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父親たちの国  作者: null
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第一章 父親であること

高田修平が最後に息子と会ったのは、三か月前の日曜日だった。

駅前の小さな児童公園で、春斗は赤いボールを追いかけていた。六歳になったばかり。春斗の頭より少し大きい学童帽子が、初夏の風を受けるたびに小さく揺れている。可愛らしい足を包む運動靴からは、走るたびにパタパタと音がしている。修平が投げたボールを取り損ねると、春斗は地面に尻をつき、それでも楽しそうに笑った。

「お父さん、もう一回!」

その声を、修平は今も鮮明に覚えていた。

もう一回。

春斗がそう言えば、何度でも投げた。腕が痛くなっても、面会時間が終わるまで投げ続けた。月に一度、午前十時から午後四時まで。その六時間だけが、修平にとって自分が父親であることを確かめられる時間だった。


だが翌月、元妻の由香里から届いたメッセージは短かった。

〈今日は春斗の体調が悪いので中止します〉

さらに翌月は、転居の準備があるという理由だった。

そして今月。

〈引っ越しました。新しい生活が落ち着くまで、面会は控えてください〉

修平は物流倉庫の休憩室で、その文章を何度も読み返した。

窓のない部屋には、作業着に染みついた汗と段ボールの匂いがこもっていた。蛍光灯の白い光が、修平の硬質な黒髪をぼんやりと照らしている。周囲では同僚たちが弁当を食べ、動画を見ながら笑っていた。


修平だけがスマートフォンを両手で握りしめ、返信文を打っては消した。

〈住所だけでも教えてください〉

消した。

〈春斗に会わせてください。約束だったはずです〉

それも消した。

最後に送ったのは、ひどく控えめな文章だった。

〈わかりました。ただ、来月については、また相談させてもらえませんか。春斗にもよろしく伝えてください〉

既読はつかなかった。


その日の午後、修平は荷物の仕分けを二度間違えた。監督に怒鳴られ、頭を下げて謝った。下を向いた拍子に、胸ポケットの中で春斗の写真が折れ曲がった。

仕事を終えて帰宅したのは、午後十一時を回ってからだった。

六畳一間のアパートは蒸し暑かった。冷房をつけると電気代がかかるため、修平は窓を開け、扇風機だけを回した。隣の建物の外壁が近く、風はほとんど入ってこない。

流し台の前で、値引きされた弁当を食べる。食卓代わりの小机には、養育費の振込明細と家賃の督促状が並んでいた。

給料日まで、あと九日。

財布の中には三千八百円。

それでも養育費だけは、期日に遅れず振り込んでいた。


離婚したとき、由香里に言われた言葉が残っていた。

「あなたのそういうところが嫌なの。誰にも頼まれてないのに全部背負って、勝手に限界になって。私たちまで巻き込まないで」

修平には、どうすればよかったのかわからなかった。

誰かが休めば代わりに働いた。荷物が残ればサービス残業をした。給与増額の話をちらつかされれば、無理な勤務にも応じた。家族を守るために働いているつもりだった。

だが由香里にとって、それは家族を守る行為ではなかった。

修平が疲れて帰宅し、口数が少なくなり、食卓で眠り込むたび、由香里は孤独になった。春斗が熱を出した日にも、修平は欠員の出た夜勤を断れなかった。

暴力を振るったことはない。怒鳴ったことも。休日には家事の手伝いだってした。

それでも家庭は壊れた。


修平は、離婚の責任が自分にないとは言わなかった。

しかし、父親である資格まで失ったとは思いたくなかった。

翌週、修平は区役所を訪れた。

仕事を休むため、派遣会社には息子の面会に関する手続きだと説明した。電話口の担当者は露骨に面倒そうな声を出した。

「私用ですよね。今、現場ぎりぎりなんですけど」

「すみません。でも、どうしても今日しか……」

「次の更新、先方の判断になりますからね」


区役所の家庭相談窓口では、灰色のワイシャツを着た職員が、透明な仕切り板の向こうで修平の話を聞いた。

「つまり、元配偶者の方が面会に応じないということですね」

「はい。転居先も教えてもらえなくて。連絡にも返事がないんです」

「面会交流の取り決めは、書面でありますか」

「離婚したときに、月一回と決めました。二人で書いた紙なら……」

「公正証書や調停調書ではない?」

「違います」

職員は端末を操作し、困ったように口元をすぼめた。

「こちらから強制することはできません。家庭裁判所に面会交流調停を申し立てることになります」

「調停には、どれくらい時間がかかりますか」

「事案によります。数か月から、それ以上かかることもあります」

「仕事を休まないといけませんか」

「期日は平日になりますので」

「弁護士は……必要ですか」

「必須ではありません。ただ、法的な助言が必要なら法テラスなどに相談してください」

修平は小さく頭を下げた。

「その間、息子には会えないんでしょうか」

職員は答えなかった。


次に生活相談の窓口へ回された。家賃の督促状を見せると、別の職員は収入証明を求めた。

「現時点では就労されていますよね」

「はい。でも、今日休んだことで契約を切られるかもしれなくて」

「失業が確定してから、改めてご相談ください」

「確定してからですか」

「今は収入がありますので、住居支援の要件に該当しません」

「でも、家賃が払えなくて」

「それは債務相談の窓口になります」


債務相談では、養育費を減額できないかと言われた。

修平は顔を上げて言った。

「それは無理です」

「しかし、生活維持が難しいのであれば」

「息子のためのお金なんです。俺が払わないと」

思わず声が大きくなった。

仕切り板の向こうで、職員がわずかに身を引いた。修平はすぐにまた頭を下げた。

「すみません。でも、それだけは……親として、最低限のことなので」

由香里と同じ言葉を、自分でも口にしていた。

親としての最低限のこと。

ならば、それを果たしている自分は、なぜ春斗に会えないのか。


区役所を出ると、空はすでに暗くなり始めていた。夏の雲が低く垂れ込み、湿った風が街路樹を揺らしていた。

派遣会社からの着信は三件あった。

折り返すと、担当者は事務的に告げた。

「先方から、次回更新はなしという連絡が来ました。欠勤が多いとのことです」

「多いって……。今日と先月の一日だけですよね」

「繁忙期なので。代わりはいくらでもいますから」


電話が切れたあと、雨が降り始めた。

修平は傘を持っていなかった。

雨水は首筋から服の内側へ流れ込んだ。行き交う人々が傘を差し、修平の脇を通り過ぎていく。駅前の大型画面では、華やかな家族向け住宅の広告が流れていた。

子どもを中央に、若い夫婦が笑っている。

修平はその映像から目をそらした。

家賃の支払期限は、明日だった。

仕事はなくなった。

春斗の住所もわからない。

自分が何者なのかも、わからなくなりかけていた。

駅の高架下に入り、濡れたベンチに座った。スマートフォンを開き、春斗の写真を表示する。赤いボールを抱え、前歯の抜けた口で笑っている。

「お父さん、ちゃんとするから」

誰にも聞こえない声で、修平は言った。

「もう少しだけ、待っててくれ」

画面に水滴が落ちた。雨なのか、自分の目から落ちたものなのか、区別がつかなかった。


「高田修平さんですね」

不意に名前を呼ばれた。

顔を上げると、ビニール傘を持った初老の男が立っていた。濃紺のスーツを着込み、穏やかな目で修平を見ている。

知らない顔だった。

修平は警戒して立ち上がった。

「どなたですか」

「驚かせて申し訳ない。区役所の相談窓口から、支援が必要かもしれない方がいると連絡を受けましてね」

男は持っている傘を少し傾けた。

「私は篠原誠司。一般社団法人男性支援ネットワークの代表をしています」

「支援……?」

「住居と仕事、それから家庭の問題を、別々ではなく一緒に考える団体です」

修平は何も答えなかった。

そんな都合のいいものがあるはずがないと思った。

篠原は無理に近づかず、名刺だけを差し出した。

「高田さん」

雨音の中でも、その声だけは不思議なほどはっきり聞こえた。

「あなたが悪いのではありません」

修平は篠原を見つめた。

「この国には、困窮した父親を守る制度がないのです」

それは、修平が一度も与えられたことのない言葉だった。

篠原は静かに手を差し出した。

「今夜眠る場所から、一緒に考えましょう」

高架を電車が轟音を立てて通過した。

修平はその手を見つめた。

差し出された救いの形が、いつか自分と春斗の未来を呑み込むことになるとは、このときの彼には知る由もなかった。

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