第二章 救われた父親たち
<一般社団法人男性支援ネットワーク>のシェルターは、古い社員寮を改装した三階建ての建物だった。
駅からバスで二十分。工場と住宅地の境目にあり、灰色の外壁にはところどころ補修の跡が残っている。玄関脇の花壇には様々な花が咲き、白い看板に団体名と標語が記されていた。
――義務だけでなく、居場所を。
篠原に連れられてそこへ来た夜、修平は二階の個室を与えられた。
ベッドと机、小さな衣装棚だけの簡素な部屋だった。窓からは隣接する物流センターの照明が見えた。それでも、退去期限を記した督促状のない部屋で安心して眠れることが、修平には信じられなかった。
翌朝、目を覚ますと、共有食堂から味噌汁の匂いが漂ってきた。
十人ほどの男たちが、長机を囲んで朝食を取っていた。若者もいれば、深くしわが刻まれた年配者もいる。誰もが修平と目を合わせようとせず、黙って箸を動かしていた。
「新入りか」
荒っぽい声が飛んできた。
声の主は、浅黒い肌をした大柄な男だった。作業着の袖をまくり、腕に残った古い傷を隠そうともしていない。
「高田修平です。昨日から、お世話に……」
「そういう堅いのはいらねえよ。俺は坂本。坂本健吾」
坂本は向かいの椅子を足で引いた。
「座れ。飯が冷めるぞ」
修平がおそるおそる腰を下ろすと、坂本は茶碗に白米をよそって押しつけた。
「子どもは?」
「息子が一人います」
「会えてんのか?」
修平は答えに詰まった。
坂本はそれだけで察したらしい。フッと鼻息を吐くと、味噌汁をすすった。
「俺もだよ。三年会ってねえ」
その口調には怒りがあった。しかし修平に向けられたものではなかった。
「嫁に殴ったって言われた。肩を掴んだのは事実だ。子どもの前で包丁を持ち出したから止めただけなのに。それで俺が加害者だ。接触禁止。会社にも話が回ってクビ。笑えるだろ」
「それは……」
「同情すんな。ここじゃ珍しくもねえ」
坂本は食堂にいる者たちを顎で示した。
「養育費だけ払って会えない奴。家を追い出された奴。親権争いで心を病んだ奴。ここにいるのは、だいたいそんな連中だ」
修平は長机の周囲を見回した。
これまで、父親として苦しんでいるのは自分だけだと思っていた。自分が弱く、夫として失敗したから春斗を失ったのだと考えていた。
だが、ここには同じように子どもの写真をスマートフォンの待受画面にしている男たちがいた。思い出の品を捨てられず、荷物の中にしまっている者がいた。面会の日付を何年分も手帳に書き込み、実現しなかった日を黒く塗りつぶしている者がいた。
孤独には、それぞれ違う顔があった。
しかし、誰もが父親であった。
ネットワークが修平に紹介した仕事は、施設内で行う支援物資の仕分けだった。
企業や個人から寄付された衣類、保存食、洗面用品を種類別に分け、各地のシェルターへ発送する。倉庫勤務の経験があった修平にとって、作業そのものは難しくなかった。
衣類の箱にはサイズと季節を書き、食品は賞味期限順に並べる。誰に指示されなくても在庫表を作り直し、発送の動線を整理した。
作業場の隅に積み上がっていた段ボールは、一週間で半分になった。
「高田さんが来てから、ずいぶん早くなりましたね」
事務担当者に言われ、修平は戸惑ったように頭を下げた。
「前の職場でやっていたことなので」
「それでも、助かっています」
助かっている。
その言葉を聞いたのは、いつ以来だっただろう。
物流倉庫では、仕事を増やしても当然とされた。誰かの穴を埋めても、次からはそれが修平の担当になった。自分が耐えれば由香里と春斗を守れると思っていた。
けれど、結果として誰も守れなかった。
ここでは、終えた仕事に対して礼を言われた。
失敗しても、怒鳴られたりしなかった。
給料は多くなかったが、シェルター費用を差し引いても養育費を払うだけの金額は残った。修平は支給された最初の給料から、真っ先に春斗の口座へ振り込んだ。
スマホで振込完了の画面を見ていると、坂本が横から覗き込んだ。
「また払ったのか」
「はい」
「会わせてもらえてねえのに?」
「それとこれは、別ですから」
坂本は呆れたように眉を上げた。
「真面目すぎんだろ、お前」
「俺ができるのは、これくらいなので」
「だから搾り取られんだよ」
突き放すように言ったあと、坂本は修平の肩を軽く叩いた。
「まあ、そういう馬鹿は嫌いじゃねえけどな」
やがて修平は、物資の仕分けだけでなく、新たに相談者たちの窓口受付も任されるようになった。
事情を聞き、必要な支援を整理し、法律相談や生活保護申請の担当者へつなぐ。修平は専門的な助言こそできなかったが、相手の話を遮らずに聞いた。
「俺も、子どもに会えていないんです」
そう告げると、強張っていた相談者の表情が、わずかに緩むことがあった。
篠原は時折、受付室の外からその様子を見ていた。
「君には、相手に話させる力がある」
ある日の夕方、篠原は修平にそう言った。
「俺は、何もしていません。ただ聞いているだけです」
「聞くことができる者は少ない。傷ついた者ほど、自分の痛みを相手に押しつけてしまうからね」
篠原は修平の作った相談記録に目を通した。
「君は自分が苦しんだからこそ、他人の苦しみを奪わずにいられる」
修平は返事ができなかった。
褒められることに慣れていなかった。篠原の言葉は、乾いた土へ水が染み込むように、ゆっくりと胸の奥へ入ってきた。
それから半年後、ネットワークは都内の市民会館で大規模なシンポジウムを開催した。
テーマは「父親の孤立と、家族政策の空白」。
会場には報道関係者や福祉職員、研究者らが集まり、後方には立ち見が出ていた。壇上の壁には、ネットワークの新たな標語が大きく映し出されている。
――誰もが安心して父親になれる社会へ。
修平は坂本たち会員と並び、舞台袖で出番を待っていた。
「緊張してんのか」
坂本が言った。
「少し」
「原稿読むだけだろ。お巡りに尋問されるわけでもねえ」
「そうですけど」
修平は何度も原稿を確認した。手の中で紙が湿っていた。
やがて名前を呼ばれ、照明の下へ出た。
客席には無数の顔が並んでいた。男性も、女性もいる。修平は喉を鳴らし、マイクの前に立った。
「高田修平と申します。六歳の息子がいます」
声が震えた。
「離婚してから、月に一度会っていました。でも、元妻の転居後、会えなくなりました。俺は……私は、養育費を払えば父親でいられると思っていたわけではありません。ただ、それしか、息子にしてやれることがなかったんです」
客席は静まり返っていた。
「仕事を休んで相談に行きました。家庭問題は家庭裁判所へ、家賃は生活相談へ、失業していないなら支援できないと言われました。その日に仕事も失いました」
修平は原稿から顔を上げた。
最前列で、篠原がうなずいていた。
「私はただ……息子に『自慢の父親だ』と思われたかっただけなんです。それ以外、何もいらなかったのに」
会場のどこかで、すすり泣く声がした。
修平は言葉を詰まらせながらも、最後まで話した。
「このネットワークに拾ってもらって、もう一度働けました。父親だと言っても、笑われない場所をもらいました。だから今度は、私が同じような人を助けたいと思っています」
拍手が起こった。
最初はまばらだった音が、やがて大きな波となって会場を満たした。修平は眩しい照明の下で立ち尽くした。
自分の苦しみが、初めて誰かに届いた。
その夜、シンポジウム後の懇親会で、修平は胸元に青い徽章をつけた者たちを見かけた。
「公正社会党の方々だよ」
篠原が教えた。
「次の国政選挙で、男性支援を主要政策に掲げる予定だ」
「政党ですか」
「政治を変えなければ、福祉は変わらない。私たちも政策提言などをしている」
会場の隅では、党の幹部らしい男が坂本と握手していた。報道陣がその様子を撮影している。
「修平君」
篠原は修平の肩に手を置いた。
「今日の君の話には、統計や理論より強い力があった」
「そんな、大げさです」
「大げさではない。制度に傷つけられ、それでも義務を捨てなかった父親。その君が政治の場で語れば、多くの者が耳を傾ける」
篠原の声は穏やかだった。
「次の衆議院選挙に、出てみる気はないか」
修平は言葉を失った。
「俺がですか?」
「今すぐ答えを出す必要はない。だが、君はもう救われるだけの人間ではない。誰かを救う側に立てる」
篠原の背後では、公正社会党の党章が照明を受け、白く光っていた。
壇上で浴びた拍手が、まだ修平の耳に残っていた。
政治家になれば、制度を変えられるかもしれない。
春斗に、胸を張って会える父親になれるかもしれない。
そう思った瞬間、修平は篠原の差し出す未来を疑うことができなくなった。
会場の外では、党職員がネットワーク会員の名簿を回収していた。
名簿の欄外には、分類記号が印刷されている。
その中で高田修平の名前だけが、赤い枠で囲まれていた。




