第9章:廃棄された娘 Scene 2 出生取消 ― Birth Record:Cancelled ―
――ブォォォォンッ!
低いエンジン音が、六月の雨を引き裂いた。
アルディアは反射的に振り向いた。
けれど。
これは記録だ。
過去に起きたこと。
もう終わったこと。
どれだけ叫んでも。
どれだけ手を伸ばしても。
今の自分には、何も変えられない。
「危ない!」
それでも叫んだ。
雨上がりの道路。
水溜まりを大きく跳ね上げながら、一台の黒い車が猛スピードで迫ってくる。
「逃げて!」
届かない。
男――俊樹が異変に気づいた。
「――瑠美奈ッ!」
女性を突き飛ばそうとする。
けれど。
遅い。
一瞬だった。
鈍い音。
身体が宙を舞う。
白い服。
雨粒。
赤。
すべてが混ざり合い。
瑠美奈の身体がアスファルトへ叩きつけられた。
「――っ!」
アルディアの意識が引き裂かれた。
痛みはない。
自分が轢かれたわけではない。
それでも。
腹部を貫くような感覚が走った。
瑠美奈が。
震える手を、自分の腹へ伸ばしている。
つい先ほどまで。
そこには。
小さな命があった。
『三人で』
そう言っていた。
この人と。
愛する男性と。
そして。
まだ生まれていない子供と。
三人で生きる未来を。
「……赤ちゃん」
アルディアの声が震えた。
黒野の言葉が蘇る。
――君の元になった命は、誕生する前に母親と一緒に死んだ。
「まさか……」
瑠美奈。
その名前。
顔。
自分を消した魔王と同じ顔。
そして。
腹の中にいる。
まだ名前すら持たない命。
「……お母様?」
アルディアは呟いた。
先ほどとは違う。
目の前にいるのは。
世界を消す魔王ではない。
冷たい声で自分をNoiseと分類した存在でもない。
雨に濡れ。
痛みに震え。
それでも腹の中の命を守ろうとしている。
一人の女性だった。
「お母様……なの?」
返事はない。
瑠美奈には。
アルディアが見えていない。
当然だった。
この時。
アルディアは。
まだ。
存在していない。
「じゃあ……」
視線が。
彼女の腹部へ落ちる。
「そこにいるのは……」
文字が浮かび上がった。
【Individual Data Scan】
【Subject:Amagi Rumina】
【Status:Critical】
【Secondary Life Signal Detected】
【Fetal Individual:Unnamed】
【Birth Record:None】
【Future Identification:Unavailable】
【Potential Branch Data:――】
ノイズ。
表示が崩れる。
そして。
一瞬だけ。
別の文字列が重なった。
【Residual Correlation Detected】
【N】
「……私?」
誰も答えない。
アルディアは。
ただ。
その小さな表示を見つめた。
自分ではない。
まだアルディアという名前もない。
アルディア・グリーンフェルとして生きた記憶もない。
父と旅をしたことも。
ジュラと笑ったことも。
バハムートと戦ったことも。
何もない。
それでも。
黒野の言葉通りなら。
あれが。
自分へ繋がるはずだった命。
「私……」
生まれていなかった。
初めから。
黒野は。
嘘をついていなかった。
その事実が。
ルミナに否定された時より。
ずっと深く。
アルディアを刺した。
車のドアが開く。
コツ。
コツ。
雨の中。
ヒールの音が近づいてくる。
一人の女が降りてきた。
瑠美奈と。
よく似た顔。
けれど。
その表情は。
あまりにも違った。
歓喜。
憎悪。
妬み。
長い時間をかけて腐敗した感情が、笑顔という形で張り付いている。
「……誰?」
アルディアは。
その女を知らない。
だが。
瑠美奈は知っていた。
「……エナ?」
弱々しい声。
女は笑った。
「キャハハッ!」
アルディアの背筋に冷たいものが走る。
「ざまぁみろ、この泥棒猫!」
瑠美奈の。
妹。
双子。
天城影那。
俊樹は。
自分のものだった。
生まれた時から。
ずっと。
瑠美奈さえいなければ。
全部自分のものだった。
だから。
壊した。
姉も。
腹の中の子供も。
「……は?」
アルディアは。
理解できなかった。
魔王ではない。
神でもない。
世界を滅ぼす兵器でもない。
ただ。
一人の人間が。
憎かったから。
妬ましかったから。
それだけで。
「この人が……?」
未来を殺した。
「私を……?」
生まれる前に。
殺した。
「そんな理由で?」
影那の高笑いが。
六月の雨へ響く。
「死んじゃえ、お姉ちゃん」
瑠美奈は。
もう。
ほとんど動けない。
「……あんたも、そのお腹のガキも」
アルディアの中で。
何かが。
静かに切れた。
「ガキ……?」
手を伸ばす。
届かない。
「ふざけないで」
影那へ。
「ふざけないでよ!」
声は。
世界をすり抜ける。
「それは!」
叫ぶ。
「それは私よ!」
誰も振り向かない。
「私はここにいる!」
影那は嗤っている。
瑠美奈は泣いている。
俊樹は叫んでいる。
そして。
まだ生まれていない命だけが。
何も知らない。
何も選んでいない。
「私……」
アルディアの声が。
小さくなった。
「何もしてないじゃない」
まだ。
生まれてすらいない。
誰も傷つけていない。
誰も奪っていない。
戦ってもいない。
復讐もしていない。
なのに。
「何で……」
死ななければならなかったのか。
瑠美奈の意識が遠ざかっていく。
俊樹。
赤ちゃん。
ごめんね。
約束を守れなくて。
三人で歩きたかった。
幸せになりたかった。
最後まで。
彼女が願っていたのは。
それだけだった。
世界を支配することでも。
誰かへ復讐することでもない。
ただ。
愛する人と。
生まれてくる子供と。
生きたかった。
「……お母様」
今度は。
はっきりと。
アルディアは呼んだ。
魔王へ向けた言葉ではない。
目の前で死んでいく。
天城瑠美奈へ。
「お母様」
手を伸ばす。
触れない。
「私……」
言葉が詰まる。
何と言えばいいのか。
分からなかった。
会いたかった。
ずっと。
母親という存在を。
自分を知っている誰かを。
けれど。
この女性は。
自分を知らない。
知らなくて当然だった。
だって。
会う前に。
死んだのだから。
「私……ちゃんと」
声が震えた。
「生きたよ」
届かない。
「生まれなかったけど」
涙が。
存在しないはずの頬を流れた。
「ちゃんと……生きたよ」
父と会った。
仲間ができた。
笑った。
泣いた。
戦った。
負けた。
何度も。
何度も。
それでも。
「だから……」
瑠美奈の瞳が。
ゆっくりと閉じていく。
「謝らないで」
世界が暗転した。
【SYSTEM ALERT】
【Route "HAPPY WEDDING" Terminated】
【Reason:Murder by Subject "Ena Amagi"】
【Secondary Life Signal:Lost】
【Birth Record:Cancelled】
【Data Status:BAD END】
アルディアは。
その文字を見つめた。
【Birth Record:Cancelled】
「……勝手に」
拳を握る。
「勝手に決めないで」
暗闇の向こうで。
拍手が聞こえた。
ゆっくり。
楽しむように。
「Très bien……!」
聞き覚えのある声。
アルディアの表情が凍った。
黒野玲。
「美しいねぇ」
男は。
モニターの前に座っていた。
画面には。
今。
アルディアが見たばかりの惨劇が映っている。
「幸福の絶頂からの転落!」
嬉しそうに。
黒野は語る。
肉親が引き起こす悲劇。
愛。
嫉妬。
喪失。
BAD END。
その一つ一つを。
作品を批評するように。
楽しそうに。
「……見てたの?」
アルディアは呟いた。
黒野には聞こえない。
これは。
過去の記録。
「全部……見てたの?」
母親が死ぬところを。
自分へ繋がる命が消えるところを。
この男は。
最初から。
見ていた。
助けられなかったのではない。
助けなかった。
それどころか。
「美しい……?」
アルディアの声が低くなる。
黒野は。
画面を操作する。
【SAVE】
【ARCHIVE】
一瞬。
迷うようなカーソル。
そして。
【MOVE TO TRASH】
「……え?」
クリック。
あまりにも。
軽い音だった。
【Save Data 01】
【Route:HAPPY WEDDING】
【Status:BAD END】
【Moving……】
アルディアのいる暗闇。
その遥か上方で。
何かが光った。
小さな星。
いや。
ファイル。
今まで見ていた世界そのものが。
暗闇へ落ちてくる。
「……これ」
アルディアは見上げた。
自分へ向かって。
落ちてくる。
六月の雨。
紫陽花。
白い教会。
俊樹の笑顔。
瑠美奈の涙。
まだ生まれていない命。
全部を内包したまま。
一つの光になって。
Trash Boxへ。
「……ここに」
アルディアは。
ようやく理解した。
これは。
映像ではない。
過去を見せられているのでもない。
「ここに捨てたんだ」
黒野が。
あの世界を。
ここへ。
捨てた。
光が。
アルディアの目の前へ落ちた。
音はしなかった。
壊れもしなかった。
ただ。
暗闇の中へ。
静かに浮かんだ。
【Save Data 01】
手を伸ばす。
今度は。
触れられた。
指先へ。
微かな温度が伝わる。
六月の。
暖かな雨。
「……温かい」
削除された世界。
終わった人生。
生まれなかった命。
それなのに。
温かい。
「消えてない」
アルディアは。
もう一度。
同じ言葉を口にした。
今度は。
確信を持って。
「消えてないじゃない」
黒野は。
捨てただけだ。
世界を。
失敗作として。
不要なデータとして。
ゴミ箱へ。
けれど。
ここにはある。
なら。
そこに生きていた人たちも。
笑った時間も。
愛した記憶も。
「……私も?」
指先に。
小さなノイズが走った。
【Residual Data:N】
アルディアは。
その文字を見る。
先ほどまで。
侮辱にしか見えなかった記号。
名前を失った。
自分の残骸。
けれど。
もし。
捨てられたものが。
消えたものではないのなら。
「私も……まだ」
言いかけた瞬間。
別の場所で。
光が灯った。
【Save Data 03】
そして。
もう一つ。
【Save Data 04】
さらに。
奥。
【Save Data 01.5】
一つ。
また一つ。
暗闇に。
無数の光が浮かび上がる。
アルディアは。
息を呑んだ。
Save Data 01だけではない。
「……全部?」
光は。
遥か彼方まで続いている。
黒野が。
選ばなかった世界。
捨てた人生。
終わらせた可能性。
そのすべてが。
ここにある。
「黒野……」
アルディアは。
無数の光を見つめた。
そして。
初めて。
気づいた。
Trash Boxとは。
何なのか。
ここは。
死者の墓ではない。
失敗した世界の墓場ですらない。
ここにあるのは。
誰かに。
「いらない」と決められたもの。
その次の瞬間。
【Save Data 03】
ひときわ明るく。
一つの光が。
点灯した。
【Loading……】
聞こえてきたのは。
笑い声だった。
泣き声でも。
断末魔でもない。
子供の。
とても楽しそうな。
笑い声。
アルディアは。
ゆっくりと。
その光へ振り向いた。
【幕間:Save Data 03】
【The Toy Box】
世界は。
驚くほど。
平和だった。




