第9章:廃棄された娘 Scene 9 残照 ― Residual Data ―
【適合個体――Humilis Vanitas】
アルディアは、その文字を見つめていた。
世界の半分を犠牲にした。
聖杯を満たした。
瑠美奈の身体も取り戻した。
ヒューミリス自身は、この世界に残ると決めた。
それでも。
まだ。
足りない。
「何を……」
父も同じ言葉を口にした。
「何を、まだ取るつもりなんだ」
聖杯は淡々と処理を続ける。
【長時間転送ニ必要ナ魂魄強度ガ不足】
【追加供給源ヲ要求】
【通常魂魄デノ代替不可】
【同一転生経路ヲ持ツ高密度魂魄ヲ要求】
そして。
もう一度。
【適合個体――Humilis Vanitas】
ヒューミリスは、腕の中の瑠美奈を見た。
眠っている。
ようやく取り戻した身体。
頬には血の気が戻りつつある。
もう少し。
ほんの少しで。
彼女だけは、未来へ帰れる。
「僕を使えば」
ヒューミリスが尋ねる。
「瑠美奈を完全な状態で送れるんだな」
【肯定】
「お父さん」
アルディアが一歩踏み出す。
嫌な予感などという段階ではない。
この先。
何が起きるのか。
もう分かる。
「待って」
聖杯は条件を表示した。
【神格権限ヲ喪失】
ヒューミリスは頷いた。
「構わない」
【不死性ヲ喪失】
「構わない」
【肉体情報ヲ喪失】
一瞬。
沈黙。
それでも。
「……構わない」
アルディアは首を振った。
「駄目」
【魂魄情報ノ99.9%ヲ消費】
「駄目!」
最後。
【個体トシテノ存続ハ不可能】
世界が。
静かになった。
ヒューミリスは何も言わない。
アルディアも。
言葉を失った。
個体として。
存続できない。
つまり。
死ぬ。
そんな生易しい意味ではない。
肉体を失い。
魂を失い。
記憶を失い。
存在そのものが。
ほとんど。
消える。
「……お父さん」
ほんの少し前。
父は言った。
一億年でも。
二億年でも。
この世界で待つと。
いつか瑠美奈が戻ってくるなら。
地獄でも。
一人でも。
待ち続けると。
その可能性すら。
今。
聖杯は要求している。
「やめてよ」
アルディアは父へ手を伸ばした。
「そこまでしなくていい」
届かない。
「お母様を送ったら、貴方はここで待てばいいじゃない」
それが。
救いとは思えない。
世界の半分を殺した罪が消えるわけでもない。
それでも。
存在していれば。
いつか。
何かをやり直せるかもしれない。
「残りなさいよ」
父は答えない。
「生きなさいよ!」
その時。
「……俊君」
小さな声がした。
ヒューミリスの身体が止まる。
アルディアも息を呑んだ。
「お母様?」
瑠美奈は目を閉じたまま。
唇も。
ほとんど動いていない。
幻聴かもしれない。
魂が。
ほんの僅かに。
父へ呼びかけただけなのかもしれない。
それでも。
ヒューミリスは笑った。
「いいよ」
アルディアが。
父を見る。
黒野の眉が。
僅かに動いた。
「君、本当に何も残さないつもりか?」
「残すよ」
ヒューミリスは、瑠美奈の顔を見つめていた。
「僕が愛した、君を」
黒野はしばらく黙っていた。
世界の半分を殺した。
神の力を手にした。
永遠に近い命もある。
世界そのものを支配できる。
それを。
全部。
捨てる。
「君は神だ」
黒野が言う。
「ここに残れば永遠に存在できる」
「瑠美奈がいない永遠に意味なんてない」
「彼女は君を忘れるかもしれない」
「それでもいい」
「未来で、別の誰かを愛するかもしれないよ」
ヒューミリスの指が止まった。
ほんの一瞬。
アルディアにも分かった。
痛かったのだ。
きっと。
想像したくもない。
自分を忘れた瑠美奈。
別の誰かと笑う瑠美奈。
別の誰かを。
愛する瑠美奈。
それでも。
父の手は。
彼女の頬を優しく撫でた。
「幸せなら、それでいい」
アルディアは目を見開いた。
世界の半分を。
殺した男。
瑠美奈を取り戻すためなら。
すべてを壊した男。
なのに。
最後。
彼女自身の幸せと。
自分自身を天秤へ載せた時。
自分を。
捨てた。
「……何なのよ」
アルディアは。
父を見ていた。
「貴方、本当に……」
分からない。
世界の半分を殺せるほど利己的で。
自分の存在すべてを渡せるほど。
利他的。
「めちゃくちゃじゃない」
優しい。
残酷。
傲慢。
謙虚。
全部。
一人の人間に。
同時にある。
「だから……」
単純な言葉で。
説明してはいけない。
悪人。
被害者。
英雄。
魔王。
どれか。
一つではない。
「全部、貴方なんだ」
黒野が続ける。
「二度と会えないんだよ?」
「ああ」
「君が何をしたのかさえ、彼女は知らないかもしれない」
「ああ」
「君は英雄として讃えられることもない」
返事はない。
「魔王として恐れられることもない」
ヒューミリスは瑠美奈を抱き寄せた。
黒野の声が。
少しだけ。
低くなる。
「ただ、消えるだけだ」
長い沈黙。
父は。
微笑んだ。
「それでいい」
アルディアの目から。
涙が落ちた。
「良くないよ……」
誰にも。
覚えられない。
救ったことも。
殺したことも。
愛したことも。
何も。
残らない。
「それじゃ」
自分は。
知っている。
誰からも。
認識されない恐怖。
存在そのものを。
世界から否定された。
あの瞬間。
「存在しなかったことになるじゃない」
ヒューミリスの身体から。
光が溢れ始めた。
神としての権能。
世界の法則へ干渉する力。
不死の肉体。
そして。
傲慢。
すべてが。
光へ変換され。
瑠美奈へ流れ込んでいく。
【Authority Transfer】
【Pride:Transfer】
【Physical Data:Transfer】
【Soul Data:Transfer】
【Memory Data:Transfer】
【Existence Data:Transfer】
アルディアは。
最後の一行を見て。
声を失った。
存在。
それすら、渡す。
「待って!」
父の指先が。
光へ変わり始める。
「待ってよ!」
今度こそ。
瑠美奈の瞼が。
僅かに。
開いた。
「……俊君」
「瑠美奈」
父は。
笑った。
驚くほど。
穏やかだった。
「……どこ、行くの」
「少し」
ヒューミリスは。
嘘をついた。
「ここに残るだけだよ」
瑠美奈の瞳から。
涙が溢れた。
「嘘」
父は。
困ったように。
笑う。
「ごめん」
「待って」
瑠美奈が。
手を伸ばす。
ヒューミリスの頬へ。
けれど。
届く前に。
彼の腕は。
光へ崩れ始める。
「俊君も、一緒に」
「君は行くんだ」
「嫌」
「未来へ」
「俊君!」
「今度は」
父の声が。
少しずつ。
遠くなる。
「ちゃんと幸せになるんだよ」
「嫌!」
アルディアは。
二人の間に。
立っていた。
母が。
父へ。
必死に。
手を伸ばしている。
「俊君!」
アルディアも。
同じ人へ。
手を伸ばした。
「お父さん!」
二人の声が。
重なった。
ヒューミリスは。
最後に。
瑠美奈の手を握る。
もう。
触覚さえ。
失われつつある。
それでも。
握った。
「愛してる」
「私も……!」
アルディアは。
何も言えなかった。
その言葉を。
自分へ向けてほしいと。
一瞬だけ。
思った。
父に。
母に。
娘として。
愛していると。
言ってほしかった。
でも。
これは。
二人の別れだ。
生まれなかった自分が。
割って入る場所ではない。
だから。
ただ。
見ていた。
記憶するために。
聖杯が。
最終処理を開始した。
【Transfer Complete】
【Reincarnation Process――START】
光の柱。
瑠美奈の身体が。
浮かび上がる。
「俊君――!」
声。
涙。
温もり。
すべてが。
一億五千万年後へ。
送り出される。
そして。
父は。
残った。
いや。
「……違う」
残れなかった。
ヒューミリスの身体が。
完全に。
光へ変わる。
足。
胴。
胸。
最後に。
顔。
「お父さん!」
アルディアは。
反射的に。
掴もうとした。
指が。
光をすり抜ける。
ほんの一瞬。
父が。
こちらを。
見た。
「……え?」
あり得ない。
この時代にアルディアは存在しない。
Save Dataの。
観測者。
Residual Data。
N。
それでも。
父の瞳が。
確かに。
自分へ向いたように。
見えた。
ほんの。
一瞬。
笑った気がした。
そして。
消えた。
【Individual Data:Humilis Vanitas】
【Physical Data:Lost】
【Soul Data:99.9% Consumed】
【Existence Maintenance:Failed】
【Individual Terminated】
「……」
アルディアは。
その表示を、見つめた。
終わった。
本当に。
全部。
世界の半分が死んだ。
母は。
未来へ行った。
父は。
消えた。
静かだった。
壊れた世界。
壊れた聖杯。
空になった玉座。
そこに。
立っているのは。
黒野玲だけ。
「……本当に」
黒野が。
呟いた。
笑っていなかった。
「全部渡したのか」
アルディアが。
男を見る。
黒野は。
父が消えた場所を。
見ていた。
「魔王として残ると思ったんだけどな」
返事はない。
「一億年でも二億年でも待つって言ってたし」
文庫本を。
開く。
最後の頁。
そこには。
ヒューミリスの消滅。
「悪くない悲劇だったのに」
アルディアは。
その言葉を聞いて。
少しだけ。
驚いた。
「……外れたんだ」
黒野が。
顔を上げる。
もちろん。
アルディアを見てはいない。
「貴方にも」
初めて。
予定から。
外れた。
父は。
黒野が期待した。
魔王にならなかった。
永遠に。
復讐を続ける存在にも。
ならなかった。
最後は。
物語そのものから。
降りた。
自分が。
消えることを。
選んだ。
「……ざまあみろ」
小さく。
アルディアが呟く。
黒野が。
本を閉じる。
「まあ、いいか」
いつもの。
軽い声。
「君の役目は終わった」
その言葉に。
アルディアの表情が。
変わった。
「役目……?」
Scene 4。
Cast。
役者。
配置。
Scene 5。
Fuel。
Scene 6。
Core。
また。
同じ。
人間が。
役割へ。
変換される。
そして。
役目を。
終えたら。
「……捨てる」
黒野の身体が。
空間へ溶け始める。
「次の物語で会おう」
楽しそうな声。
「瑠美奈ちゃん」
消えた。
黒野が。
いなくなる。
世界には。
誰もいない。
アルディアだけ。
いや。
本当は。
アルディアもここにはいない。
過去を。
見ているだけ。
「……終わり?」
答えはない。
Save Dataが。
そこで。
停止した。
と思った。
だが。
画面は。
閉じなかった。
「……?」
時間だけが。
動き始める。
一年。
百年。
一万年。
百万年。
何億。
世界が。
変わっていく。
大陸が動き。
海が形を変え。
文明が。
生まれて。
滅びる。
国の名前も。
神の名前も。
ヒューミリス・ヴァニタスという存在さえ。
忘れられていった。
「お父さん……」
いない。
肉体。
ない。
魂。
ほとんどない。
記憶。
ない。
思考。
できない。
なら。
本当に。
消えた。
はずだった。
その時。
ノイズ。
ほんの。
小さな。
ノイズ。
アルディアの視界が。
揺れた。
【Warning】
【Unregistered Residual Data Detected】
「……え?」
胸が。
強く鳴った。
【Source:Unknown】
【Individual Identification:Failed】
【Memory:Corrupted】
【Soul Density:Below Minimum】
【Classification:Noise】
アルディアの。
瞳が。
大きく。
開いた。
Noise。
知っている。
その言葉。
自分が。
ルミナに。
そう呼ばれた。
不要な。
破損データ。
存在していると。
認めてもらえない。
何か。
「まさか」
世界の底。
誰にも。
観測されない。
場所。
声にも。
ならない。
何かが。
揺れていた。
『……瑠……』
アルディアは。
息を止めた。
『美……奈……』
「……お父さん?」
返事はない。
父ではない。
もう。
ヒューミリスではない。
名前も。
思考も。
人格も。
失われている。
ただ。
最後まで。
消えなかった。
何か。
想い。
執着。
愛。
呼び方など。
何でもいい。
それだけが。
世界へ。
焼き付いている。
【Residual Data】
アルディアの前へ。
文字が。
表示される。
「Residual……」
自分の。
表示。
思い出す。
【Residual Data:N】
「……同じ」
父も。
消えなかった。
完全には。
消せなかった。
世界が。
存在として。
認識できないほど。
小さくなっても。
「残ってる」
アルディアは。
震える声で。
呟いた。
June Bride。
消去されたのに。
残っていた。
Toy Box。
削除されたのに。
残っていた。
影那。
人間として。
機能へ変換されても。
残った。
母。
Coreになっても。
天城瑠美奈だった。
そして。
父。
存在の。
99.9パーセントを。
失っても。
「残ってる……!」
アルディアは。
笑った。
涙を。
流しながら。
「ほら!」
誰に。
向けてなのか。
分からない。
ルミナ。
黒野。
システム。
世界。
全部へ。
「消えてないじゃない!」
【Individual Identification:Failed】
「名前が分からなくても!」
【Classification:Noise】
「Noiseでも!」
世界の底へ。
手を伸ばす。
触れない。
けれど。
いる。
「いたんでしょう!」
父は。
いた。
世界を救った。
世界を殺した。
母を愛した。
最後に。
すべてを。
渡した。
「私が覚えてる!」
その瞬間。
残留データが。
ほんの僅かに。
揺れた。
『……おかえり』
「……え?」
誰へ。
向けた言葉なのか。
分からない。
まだ。
母は。
一億五千万年後に。
辿り着いたばかり。
それでも。
世界の底に。
残った想いが。
彼女へ。
そう。
囁いた。
『……おかえり』
アルディアは。
目を閉じた。
「うん」
父には。
届かない。
でも。
代わりに。
答えた。
「ただいま」
長い。
長い時を越えて。
母が。
戻った。
父は。
そこには。
いない。
それでも。
想いだけは。
待っていた。
世界から。
忘れられても。
物語が。
終わっても。
黒野に。
役目を終えたと。
言われても。
「……そうか」
アルディアは。
ようやく。
分かった。
Trash Boxに。
落ちているもの。
Save Data。
Noise。
Residual Data。
それらは。
「いらなかったものじゃない」
誰かが。
不要だと。
決めただけ。
「終わったものでもない」
終わったと。
誰かが。
決めただけ。
それでも。
残る。
忘れられても。
削除されても。
名前を。
失っても。
「存在したものは」
アルディアは。
胸へ。
手を当てた。
【Residual Data:N】
「ゼロにはならない」
その言葉へ。
応えるように。
Trash Boxの。
無数の光が。
一斉に。
瞬いた。
Save Data 01。
Save Data 01.5。
Save Data 03。
Save Data 04。
名前のない世界。
使われなかった人物。
書かれなかった未来。
誰にも。
観測されなかった可能性。
全部。
そこにいる。
アルディアは。
初めて。
その光を。
恐れずに。
見た。
「……じゃあ」
N。
自分に。
付けられた。
意味不明の。
記号。
Noise。
Unknown。
残骸。
そうだと。
思っていた。
でも。
「Nって」
アルディアは。
無数の光を。
見渡す。
一つ。
二つ。
数えられない。
「何個あるの?」
返事はない。
けれど。
その問いに。
Trash Box全体が。
微かに。
震えた。
【Residual Data:N】
文字が。
一度。
明滅する。
そして。
その隣に。
新しい表示が。
現れた。
【N = Undefined】
アルディアは。
それを。
見つめた。
Unknown。
未定義。
だから。
何もない。
ではない。
まだ。
決められていない。
「……未定義」
小さく。
笑う。
「だったら」
誰かに。
決めてもらう必要なんて。
ない。
その時。
遥か彼方。
今まで。
一度も。
開かなかった。
巨大なSave Dataが。
音を立てた。
【ACCESS REQUEST】
アルディアが。
顔を上げる。
【Observer:Residual Data N】
【Access Level:Insufficient】
赤い文字。
【DENIED】
一拍。
だが。
表示は。
消えない。
もう一度。
【ACCESS REQUEST】
【DENIED】
また。
【ACCESS REQUEST】
【DENIED】
アルディアは。
眉を寄せた。
「……誰が」
自分は。
操作していない。
「開けようとしてるの?」
無数のSave Dataが。
一斉に。
光った。
一つではない。
まるで。
Trash Box全体が。
同じ要求を。
送っているように。
【ACCESS REQUEST:N】
【DENIED】
【ACCESS REQUEST:N+1】
アルディアの。
目が。
止まる。
【DENIED】
【ACCESS REQUEST:N+2】
「……N、プラス?」
次々と。
数字が。
増える。
【N+3】
【N+4】
【N+5】
止まらない。
アルディアは。
無数の光を。
見回した。
自分だけではない。
ここに。
いるもの。
全部。
「……まさか」
巨大な扉に。
亀裂が。
走った。
【WARNING】
【Multiple Residual Data Interference Detected】
【Administrator Authority Required】
アルディアは。
その文字を。
見上げた。
Administrator。
管理者。
黒野。
そして。
かつて。
ヒューミリスが。
与えられたもの。
アルディアは。
ゆっくり。
扉へ。
歩き出した。
まだ。
何も、分からない。
自分が。
何なのかも。
ここで。
何ができるのかも。
でも。
一つだけ。
分かった。
自分は。
一人ではない。
【Residual Data:N】
その後ろ。
無数の光。
【N+】
アルディアは。
初めて。
その記号を。
恐れなかった。
「……行こうか」
誰へ。
言ったのか。
自分でも。
分からない。
けれど。
Trash Boxの光は。
確かに。
応えた。




