『まだ早い記憶』
思い出すことが、救いとは限らない。
忘れているから歩けるものがある。
知らないから壊れずに済むものがある。
けれど、残っているものは消えない。
匂いとして。
声として。
夢として。
そして、誰かの中にまとわりつく“死”として。
これは、まだ開けてはいけない記憶の前で、
一度だけ足を止める話。
夜は、まだ続いていた。
森の奥へ進むにつれて、ランタンの光は細くなり、周囲の闇は濃くなる。さっきまで見えていた“再演”の影は距離を置き、代わりに、見えない何かの気配だけが増えていく。
音は、少ない。
だが、完全な無音ではない。
聞こえないはずのものが、聞こえないまま“そこにある”。
ナベリウスが、急に歩みを緩めた。
耳が立つ。
鼻先が、わずかに上を向く。
「……」
そのまま、進路を変える。
まっすぐ前ではなく、少しだけ横へ。
アスモデウスの方へ。
クチナシが気づく。
「ナベリウス?」
呼びかけても、答えない。
ナベリウスはそのまま歩く。
止まらない。
距離を詰める。
アスモデウスのすぐ前で、ぴたりと止まった。
見上げる。
じっと。
目を逸らさない。
「……なんだよ」
アスモデウスが軽く言う。
いつもの調子。
でも、少しだけ間があった。
ナベリウスは低く言う。
「お前、知ってるだろ」
一拍。
空気が張る。
ネリネが眉を寄せる。
「何の話」
ナベリウスは視線を外さない。
「その顔になる前の話だ」
その言葉が落ちた瞬間。
アスモデウスの笑みが、消えた。
ほんの一瞬。
それだけで十分だった。
クチナシが息を止める。
ネリネの視線が鋭くなる。
ヘルハウンドは何も言わない。
ただ、状況を見ている。
アスモデウスは、すぐに笑みを戻す。
「さあね」
軽い声。
でも、遅れている。
わずかに。
「何のこと?」
ナベリウスは動かない。
「誤魔化すな」
「誤魔化してないよ」
「匂いがする」
一拍。
「お前からじゃねぇ」
さらに踏み込む。
「“着てる”んだよ」
アスモデウスの目が、わずかに細くなる。
「……ひどい言い方だな」
「事実だ」
短い応酬。
でも、温度は低い。
ネリネが割って入る。
「ちょっと、何の話よ」
ナベリウスはネリネを見ない。
「こいつは、自分の死の匂いが薄い」
一拍。
「代わりに、別の死をまとってる」
ネリネが顔をしかめる。
「……意味分かんない」
「分からなくていい」
アスモデウスが軽く言う。
会話を切ろうとする。
だが、ナベリウスは引かない。
「どこで拾った」
低く詰める。
「それ」
アスモデウスは笑う。
だが、目は笑っていない。
「さあね。拾った覚えはないよ」
「嘘だな」
「失礼だなぁ」
「匂いは嘘つかねぇ」
一拍。
ナベリウスの声が、少しだけ重くなる。
「死んだやつの匂いだ」
クチナシが、わずかに動く。
その言葉に反応する。
ネリネも同じ。
“死んだやつ”。
その響きが、どこか引っかかる。
アスモデウスは、しばらく何も言わない。
沈黙。
珍しい。
それ自体が、答えに近い。
やがて、口を開く。
「……昔の話だよ」
軽く言う。
でも、軽くない。
「覚えてないけどね」
ナベリウスが鼻を鳴らす。
「覚えてるだろ」
「覚えてないよ」
即答。
けれど、少しだけ早すぎた。
ネリネが見逃さない。
「……どっちなのよ」
アスモデウスは肩をすくめる。
「どっちでもいいでしょ」
「よくない」
即座に返る。
ネリネの声は強い。
「関係あるんでしょ、これ」
周囲を指す。
見えない“残り”の気配。
さっきの幻影。
死者の声。
全部が繋がっている気がする。
アスモデウスは少しだけ視線を外す。
ランタンの光を見る。
ヴァレフォルの光。
現実を繋ぎ止めるもの。
それを見て、少しだけ息を吐く。
「……関係ないとは言わない」
初めて、曖昧に肯定する。
ネリネが一歩踏み込む。
「じゃあ教えなさいよ」
「やだね」
即答。
軽い。
でも、拒絶ははっきりしている。
「なんで!」
「今じゃない」
一拍。
「繋がりすぎる」
その言葉が、妙に具体的だった。
ネリネが言葉に詰まる。
「……は?」
意味は分からない。
でも、嫌な感じはする。
ナベリウスが低く言う。
「繋がるってのは、どういう意味だ」
アスモデウスは笑う。
少しだけ、いつも通りに戻る。
「そのままの意味だよ」
一拍。
「思い出すってこと」
ネリネの心臓が、跳ねる。
理由は分からない。
でも、その言葉だけで、身体が反応する。
「……何を」
小さく聞く。
アスモデウスは答えない。
代わりに、静かに聞く。
「ネリネ」
一拍。
「思い出したい?」
その問いは、静かだった。
強制も、誘導もない。
ただ、置かれただけの言葉。
ネリネはすぐに答えられない。
思い出したいのか。
分からない。
でも。
“思い出せないままの何か”が、ある。
それは確かだ。
そして、それに触れた時。
さっきみたいに、身体が止まる。
声が残る。
痛みが出る。
「……分かんない」
正直に言う。
アスモデウスは小さく頷く。
「それでいいよ」
一拍。
「分からないまま進めるなら、それでいい」
ナベリウスが舌打ちする。
「逃げてるだけだ」
「そうだね」
あっさり認める。
「でも、必要な逃げ方もある」
ネリネが睨む。
「それ、いつまでやるの」
「必要なくなるまで」
「曖昧すぎる」
「うん」
否定しない。
その態度が、余計に苛立つ。
ヘルハウンドが口を開く。
「話は後だ」
短く言う。
「今は進む」
全員がそちらを見る。
正しい判断だった。
ここで止まっても、何も解決しない。
むしろ、引き込まれる。
ナベリウスが鼻を鳴らす。
「……分かった」
完全には納得していない。
でも、今は引く。
アスモデウスから視線を外す。
代わりに、前を見る。
「匂いは濃くなってる」
一拍。
「中心が近い」
クチナシが頷く。
「……行こう」
ネリネも、何も言わずに歩き出す。
まだ納得はしていない。
でも、足は止まらない。
アスモデウスは最後に少しだけ空を見た。
見えるはずのないものを見るみたいに。
そして、小さく息を吐く。
「……まだ早い」
誰にも聞こえない声で。
それだけ呟いて、前に進む。
ナベリウスはそれを聞き逃さない。
何も言わない。
ただ、覚える。
匂いと一緒に。
“いつか繋がるもの”として。
森の奥は、さらに暗くなる。
光が届かない場所。
言葉が意味を持ち始める場所。
その入口で、彼らは一度だけ足を止めて。
そして、また進んだ。
「思い出したい?」
その問いは、優しくも残酷だった。
答えられないのは、弱さではない。
まだ、選べる状態ではないだけだ。
アスモデウスは知っている。
ナベリウスは嗅ぎ取っている。
ネリネは気づき始めている。
けれど、全部を繋げるには早すぎる。
記憶は、開けば戻るものではない。
時には、人を壊す。
だから今は、進む。
答えを出さないまま。
繋がりきらないまま。
それでも、中心へ向かって。
“まだ早い”という言葉だけを残して。




