『届く前の決意』
届かないままの想いもある。
会えないままの距離もある。
それでも、人は書く。
言葉にする。
残す。
それは、今のためではなく。
いつか辿り着くためのもの。
この手紙は、まだ交わらない二人のあいだに置かれた、
小さな“未来”の話。
冬は、静かに深まっていた。
森を抜けた先、ひらけた丘。雪は薄く、踏めばすぐに地面の色が覗く。空は高く、雲は低い。風が時折だけ強く吹いて、白を散らした。
旅を始めて、二年。
長かったはずなのに、振り返ると輪郭が曖昧だ。
季節は巡った。
出会いも、別れもあった。
それでも。
フォルネウスの痕跡は、掴めない。
「……薄いな」
ナベリウスが鼻を鳴らす。
「何が」
ネリネが聞く。
「匂いだ」
一拍。
「フォルネウスの痕跡が、切れかけてる」
クチナシは前を見たまま、小さく頷く。
「……うん」
分かっている。
ずっと追っている。
でも、手応えは遠い。
焦りはない。
けれど、空白はある。
その時だった。
空気が、わずかに湿る。
冷たい風に、異質な水の気配が混じる。
ナベリウスが顔を上げる。
「……来るぞ」
クチナシも足を止める。
視線を落とす。
雪の上に、水が滲む。
円を描くように、じわりと広がる。
その中心から。
ぬるりと、姿が浮かび上がる。
小さな身体。
丸い輪郭。
柔らかな触手。
――伝書メンダコ。
水色の体が、音もなく現れる。
ネリネが短く言う。
「……また来た」
初めてではない。
見覚えがある。
動きも、気配も、同じ。
アスモデウスが軽く笑う。
「律儀だね」
メンダコは何も答えない。
ただ、真っ直ぐクチナシの方へ向かう。
迷いがない。
役目だけを遂行する動き。
その背中には、同じ刻印。
水色の紋。
アマルティア王国のもの。
クチナシは、もう迷わない。
静かに手を差し出す。
メンダコはその手に、封筒を乗せた。
丁寧に。
確実に。
受け取られたのを確認すると、すぐに身体を沈める。
水に溶けるように。
跡を残さず、消える。
誰も驚かない。
ただ、静かに見送る。
ネリネがぼそりと言う。
「……便利よね、それ」
ナベリウスが鼻を鳴らす。
「使い捨ての足だな」
アスモデウスが肩をすくめる。
「まあ、王国専用って感じだね」
クチナシは、封筒を見ている。
分かっている。
差出人は一人しかいない。
ゆっくりと開く。
紙は少しだけ湿っている。
でも、文字は崩れていない。
丁寧な筆跡。
ミレイヤの字。
――二通目。
クチナシは読む。
声には出さない。
でも、空気が変わる。
短い文。
飾りはない。
それでも、重い。
“まだ会いに行く資格がない”
“でも、逃げるのはやめる”
それだけ。
それだけなのに、残る。
クチナシは、もう一度読む。
そして、もう一度。
同じ文を、何度も。
意味は変わらない。
でも、受け取り方が少しずつ変わる。
ネリネが横目で見る。
「……相変わらず、面倒なこと言ってるわね」
軽く吐き捨てる。
でも、完全には否定していない。
アスモデウスが笑う。
「真面目なんだよ」
「不器用とも言う」
「それもそう」
軽口が交わされる。
クチナシは、何も言わない。
ただ、読み終える。
ゆっくり息を吐く。
紙を折る。
今度は迷いがない。
大事に、丁寧に。
袋にしまう。
白い花の隣。
“残しているもの”の場所へ。
ヘルハウンドが、隣に立つ。
ずっと、何も言わずに待っていた。
しまい終えるのを見て、短く言う。
「来る気だな」
一拍。
クチナシは頷く。
「……うん。たぶん」
確信はない。
でも、分かる。
あの文面は、“来る人間”のものだ。
ネリネが腕を組む。
「資格がないって何よ」
「自分で決めてるだけでしょ」
苛立ちが混じる。
アスモデウスが肩をすくめる。
「それが一番厄介なんだよ」
「面倒くさい」
「うん」
あっさり同意する。
クチナシが小さく言う。
「……でも、来る」
一拍。
「逃げないって書いてる」
それで十分だった。
言葉は少ない。
でも、方向ははっきりしている。
ヘルハウンドは何も言わない。
ただ、前を向く。
「進むぞ」
短い合図。
全員が動く。
ネリネがぼそりと呟く。
「……増えるのね」
アスモデウスが笑う。
「賑やかになるよ」
「今でも十分うるさいけど」
「それは否定しない」
ナベリウスが鼻を鳴らす。
「面倒が増えるだけだ」
「そうとも言うね」
クチナシは、前を見る。
袋の中の重みを感じる。
紙一枚。
それだけ。
でも、確かに増えた。
“残るもの”。
“これから来るもの”。
風が吹く。
水の気配はもう消えている。
メンダコの痕跡も残らない。
ただ、道だけが続く。
その先に、まだ見えない何かがある。
クチナシは歩き出す。
ヘルハウンドが並ぶ。
言葉はない。
でも、歩幅は揃う。
ネリネも、アスモデウスも、ナベリウスも続く。
冬が終わる。
けれど、旅は終わらない。
むしろ。
ここから、何かが“来る”。
それを、全員がなんとなく感じていた。
「来る」
その確信は、確証よりも重い。
ミレイヤはまだここにいない。
資格も、覚悟も、完全ではない。
それでも。
逃げないと書いた時点で、もう進んでいる。
クチナシは、それを理解している。
ヘルハウンドは、それ以上を聞かない。
ネリネは苛立ちながらも否定しない。
アスモデウスは、ただ面倒だと笑う。
それぞれの形で、“来る者”を受け入れている。
旅は続く。
終わりが見えないまま。
けれど、確実に一つだけ変わった。
“追うだけの旅”ではなくなった。
これからは――
誰かが、こちらへ来る物語になる。




