第1話 いつもの朝
朝、那津はいつも8時に起きる。スマートフォンのアラームに起こされ、ぼんやりとする頭をしゃんとさせるために、キッチンで冷たいお水を一気に流し込むのも日課である。
季節は春に差しかかっていた。3月に入り、もうすぐ桜の蕾も膨らむだろう。長居公園の外周には桜の木が多く植わっていて、毎年多くの花見客を迎えている。長居植物園でも数種類の桜がほころぶ。
大阪で桜と言えば、天満橋にある大阪造幣局の桜の通り抜けが有名である。130種類以上の桜が開き、圧巻なのだ。那津も時間があれば覗きにいって、華やかな色とりどりの桜を堪能し、そのあとは大川沿いの屋台でビールをいただくという贅沢なひとときを過ごしている。
着替えるために自室に戻ると、スイも起きて伸びをしていた。
「おはよう、スイ」
「にゃおん、にゃあ」『おはようにゃ、那津』
「まずは朝ごはんやね。猫まんま、ちょっと待っててね〜」
「にゃあ」
那津はパジャマから、部屋着にしているグレイのスェットの上下に着替え、朝ごはんの支度のためにキッチンに入る。
友永家の朝ごはんは和食である。白いごはんと具だくさんお味噌汁、おねぎをたっぷり乗せた冷ややっこ、そして卵をふたつ使ったメイン。
これは両親が生きていたころから変わらずで、理由はスイに好物の猫まんまを食べてもらうがためだ。お母さんがいたころは両親の部屋で、今は那津の部屋で食べてもらえば、お兄ちゃんには見つからない。
今日は玉ねぎと春きゃべつ、わかめのお味噌汁にしよう。冷蔵庫から出した玉ねぎはさいの目切りにし、春きゃべつはざく切り、わかめは乾燥わかめなので、小さなボウルで水戻しをする。
お味噌汁なので、乾燥わかめはそのままでも使えるのだが、塩分があって塩辛くなってしまうので、こうして塩分を除くのだ。
そうだ、わかめは今が旬で、生のものがスーパーでも並んでいる。今度買ってこよう。「ウィスキーバー TOMO」のお惣菜でもぜひ使いたい。
ごはんは前日からタイマーを仕掛けているので、すでに炊きあがっている。那津は少し深さのある器にごはんを盛り、できあがったばかりのお味噌汁を注いだ。それをトレイに乗せて、自室に持っていく。
「スイ、お待たせ、猫まんまやで」
「にゃおん」『待ってたにゃ』
那津はトレイごと、フローリングの床に置いた。トレイの縁は高さがあるので、スイが食べやすいように食器を端に寄せてやる。
「はい、どうぞ」
「にゃ」
スイは猫まんまをがつがつと食べ始める。空腹だったのだろう。その一生懸命な様子が可愛らしくて、那津はスイの背中をそっと撫でた。
お兄ちゃんにスイの正体を明かしていない今、こうしてスイが好きなものを食べられるのは、朝ごはんと晩ごはん。そう思うと結構好きにしてもらっているのでは、と思うのだが、スイにとっては窮屈かも知れない。甘いお酒も好きなのに、堂々と飲めなかったり。
スイは猫又だから、気まぐれ、気ままな猫としての性分はそのままである。なので飲食に関してはそう振る舞えないことは、ストレスになっているのかも知れない。
けれど、スイはお兄ちゃんに正体を言おうとはしない。それはいったいどうしてなのか。スイにとってお兄ちゃんは、お父さんのように信頼が置けないと思われているのか。
スイは賢い猫又だから、スイなりの考えがあるのだと思う。なので那津は、ただ見守るしかないのである。
いつか、お家ででも「TOMO」ででも、3人でお酒が飲めたら嬉しいな、なんて思うのだ。
「スイ、ゆっくり食べて。あとで食器取りにくるからね」
「にゃ」
那津は自室を出たら廊下を少し歩き、隣のお兄ちゃんの部屋のドアをノックした。
「おにいちゃん、おはよう、朝ごはんもうすぐできるからね」
すると中から「う〜……」と呻くような声が聞こえてきた。お兄ちゃんもスマートフォンのアラームを、那津と同じ8時にセットしているので、同じ時間に起きているはずである。だが、お兄ちゃんは朝が弱いのだ。動けるようになるまで時間がかかるのである。
こういうとき、実のきょうだい、家族だったら、ずかずかと部屋に入っていけたりするのだろうか。もちろんノックと声がけはありきだが。
そこにほんの少しの壁を感じる。だが、お兄ちゃんは心は女性であっても、身体は男性のままだし、男性の要素もかなり残している。そう思うと、実のきょうだいであっても、迂闊に部屋に入らないほうがよいのでは、とも思う。
よくホームドラマなどで、お母さんが息子さんを力尽くで起こしているシーンがあるが、あれは現実世界でもあることなのだろうか、なんて思ってしまう。
那津は「ふぅ」を小さく息を吐き、キッチンに戻る。あとは卵を焼くだけだ。今日は目玉焼きにしよう。両目で、お手軽に蒸し焼きでいこう。
大きめのフライパンを出し、温めてオリーブオイルを引いたら、卵を4個割り入れた。じゅわっと音がし、白身の端からじわじわと火が通って白くなっていく。
卵は優秀だ。食物繊維以外の栄養素が詰まっていて、和食にも洋食にも、他の国のお料理にも欠かせない食材だ。
白身がじわじわと固まってきたので、那津は鍋肌にお湯を少量入れて、ふたをした。
その間に冷ややっこを用意して。そうしているうちに。
「なっちゃん、おはよう」
ネイビーのパジャマのままのお兄ちゃんが、ふにゃりとした笑顔で姿を現した。
「おはよう、お兄ちゃん」
那津は笑顔で、お兄ちゃんを迎えた。




