通してだ。
『討伐対象:灰狼の変異種群。損害:なし』
『討伐対象:深緑の古竜。損害:なし』
同行者欄には、いつも冷淡な一本の斜線が引かれているだけ。
負傷治療の申請も、物資補給の請求もない。他のパーティが血まみれの包帯と大量の愚痴を抱えて提出してくる書類の山の中で、彼の報告書だけは異常なほど白く、簡潔だった。
強すぎて誰もついていけない。無愛想で誰も寄せ付けない。
酒場の荒くれ者たちがそう敬遠する理由を、エルシアはその無機質な記録の向こう側に、ずっと見ていた。
「普通の治癒師なら裂傷から塞ぐ」
アルトは歩み寄りながら言った。
「お前は違った。先に呼吸を通した。あの男は見た目の出血より先に、内側の流れが死にかけていたからだ」
「……見ていたんですか?」
「見ていた」
その一言に嘘はなかった。
アルトは依頼票を差し出す。
「灰鐘の森。変異種討伐。受理しろ」
「は、はい」
危険度の高い依頼だ。通常なら四人以上のパーティで受ける。
「同行者のお名前は?」
「いない」
やっぱり、と周囲から失笑が漏れる。
「また一人で行くのかよ」
「強いのは認めるが、無茶だって言われんだろ」
アルトは一切気にしていない。
その無関心さが、エルシアには少し痛々しく見えた。
受理印を押そうとしたとき――
「お前」
アルトが言った。
「……はい?」
「回復魔法が使えるな」
周囲が一斉にこちらを見る。
「さっきので分かる。精度が高い。応急処置の域じゃない」
「わ、私は少し使えるだけで……」
「少しで済むなら、あの男は死んでる」
淡々とした声音。
褒めているようでも責めているようでもない。
ただ事実を切り出しているだけ。
「お前は傷を見ていない。崩れる流れを見ている。怪我をした後じゃなく、怪我をした瞬間に何が死ぬかを拾っていた」
エルシアは息を呑んだ。
自分でも説明できなかった感覚を、彼は正確に言語化してくる。
「来るか」
「……え?」
「灰鐘の森だ。後ろで回復だけしていればいい。余計なことはするな。俺の届かない崩れだけ拾え」
周囲が騒然となる。
「はあ!?」
「受付嬢を連れていく気かよ!」
「危ねえぞ!」
だがエルシアの耳には、アルトの言葉だけが残っていた。
俺の届かない崩れだけ拾え。
必要だと言われた。
笑顔でも愛想でもなく、力を。
「アルト、お前本気か」
ギルドマスターのドノヴァンが割って入る。
「この娘は冒険者登録もしてねえ。前線経験もない」
「だから後ろで回復だけさせる」
「お前の“後ろ”は前線と変わらねえだろうが」
「それでも間に合う」
断言だった。
「お前の回復なら、俺の間合いを広げられる」
その言葉は、ひどく重かった。
胸の奥が熱くなる。
評価された。見つけられた。必要とされた。
「……私、ただの受付嬢ですよ? 実戦の経験もありません」
「知ってる。最初は誰でもない」
「失敗するかもしれません」
「失敗する前提で動く」
あまりにも迷いのない即答に、エルシアは思わず小さく笑ってしまった。
「それでも、私でいいんですか?」
アルトはほんの一瞬だけ目を細めた。
「お前がいい」
ギルド中が静まり返る。
「さっきの処置が偶然じゃないなら、お前は使える」
胸が跳ねた。
見出されるというのは、こういうことなのかもしれない。
エルシアは背筋を伸ばした。
「分かりました」
周囲がざわつく。
「おい、本気かエルシアちゃん!」
「危ねえぞ!」
「受付はどうするんだ、ミレナさんが泣くぞ!」
ミレナが真顔で言う。
「泣かないけど……気をつけなさい、エルシア」
「はい」
臨時登録証を受け取り、装備を借りる。
白いローブ、短い杖。
いつも見送っていた装備を自分が身につける不思議。
準備を終えて外へ出ると、アルトは待っていた。
「お待たせしました」
「遅くない」
歩き出す背中を追う。
街道を外れ、灰鐘の森へ向かう道すがら、エルシアは並び歩く横顔を見上げた。
「……本当に、私でよかったんですか?」
「お前の回復は使える。それ以上、何がいる」
歩調も緩めず、余計な感傷を切り捨てるようなぶっきらぼうな声。
けれどその冷淡な響きが、エルシアの胸をじんわりと温める。
森の入口で、アルトが足を止めた。
「来る」
茂みが揺れ、灰色の狼型魔物が二体飛び出す。
「下がってろ」
次の瞬間、剣が喉元を裂いていた。
見えなかった。
本当に見えなかった。
だが二体目が瘴気を散らす。
アルトの魔力循環が一瞬だけ軋む。
エルシアは考えるより先に動いていた。
杖を掲げ、短い詠唱。
乱れた流れを整える光がアルトへ滑る。
直後、三体目が飛び出す。
「後ろ!」
アルトは鈍らず踏み込み、首を断つ。
静寂。
「い、今の……勝手に魔法を使ってしまって」
「いや」
アルトは少しだけ目を細めた。
「ちょうどいい。……悪くない」
胸が高鳴る。
この人の速度に、一瞬でも追いつけた。
この人の戦いの中に、自分の居場所があった。
「本命はこの先だ。怖いか」
「少しだけ」
「そうか」
アルトは長剣の切先をわずかに下げ、薄暗い木々の奥――灰鐘の森の深部へと視線を向けた。
ざわり、と冷たい風が吹き抜ける。遠くの闇の奥から、乾いた鐘の音のような異音と、空気を震わせる低い唸り声が響いてきた。通常種ではない、異様な重圧が肌を撫でる。
「なら、俺の後ろにいろ。死なせない」
短く、だが絶対の確信を込めて告げられたその言葉に、エルシアは杖を胸の前できゅっと握り直した。
「はい!」
白いローブの裾を翻し、孤高の剣士の背中を追う。
踏み込んだ森の深部には、ギルドの報告書を遥かに超える、飢えた群れの気配が待ち受けていた。




