「届かない手、触れている手」
届かない場所で、彼女は呼吸をしていた。
夜は、音があった。
屋根を打つ雨。
細く、絶え間なく続く音。
窓に当たる雫が、かすかに震えている。
外は暗い。
どこまでも、濡れた闇だった。
教会の中も、少しだけ湿った空気を帯びていた。
石の壁も、木の床も、いつもよりわずかに冷たい。
灯りは小さく、部屋の隅まで届かない。
クチナシは、寝台の上にいた。
目は閉じている。
身体は静か。
けれど、眠りは浅かった。
呼吸が、少しだけ不安定。
指先が、時々かすかに動く。
「……」
小さな音が、喉の奥でこぼれる。
「……ぁ」
眉が、わずかに寄る。
呼吸が速くなる。
身体が、少しだけ強張る。
「……やめ」
途切れた声。
「……おか……」
かすれた音。
そのまま、崩れる。
呼んでいる。
誰かを。
⸻
神父は、廊下にいた。
雨の音を聞いていた。
その中に混じる、かすかな声。
足が止まる。
扉の前。
中から聞こえる、断片的な声。
浅い呼吸。
押し殺されたような苦しさ。
神父は、しばらく動かなかった。
それから、静かに扉を開ける。
中は暗い。
寝台の上。
クチナシがいる。
身体が、わずかに震えている。
目は閉じたまま。
眠っている。
けれど――
安らかではない。
神父は近づく。
手を伸ばしかけて、止める。
起こさない。
ただ、そばに座る。
クチナシの口が、また動く。
「……おかあ……」
今度は、はっきりしていた。
神父の指が、わずかに震える。
それでも、触れない。
ただ、そこにいる。
クチナシの手が、空を掴む。
何かを求めるように。
神父は、それを見る。
何もできないまま。
⸻
――その頃。
クチナシは、別の場所にいた。
紫の灯りが浮かぶ森。
音のない夜。
雨は、ここには届かない。
地面は乾いている。
空気は、静かで、やわらかい。
クチナシは、そこに立っていた。
「……」
少しだけ、息をする。
さっきまでの苦しさが、嘘みたいに消えている。
胸が、楽だった。
呼吸が、できる。
「……ここ」
小さく呟く。
知っている場所。
何度も来た場所。
でも――
少しだけ、間が空いていた。
前よりも、来る回数が減っていた。
来れなかった、という方が近い。
「……」
足を一歩、前に出す。
そのとき。
「来たね」
声が落ちる。
クチナシが、顔を上げる。
そこにいた。
ダンタリオン。
いつもと同じ場所に。
いつもと同じ姿で。
白い手袋。
整った立ち姿。
何も変わらない。
それなのに――
少しだけ、遠く感じた。
「……ひさしぶり」
クチナシが言う。
言葉はゆっくり。
でも、ちゃんと出る。
ダンタリオンは、ほんの少しだけ目を細める。
「そうだね」
静かに言う。
「少し、間が空いた」
クチナシは、頷く。
「……いそがしい」
正しくはない。
でも、それに近い。
教会での時間。
昼のこと。
覚えること。
夜に、ここへ来る余裕が少しだけ減っていた。
ダンタリオンは、それを聞く。
何も否定しない。
「そう」
それだけ。
クチナシは、少しだけ近づく。
前より、ほんの少しだけ自分から。
止まる。
見る。
「……あえた」
ぽつりと。
ダンタリオンは、微笑む。
「僕は、ここにいるよ」
変わらない声。
変わらない距離。
クチナシの中に、少しだけ安心が落ちる。
⸻
音楽が、流れる。
どこからともなく。
静かな三拍子。
クチナシは、それを聞く。
身体が、少しだけ覚えている。
足が、自然に動く。
ダンタリオンが手を差し出す。
クチナシは、少しだけ迷う。
それから、手を伸ばす。
触れる。
やわらかい布越しの感触。
温度はないのに、冷たくもない。
そのまま、一歩。
踏み出す。
少し遅れる。
でも、止まらない。
回る。
揺れる。
呼吸が、少しずつ整う。
「……」
クチナシは、少しだけ笑う。
ほんのわずかに。
現実では出ない形。
「……ここ、すき」
踊りながら言う。
ダンタリオンは答える。
「そう」
「君は、ここで呼吸をしている」
クチナシは、意味は分からないまま頷く。
でも、それでいいと思った。
⸻
その頃、現実では。
クチナシの身体が、わずかに震えていた。
呼吸はまだ荒い。
けれど――
さっきまでとは違う。
苦しさの形が、変わっている。
神父は、それを見る。
眉が、わずかに動く。
「……」
声は出さない。
ただ、見ている。
夢の中で何が起きているのかは、分からない。
でも――
完全な悪夢ではないと、分かる。
⸻
森の中。
クチナシは、踊っている。
少しずつ、前よりも自分で動く。
ダンタリオンは導かない。
合わせている。
クチナシに。
「……ね」
クチナシが言う。
「どうしたの」
「……ちょっと、いたい」
胸のあたりに、違和感。
さっきの夢の残り。
森とは違う、冷たい感触。
ダンタリオンは、少しだけ目を細める。
「外のものだね」
クチナシは、よく分からないまま頷く。
ダンタリオンは、それ以上は言わない。
ただ、動きを少しだけゆっくりにする。
クチナシの呼吸に合わせる。
「……だいじょうぶ」
クチナシが言う。
自分に言い聞かせるように。
ダンタリオンは、何も言わない。
ただ、隣にいる。
⸻
やがて。
音楽が、少しずつ遠くなる。
森の灯りが、揺れる。
クチナシの動きが、ゆっくり止まる。
「……」
少しだけ、不安がよぎる。
終わる。
ここが。
ダンタリオンは、いつも通り微笑む。
「また来ればいい」
クチナシは、止まる。
「……くる」
小さく言う。
前よりも、少しだけはっきりと。
ダンタリオンは頷く。
「待っているよ」
⸻
目が、覚める。
雨の音。
冷たい空気。
暗い部屋。
現実に戻る。
クチナシの呼吸は、ゆっくりと落ち着いていく。
身体の強張りが、解ける。
神父は、それを見る。
変化に気づく。
「……」
何も言わない。
ただ、少しだけ視線を落とす。
クチナシの指が、わずかに動く。
何かを掴むように。
けれど、何もない。
それでも、さっきより穏やかだった。
神父は、そのまま座っている。
触れない。
起こさない。
ただ、そばにいる。
雨の音だけが、夜を満たしていた。
その夜、彼女は二つの場所で、同時に救われていた。




