『雪の下に残る声』
雪は、すべてを消すように見える。
足音も、匂いも、血も。
そこにあったはずのものを、均して、覆い、同じ白にしてしまう。
けれど――
消えるのは、“形”だけだ。
選ばれたもの。
選ばれなかったもの。
間違えた選択。
間に合わなかった祈り。
それらは、消えない。
名前を失っても。
意味を失っても。
それでもなお、“残る”。
これは、雪の下に沈んだ声の話。
終わらなかったものが、
まだそこにあるという証の話。
雪は、音を消す。
足を踏み出せば、軋む音が一瞬だけして、すぐに吸い込まれる。風も弱い。世界全体が、薄い布で覆われたみたいに静かだった。
白い。
どこを見ても、白い。
ネリネは、その白さが少しだけ嫌いだった。
何も隠していないようで、全部を覆い隠している気がするから。
「……寒い」
吐いた息が白くなる。
アスモデウスが隣で肩をすくめた。
「冬だしね」
「知ってる」
それだけ返す。
会話は続かない。
夏の頃より、さらに言葉が減っている。
クチナシは前を歩いている。
雪に足を取られながらも、歩幅は崩れない。
ヘルハウンドが、その少し後ろ。
変わらない距離。
ナベリウスは地面すれすれに鼻を寄せていた。
雪の下の匂いを、無理やり引きずり出すように。
「……っ」
不意に足を止める。
身体が強張る。
ネリネがすぐに気づいた。
「どうしたの」
ナベリウスは答えない。
耳がぴくりと動く。
目が、どこか遠くを見る。
「……うるせぇな」
低く呟く。
クチナシが振り返る。
「なにが」
「声だ」
一拍。
「死者の声」
空気が、少しだけ重くなる。
ネリネが眉を寄せる。
「……聞こえるの?」
「ああ」
ナベリウスは顔をしかめる。
「しかも古い」
「古い?」
「今の死じゃねぇ」
雪の下に埋もれていたもの。
普通なら、もう消えているはずのもの。
それが、残っている。
しかも、はっきりと。
ナベリウスは目を閉じる。
集中する。
拾う。
声を。
言葉を。
そして、ぽつりと漏らす。
「……食えば、死なない」
ネリネの身体が止まる。
空気が一瞬で冷える。
ナベリウスは続ける。
「エルフを」
一拍。
「エルフを食えば」
――雪の下で、同じ言葉が重なった気がした
その言葉が落ちた瞬間。
ネリネの顔色が変わる。
血の気が引く。
呼吸が止まる。
「……今、なんて言ったの」
声が低い。
押し殺したような音。
ナベリウスは目を開ける。
「古い声だ」
短く言う。
「今のじゃねぇ」
ネリネは動かない。
言葉の意味が、理解できてしまう。
だからこそ、動けない。
「……エルフを食えば」
自分で繰り返す。
その言葉が、自分の中で形を持つ。
吐き気がした。
「……何それ」
アスモデウスが静かに聞く。
ナベリウスは肩を揺らす。
「生き延びるための手段だろうな」
「誰が」
「死んだやつがだ」
一拍。
「追い詰められて、選んだ」
ネリネが笑う。
乾いた笑い。
「ふざけないで」
次の瞬間、怒りに変わる。
「そんなの、ありえない」
ナベリウスは淡々と返す。
「ありえたから残ってる」
「違う!」
強く否定する。
「そんなの、エルフじゃない」
「かもな」
あっさりと返す。
「でも声は残ってる」
ネリネの呼吸が乱れる。
雪の中で、その音だけが浮く。
「……なんで」
小さく呟く。
「なんで残ってるのよ」
答えはない。
ナベリウスは言葉を拾うだけだ。
意味を与えるのは、聞く側。
クチナシがゆっくり近づく。
「ネリネ」
呼ぶ。
ネリネは反応しない。
視線が、どこにも合っていない。
「……ねえ」
もう一度呼ぶ。
今度は、少しだけ反応する。
顔を向ける。
でも、焦点が合わない。
「……聞いた?」
ネリネが言う。
「聞いてないよね」
「うん」
クチナシは正直に答える。
「でも」
一拍。
「聞かなくてよかったと思ってる」
ネリネは、少しだけ笑う。
「優しいね」
皮肉でも褒めでもない。
ただの言葉。
ヘルハウンドが短く言う。
「離れるぞ」
ナベリウスが頷く。
「長くいると拾いすぎる」
「ここ、溜まってる」
クチナシが聞く。
「何が」
「死に損ないの声だ」
一拍。
「消えなかったやつらの残りカス」
ネリネが目を閉じる。
耳を塞ぎたくなる。
でも、塞げない。
聞こえていなくても、残っている気がするから。
アスモデウスがゆっくり言う。
「……場所が悪いね」
ネリネが見る。
「何が」
「溜まりやすい場所なんだよ」
一拍。
「終われなかったものが」
ネリネは顔をしかめる。
「……最悪」
吐き捨てる。
クチナシはネリネを見る。
何か言おうとして、やめる。
言葉が見つからない。
代わりに、一歩だけ近づく。
距離を詰める。
それだけ。
ネリネは何も言わない。
でも、その距離を拒まない。
ヘルハウンドが前に出る。
「行くぞ」
短く言う。
止まらない。
留まらない。
ここに長くいれば、引っ張られる。
それは全員が分かっている。
ナベリウスが最後にもう一度だけ耳を澄ます。
小さく呟く。
「……まだあるな」
「他にも」
アスモデウスが聞く。
「似たのが」
「いくらでもだ」
一拍。
「これは一部だ」
その言葉が、重く落ちる。
ネリネは前を向く。
足を動かす。
雪を踏む。
音が消える。
でも、頭の中の声は消えない。
「エルフを食えば」
その言葉だけが、残る。
消えない。
忘れられない。
それが、自分の種族に向けられた言葉だから。
そして。
どこかで、“繋がる”気がした。
理由は分からない。
でも、怖い。
アスモデウスは、その背中を見る。
何も言わない。
言えない。
今、何かを言えば。
この違和感が、形を持ってしまう。
まだ早い。
まだ、早すぎる。
ナベリウスが低く言う。
「……来てるな」
「うん」
アスモデウスは短く返す。
雪は降り続ける。
音を消しながら。
痕跡を覆いながら。
それでも消えないものだけが、確かに残っていた。
残るものは、綺麗なものだけじゃない。
正しかったものだけでもない。
間違えたもの。
壊れたもの。
選ばれてはいけなかったもの。
それでも、残る。
ネリネが聞いた言葉は、過去の誰かの選択だ。
生き延びるために選んだもの。
捨てられなかったもの。
壊れてしまった末の答え。
それを“違う”と切り捨てることはできる。
でも、“なかったこと”にはできない。
だから残る。
そして、その残りは――
今を生きている者の中にも、触れてくる。
理解できなくても。
受け入れられなくても。
関係ないと思っていても。
触れてしまった時点で、もう無関係ではいられない。
雪は隠す。
けれど、消さない。
だからこそ、残ったものは、よりはっきりと浮かび上がる。
――それでも進むしかない。
踏みしめるたびに消える音の下で、
消えなかったものを抱えたまま。




