「重なる祈り」
理由がなくても、やっていいことがある。
夕方の光は、低かった。
教会の中へ差し込むそれは、長く床をなぞっている。
色は薄く、少しだけ赤い。
空気は静かだった。
音がない。
人の気配もない。
ただ、そこにあるだけの静けさ。
クチナシは、その中に立っていた。
入口の近く。
奥までは行かない。
でも、外へ戻るほどでもない。
その場所で、じっと前を見ている。
祭壇の前。
神父が、そこにいた。
立っている。
動かない。
手を組んでいる。
目は閉じられている。
声はない。
ただ、そこにいる。
クチナシは、それを見ていた。
ずっと。
最初は、少しだけだった。
けれど――
もう、知っている形だった。
夜に、自分がやっていることと同じだから。
「……」
足音を立てないように、少しだけ近づく。
神父は動かない。
でも、気づいている。
それも、分かる。
クチナシは、もう少し近づく。
止まる。
そのまま見る。
時間が、流れる。
長く。
何も起きない。
それでも、神父はそのままだった。
やがて、神父が目を開ける。
ゆっくりと。
手を下ろす。
振り返る。
クチナシと目が合う。
「……見ていましたか」
静かな声。
クチナシは頷く。
「……うん」
神父は、ほんのわずかに目を細める。
「夜も、同じことをしていますね」
クチナシは、少しだけ止まる。
隠そうとはしない。
「……やってる」
小さく答える。
神父は、それをそのまま受け取る。
責めない。
止めない。
ただ、続ける。
「どうして、そうしているのです」
クチナシは、少し考える。
理由は、うまく言葉にならない。
でも――
「……まね」
短く言う。
それから、少しだけ間を置いて。
「……神父、やってるから」
それだけ。
神父は、黙って聞く。
「……あと」
クチナシは、もう少し言葉を探す。
「……やらないと」
止まる。
違う気がする。
「……ちがう」
自分で否定する。
言葉を探す。
「……なんか」
それ以上は、出てこない。
神父は、急かさない。
ただ、静かに言う。
「落ち着きますか」
クチナシは、止まる。
少し考える。
夜のことを思い出す。
暗い部屋。
静かな時間。
何もしていないときの、落ち着かなさ。
そして、手を組んで目を閉じたとき。
「……うん」
小さく頷く。
神父は、それを聞く。
ほんの少しだけ、息を抜くように。
「それで十分です」
言う。
クチナシは、少しだけ顔を上げる。
「……いいの」
神父は頷く。
「ええ」
短く。
「理由がなくても、構いません」
クチナシは、その言葉を聞く。
少しだけ、止まる。
理由がなくてもいい。
それは、あまり知らない許され方だった。
「……」
やがて、クチナシは祭壇を見る。
「……それで」
言う。
「……どうなるの」
神父は、少しだけ間を置く。
「何も変わらないこともあります」
クチナシは、じっと聞く。
「届かないこともあります」
その言葉は、夜の自分と重なる。
何も起きなかった時間。
それでも、やっていた時間。
「……じゃあ」
クチナシは続ける。
「……なんでやるの」
神父は、わずかに目を伏せる。
それから答える。
「やりたいから、です」
クチナシは、止まる。
夜の自分を思い出す。
やりたい、だったのかは分からない。
でも――
やめなかった。
その形だけは、同じだった。
神父は続ける。
「願うことです」
「どうにもならないことを、そのままにしないために」
クチナシは、その言葉を聞く。
全部は分からない。
でも、どこかに引っかかる。
「……かわるの」
神父は、少しだけ間を置く。
「変わらないことの方が多いでしょう」
クチナシは、じっと見る。
「それでも」
神父の声が、わずかに柔らかくなる。
「何もせずにいるよりは、ましです」
クチナシは、長く黙る。
夜の自分。
何もしていない時間と、
手を組んでいた時間。
どちらが少しだけ違ったか。
その答えは、まだ言葉にならない。
「……わからない」
正直に言う。
神父は頷く。
「ええ」
それでいい、というように。
クチナシは、少しだけ前へ出る。
祭壇の前へ。
神父が立っていた場所。
手を組む。
目を閉じる。
昼の中でやるのは、少しだけ違う。
明るい。
何も隠れない。
それでも、そのまま立つ。
少しだけ長く。
やがて、目を開ける。
「……できない」
神父は言う。
「構いません」
クチナシは手を下ろす。
少しだけ間があってから言う。
「……よる、やる」
神父は、ほんのわずかに目を細める。
「ええ」
それだけ。
止めない。
ただ、そのまま受け取る。
夕方の光が、ゆっくりと消えていく。
⸻
その夜。
クチナシは、寝台の上で目を閉じていた。
しばらくして、起き上がる。
暗い部屋。
静かな時間。
クチナシは、ゆっくりと手を組む。
目を閉じる。
いつもの形。
「……」
何も浮かばない。
何も願えない。
でも、昼の言葉が残っている。
――理由がなくてもいい。
――何もせずにいるよりは、まし。
しばらく、そのままでいる。
そのとき。
かすかに、重なる。
声のようなもの。
自分のものではない。
すぐそばで、同じ形をなぞるような。
祈りに似ている。
でも、少し違う。
言葉が、わずかにずれている。
「――……」
クチナシは、目を開ける。
暗い。
誰もいない。
でも――
窓の隙間。
黒い花びらのようなものが、引っかかっていた。
揺れている。
風はないのに。
クチナシは、じっと見る。
動かない。
それは、ゆっくりと落ちる。
床に触れる前に――
消えた。
「……」
クチナシは、しばらくそのまま見ていた。
それから、もう一度目を閉じる。
手を組む。
さっきと同じ形。
けれど――
さっきとは、少し違う。
自分の祈りに、何かが混ざったままの夜だった。
その夜、彼女の祈りは、ひとつではなかった。




