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第七章

 それから、クルスとは何度か会った。クルスはいつも絵を何枚か描いて持ってきた。そしてその都度僕とマルクは感想を述べて、彼はお礼に絵を描いた。

 クルスは最初の頃とは違って、笑顔が段々増えていることに僕は気が付いた。会う度に笑顔が増えている気がする。それに、彼女は最近、化粧をして僕達の前に現れるようになった。その透き通るような肌にファンデーションはいらないと思ったが、それでも化粧をした彼女も美しかった。服もお洒落なものを選んで着ているようで、毎回彼女のファッションセンスの良さには舌を巻いた。

 僕は、次第に気が付いた。クルスはマルクに恋をしている。

 そしてまた、マルクもクルスに恋愛感情を抱いている。

 それらはまるで万有引力か磁石のように、惹かれあっているということが僕にもわかった。

 マルクの気持ちは僕にもわかる気がする。僕が後五、六年早く生まれていたら、僕はクルスに恋をしたかもしれない。でも現実には僕はまだ十六歳で、彼女の相手をするには早かった。

 だけど僕には嫉妬心などなく、寧ろ二人を応援したいという気持ちでいっぱいだった。僕は二人がお似合いのカップルだと思うし、僕は二人の幸せを願いたい。

 マルクとクルスもお互いがお互いに好意を持っていると気付いているようだった。僕は二人が幸せそうに笑いあうのを見守りながら、この二人の笑顔を描きたいと思った。僕が、自分の手でキャンバスいっぱいに幸せそうな二人の表情を描く。見る人はみんな幸せな気持ちになる。そんなことができたらいいな、と思った。


 異変が起こったのは、その後のことだ。


 僕達とクルスは、三日後にまた会おうと約束して、別れた。そしてその三日後がやってきた。僕達はいつものようにあのタンポポ畑で待っていた。ステージの上に腰かけて、クルスがいつもやってくる道をずっと見ていた。しかし、クルスがいつまで待ってもやって来ない。約束の時間を決めていたわけではないが、いつも昼過ぎの一時頃会っていた。だからそれが約束の時間のようなものだった。しかし、昼をどれだけ過ぎても、クルスは来なかった。

「きっと、昼食の配膳が遅れているか、抜け出すところを見つかったかしたんだ。もう少し待ってみよう」

 マルクはそう言って、ステージの上から道を見た。僕もその意見には賛成して、もうしばらく待ってみることにした。

 しかし、どれだけ待ってもクルスはやって来なかった。時計を見ると、もう四時になる。三時間も待っているのだが、彼女は遂に姿を現さなかった。

「マルク、僕はクルスのことが心配だ」

 僕は彼女の病気のことを気にかけた。彼女が絵を描いて僕達に会うことによって元気づけられたとしても、彼女の病気が完治するわけではない。病気のことさえなければ、きっと約束を忘れたんだと思って大して気にかけないかもしれないが、彼女はもう長くないと言っていた。万が一、彼女の身に何かあったら。僕は冷静を装っていたが、内心は不安で仕方がなかった。

 マルクは僕の内に潜むその不安を読み取ったのか、何も言わずただ頷いて腰を浮かした。


 僕達は公園を抜けて病院に向かった。近くで見ると余計重苦しい雰囲気を醸し出しているその病院に入り、受付で彼女の名前を言うと、部屋の番号を教えてくれた。

 僕達がその部屋に行くと、そこには息も絶え絶えなクルスがいた。

 その光景に、僕は衝撃を受けた。あれだけ元気で、顔色もよくお洒落までしていた彼女が、今は様々な装置につながれ、体のあらゆる場所からチューブを出している状態だ。輝くような笑顔はどこかに行ってしまい、代わりに痩せこけた頬と落ちくぼんだ瞳が僕らの網膜に焼き付いた。

「クルス、クルス」

 マルクが小さな声で呼んだ。クルスは小さく目を開き、苦しそうにそっと微笑んだ。

「マ……ルク」

 唇はからからに渇いていて、言葉がうまくしゃべれないようだった。僕はテーブルの上から水差しを取って、クルスに少しだけ水を飲ませた。彼女はいくらかむせてから、僕達を見て口を動かした。僕らが彼女の口に耳を近づけると、「ありがとう」と言っているのがわかった。

「いいんだ。生きていて良かった」

 マルクの言葉に、クルスは一筋の涙を流した。マルクはその涙を人差し指で拭うと、クルスの髪を撫でた。

「いいんだ。ゆっくりやっていこう。ゆっくり治せばいいんだ。君には絵がある。絵を描いていれば、病気なんて知らない間に治るさ。それに……俺もいる」

 クルスの両眼から涙が溢れ出す。マルクは何度も頷いた。

 僕は、ベッドの脇にあった紙に気が付いた。それは、いつもクルスが絵を描いて持ってくる紙だった。僕はそれを手に取ってみた。すると、そこにはマルクが描かれていた。彼が微笑みながら手を差し伸べている絵だ。細かな表情やハットリボンの色まで巧みに再現されている。僕はその絵をマルクに見せた。

「参ったな、本当の俺を十倍は美化して描いてる。俺はこんな色男じゃないよ」

 その言葉に、クルスは目を細めて笑った。

「でも、嬉しい。ありがとう」

「うん」

 クルスが言うと、そこで彼女の体がどくんと脈打った。

「はぁっ、はぁっ」

 呼吸が荒くなって、苦しそうな表情で胸を押さえている。何かの発作だろうか。

「ワタル、ナースコールを」

「わかった」

 僕がナースコールのボタンを押すと、クルスが小さな声で何かをマルクに囁いた。

「絵を……絵を、見せて」

 必死の思いで懇願するクルスに、マルクは頭を振った。

「今は無理だ。君の体調が良くなったら、いくらでも見せるから」

「それじゃ……ダメ」

 部屋に看護師が来た。看護師はこの状況を見て、これが普通のナースコールではないことを悟った。すぐにクルスの元に駆け寄って、処置をしている。

「先生を呼んできます」

 ある程度の処置が終わると、看護師は医師を呼びに走った。

「マル、ク。絵を、見せて。私が好きな、絵」

 クルスは最早目も開けられないまでに衰弱しており、口を開けて苦しそうな息を漏らしていた。マルクは歯を噛みしめて考えていたが、やがて小さく頷いた。

「わかった」

 マルクは、左手をそっとクルスの胸に置いた。その鼓動を感じるように、心の波長を合わせるように、目を閉じて何かを探っている。

 マルクが目を開いて、左手に力を入れる。すると、クルスの苦しそうだった呼吸が一瞬長くなった。僕は感じ取った。今マルクは、いつもの壁でなく、クルスの心に、絵を見せているのだ。あの、紫陽花の絵を。

「あり……がとう」

 最期に、クルスが呟くように言った。そして、静かに息を引き取った。




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