21 一炊の夢
同日
空母〈翔覽〉
戴冠式が終わると秋津の一行は母艦に戻った。
すでに夕刻と云っていい時間で、イオリア海も茜色に染まりつつあった。
明日からまた出撃であり、忙しく過酷な日々が始まる。
機体は格納庫に収められ、搭乗員たちは身体を休める。
事業服に着替えた洋一は一息ついた後、飛行甲板に出た。
現在はイタリア半島の近くまで下がってきていて当面飛行作業はないので、甲板はすっきりとしていた。
夕陽を味わいながら、洋一は周囲を見回した。
日差しも良く、波も穏やかな地中海。
艦隊は速度を落としているので、甲板を走る風も穏やかであった。
遠くに対潜哨戒している駆逐艦も見えるが、どこかのんびりとした穏やかな眺めであった。
柔らかい日差しに心地よい風。ほんのひととき、洋一は贅沢な空を味わった。
ふと洋一は、艦首方向に影を見た。ゆっくりとした足取りで彼はそちらに向かった。
誰かが、飛行甲板に椅子を出して座っていた。
その人物も、この空を堪能しているのだろうか。
傍らに立ち、洋一は椅子に座った人物を伺った。
夕陽に照らされて輝いていたのは、彼の上司である紅宮綺羅であった。
気楽な防暑衣に身を包み、デッキチェアに身を預け、輝ける栗色の髪を潮風に遊ばせていた。
声をかけようとしたが、洋一は言葉を飲み込む。彼女は小さな寝息を立てていた。
先ほどの戴冠式でも活躍して、飛んで帰って疲れたのだろう。
それにしても贅沢な休息の取り方であった。
この〈翔覽〉と、地中海が紅宮綺羅のためにあるかのようであった。
本当に、すごい人だな。
洋一は夕陽に輝く綺羅を眺めた。
神様が丹精込めて作り上げた美の化身がそこにある。
先ほどの戴冠式でも、皆その美貌に飲み込まれていた。
勝手気ままな行動は誰にも止められず、あらゆるものをなぎ倒して、すべてを手に入れる。
そして空に上がれば誰よりも速く、誰よりも強い。
そんな人のすぐ後ろに自分がいる。それがどうにも信じられなかった。
地上でも空でも、当たり前のようにそんな日々を送っているが、冷静に考えてみるとどうにも不思議な感覚であった。
こうしている自分は、一炊の夢というやつなのかもしれない。
本当の自分はまだ飛科練でしごかれて疲れて、吊り床に倒れ込んでいるのかもしれない。
あるいは隣の貸本屋で航空絵巻を読んで、寝入ってしまったのかもしれない。
はたまた苦心して竹ひごを曲げて紙を貼った模型飛行機を前にして、居眠りをしているのかもしれない。
こんなにもはっきりとしているのに、こんなにも現実感がない。
それはなぜか。
はっきりしている。目の前に居る人が、現実らしく見えないからだった。
丹羽洋一というしがない下駄屋の倅の前に、こんな光り輝く存在が居ることが信じられない。
妖精とか天女とか、そういったものかもしれない。本当に、そこに居るのだろうか。
知らないうちに、洋一の手が伸びていた。
寝息と共にほんのわずかに揺れる綺羅の頬。
触れたら、そのぬくもりが判るだろうか。
徐々に近づき、紙一枚が挟まるかという距離。
指先にほんのりとその体温が感じられた。
ああ、暖かい。
それを感じた瞬間、洋一は我に返った。音よりも速く手を引っ込める。
恐る恐る覗き込むが眠り姫はまだ目覚めていない。
胸をなで下ろすと、洋一は周囲を見回した。
誰も、見ていないよな。
心臓の鼓動が早くなる。
だめだ、だめだ。
ゆっくりと洋一は後ずさる。
三歩ほど離れたところでようやっと一息入れる。
姿勢を整えると、洋一は上官に向かって一礼し、きびすを返した。
だめだ、だめだ。
足早にその場を去りながら、洋一の心の中で大波が荒れ狂う。
そんな気持ちを、持ってはならないんだ。
相手は、綺羅様なんだぞ。
夕陽に照らされてもなお判る高揚した顔で、洋一は艦内に飛び込んだ。
とにかくこの気持ちを、鎮めなければならない。とにかく走ろう。
甲板に独り、綺羅だけが残る。
贅沢な空に包まれながら、彼女はまだ眠りの世界に留まっていた。
蒼穹に紅 七の巻 完




