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祈りの残響  作者: ゴンザレス清盛


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『契約は、残りはじめる』

契約は、明確だ。


差し出すもの。

受け取るもの。

守るべき条件。


すべてが定義され、

すべてが固定される。


だから、揺れはない。


曖昧さも、迷いも、残らない。


――本来は。


けれど。


どれだけ条件を整えても、

削ぎ落とせないものがある。


それは、契約には含まれない。

 火の音が、遠くで鳴っている。ここは静かだが、長くはもたない。


 少年は立ったまま、アスモデウスを見る。呼吸は荒い。出血も止まっていない。それでも、視線だけは逸らさない。


「契約して」


 短い。迷いのない声。


 アスモデウスの輪郭はまだ不安定だ。腕の縁がほどけ、声も薄い。依代がなければ、このまま消える位置にいる。


 状況は理解できる。だが、これは救いではない。


 少年は続ける。


「この身体をあげる」


 言い切る。躊躇はない。


 アスモデウスは一拍だけ黙る。提示された条件を測る。対価は明確。身体――依代。代わりに何を要求されるかも、すでに見えている。


「代わりに?」


 確認。形式としての問い。


 少年はネリネを見る。言葉を探さない。最初から決まっている。


「ネリネを助けて」


 それだけ。余計な条件はつけない。自分の生存も、痛みの軽減も、望まない。


 残すものを一つに絞っている。


 アスモデウスは、その一点を見る。選択の純度が高い。迷いを削ぎ落とした形。ベルゼブブの飢えが生む奪取とは逆の方向。


 だが、取引であることは変わらない。


「助ける、の定義は?」


 曖昧な語を、固定する。ここで曖昧にすれば、契約は歪む。


 少年は即答しない。一瞬だけネリネの手を握り直す。その圧で、答えを固める。


「生かす」


 一語。だが内訳は重い。危険から離す、追手を断つ、呼吸を繋ぐ、未来へ渡す。


「ここから連れ出して、追わせない。息を止めない」


 条件が具体化される。期間は明示しない。だが今この場の致命を回避することが主目的。


 アスモデウスは頷かない。代わりにもう一つ確認する。


「君は?」


 必要最小限の問い。


 少年は答えない。ネリネの方へ視線を戻す。それが答えだ。自分は条件に含めない。


 アスモデウスは理解する。これは救命ではない。譲渡だ。


 自分の消滅回避と引き換えに、他者の生存を優先する。対価として最も重いのは身体ではない。選択の放棄だ。


 それでも、条件は成立している。


「成立させるには、媒介がいる」


 形式を整える。血でも言葉でもいい。今の状態では長い儀式は不要。短い固定で足りる。


 少年はためらわない。傷ついた腕を持ち上げ、掌をこちらへ差し出す。血が落ちる。


 ネリネが息を呑む。声は出ない。手だけが強く握られる。


 少年は一瞬だけネリネを見る。何も言わない。言えば崩れるから。


 アスモデウスは、その掌に触れる。


 触れた瞬間、境界が走る。少年の体温、痛み、呼吸のリズムが基準として流れ込む。崩れかけた輪郭が、その基準に沿って整列を始める。


 依代の確保。定義の再固定。


 同時に、条件が刻まれる。


 ――ネリネの生存を優先する。

 ――この場からの離脱を完遂する。

 ――追手を断ち、息を繋ぐ。


 少年の指が、わずかに震える。恐怖ではない。失血と、決断の反動。


 アスモデウスは、その震えを受け取る。接続点として、消えないように押さえる。


「確認する。後悔は?」


 最後の形式。


 少年は首を振る。迷いはない。代わりに、ネリネの手をもう一度強く握る。


 それで十分。


「……成立」


 短い言葉で、固定が完了する。


 空間が一瞬だけ歪む。アスモデウスの輪郭が、少年の身体へ収束し始める。まだ完全ではない。だが消えない位置が確保される。


 少年は息を吐く。力が抜ける。膝がわずかに沈む。


 ネリネがその腕に縋る。声は出ないが、離さない。


 アスモデウスは、二人を見る。


 借りるのではない。受け取る。


 条件付きで。


 そして――処理ではなく、“行動”に移る。


 火の音が近づく。人の気配も戻る。時間はない。


「行くよ」


 軽い調子で言う。だが中身は重い。契約が、その言葉に意味を与えている。


 少年の身体が動く。


 その瞬間、重さが落ちる。


 足裏に、地面の硬さが返る。肺が空気を引き込む。痛みが遅れて走る。心臓が、強く一拍打つ。


 観測ではない。


 内部からの感覚。


 アスモデウスは一瞬だけ息を詰める。初めての“内側”。


 だが、止まらない。


 ネリネの手を引く。


 離さないまま、森の奥へ。


 枝を避ける。踏み込みを最短にする。音を殺す。追手の気配を切る。


 人間の足音が迫る。


「こっちだ!」


「血がある、近いぞ!」


 叫びが背後で増える。


 アスモデウスは振り返らない。


 判断が先に出る。


 進路をずらす。燃え残りの煙を使う。風向きを読む。足跡を崩す。


 ――生かす、の内訳を、ひとつずつ実行する。


 ネリネがつまずく。


 腕に重さがかかる。


 反射で引き上げる。


 その動きが、自然に出る。


 理由を考えない。


 身体がそうする。


 胸の奥で、何かが引っかかる。


 これは自分の判断か。


 それとも――残っているものか。


「……どっちでもいいか」


 小さく呟く。


 速度を落とさない。


 前へ。


 ただ前へ。


 やがて火の明かりが薄れる。


 叫びも遠のく。


 森の密度が変わる。


 追跡の線が、途切れる位置。


 そこで初めて、足を緩める。


 ネリネを倒木の影へ押し込む。


 息を整えさせる。


 自分も膝をつく。


 血の匂いが遅れて立ち上る。


 痛みがはっきりする。


 それでも、手は離さない。


 ネリネがこちらを見る。


 言葉は出ない。


 だが、さっきより呼吸が安定している。


 条件の一つが満たされる。


 息を止めない。


 アスモデウスは、胸の奥を確かめる。


 さっきまでの空白とは違う。


 何かがある。


 名前はまだない。


 だが、確かに残っている。


 守る理由。


 それを言葉にする前に、身体が先に動く。


 視線を森の奥へ向ける。


 まだ終わっていない。


 追手は完全には切れていない。


 ここから先も、続く。


 アスモデウスは立ち上がる。


 ネリネの手を引く。


 離さないまま。


 契約は、実行され続ける。


 ――そしてこの瞬間から。


 それは、契約だけではなくなり始めていた。

ここで、契約は成立する。


けれど同時に、

契約に含まれないものが残る。


理由にならないもの。

定義できないもの。


それでも、消えないもの。


それが、少しずつ形を持ち始める。

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