ライラックは手中で咲く
「お嬢様は、わたくしが"ハリエット伯爵夫人"と呼ばれる以前のことをご存じでしょうか」
対面の席に座して問うカトリーヌの視線は、私ではなく机の上。
けれどそれは私への嫌悪ゆえではなく、彼女が遡っているだろう過去に準じた仕方のない仕草なのだと納得できるのは、今の私はカトリーヌの過去を調べ、大まかながら知っているから。
カトリーヌが生まれたオルコット伯爵家は、彼女が七歳の時に没落した。
「父と母は周囲の目に耐えきれず、他国へ渡りました。しかしながら、わたくしは両親と別れ、幼い頃より婚姻を定められていたハリエット伯爵家に引き取られました。善意もあったのでしょうが、主たる理由はご長男であらせられるヴィンス様を"確実に"結婚させるためだったのでしょう。ヴィンス様は当時十七でしたが、既に社交界では無類の女性好きとして名を馳せておりましたから」
(当時のハリエット伯爵家も、そこまで裕福だったというわけでもなかったようだし。"遊び人"と婚姻となると、嫌がる女性が大多数でしょうね)
カトリーヌの容姿は、幼い頃から美しかったでしょうし。
引き取られた恩義を返すためにと、夫の不貞には目をつぶりよき"妻"に徹する、都合の良い未来の奥方を得たも同然だったということ。
「ヴィンス様の婚約者として、わたくしは多くの教育を受けました。淑女としてのマナーレッスンはもちろん、領地や屋敷の管理の仕方から、この国の歴史といった学問まで。不在がちなヴィンス様の代わりを担えるようにと、当主としての仕事も覚える必要がありました。自由と呼べるのは、眠っている間に見る夢の中だけ。そんなある日ふと、考えてしまったのです。もっと地位の高い、資金のある家に生まれていれば、美しいドレスで手入れのされた庭園を歩き、温かな紅茶を楽しむ日々だったのだろうかと」
「……」
「それでも生まれが"貴族"だったからこそ、恵まれていたのは理解できていました。没落した家の、他の令嬢方に比べたら、恨まれてもおかしくないほどに幸運だったことも。それでも苦労なくきらびやかに笑い合うご令嬢方を目にしては羨み、己の境遇を悲観してしまったのです。……"レディー・ライラック"の名は、そんなわたくしの血と涙の上に築かれた、やっとのことで手に入れた地位。生まれながら与えられた幸運を享受してきただけの"ご令嬢"とは、そもそもが違う。その矜持が、買われた没落令嬢だと囁く者たちへの、精一杯の鎧だったのです」
(――やっぱりね)
私は納得の心地で、「カトリーヌ夫人」と口を開く。
「夫人が私を受け入れてくださらなかったのは、私が生まれながらにして"ロレンツ公爵令嬢"だったからなのですね」
伏せられていた瞳が、決意を込めたようにして私に向く。
「その通りです。生まれながらロレンツ公爵家というこの国における非常に高貴な地位を手に入れ、さらには聖女と皇妃の候補者。それだけでも羨むほどの幸運だというのに、社交界で囁かれるようになった噂では、とんだ"悪女"だと。望むほどに自由を許され、それを存分に謳歌し、あらゆる他者を当然に見下し服従させる。あまりの傍若無人さに、とうとう家族にも見放されたというのが、"ロレンツ公爵令嬢"の名に含まれた評判でした」
(まあ、間違ってはいないのよね)
一度目の記憶を持ち"戻ってきた"あの日まで、確かに私は幼いながら、噂通りの"悪女"だった。
いくらデビュー前だからといっても、いえ、デビュー前だからこそ、退屈した"社交界"では噂がよく回るものね。
(だからこそアメリアは同年代のご令嬢を味方につけたかったのだろうし、私はそれを奪い続けているのだけれど)
カトリーヌは「ですが」と続け、
「ルベルト殿下の生誕を祝するパーティーで目にしたお嬢様は、噂とはどうにも異なっているように思えました。ですが、場が場でしたから。うまく取り繕っているだけで、本質は変わらないのだと、そう信じておりました。それはお嬢様の講義を請け負うようになってからも。違和感を覚えながら、どうしても受け入れられなかったのです。……真実のお嬢様は身分に拘ることなく"友"と呼び、よく学んだ知識を生かし手を差し伸べ、過ちをおかし続けたわたくしにも寛大な慈悲を与えてくださる、素晴らしいお方でしたのに。わたくしの愚かな矜持で、深く傷つけてしまいました」
大変、申し訳ありません、と。
深々と頭を下げるカトリーヌに、思わず口角が上がってしまいそうになるけれど。
「謝罪を受け入れます、カトリーヌ夫人」
あくまで穏やかに、慈しみを持った微笑みを携え、
「ですのでどうか、これからは私を"聖女候補のロレンツ公爵令嬢"ではなく、夫人に憧れる教え子の"ミーシャ"として接してはいただけませんでしょうか」
「! なりません、お嬢様。わたくしはもはや、お嬢様を指導する資格のない人間です。この後、講師の変更を殿下に願い出ますので、きちんと新しい方を師と――」
「いいえ。私はカトリーヌ夫人でなくては嫌ですわ」
立ち上がった私は困惑するカトリーヌへと歩を進め、その手を両手で包み込む。
「夫人の耳にした"噂"も、全てが嘘というわけではなりません。ですが私は変わろうと決意し、今日まで出来る限りの努力をしてきました。その中で目指すべき"淑女"として憧れたのは、他でもないカトリーヌ夫人です。その気持ちは今でも変わりません。恥ずかしいので内緒にしていようと思っていましたが、先ほどの"ベルリール"の支援をしようと決意できたのも、夫人のおかげなのです。夫人がハリエット伯爵領を整備し、傾きかけていた伯爵家を立て直した話は爽快でした。"レディー"でも知恵を武器とし、指導力を持って良いのだと。そう教えてくれたのは、紛れもないカトリーヌ夫人なのです」
「お嬢様……っ」
「ですからどうか、講師を変わるだなんて悲しいことをおっしゃらないでください。誤解が解けたなら、それで充分ですわ。どうか私の憧れと喜びを、他でもないカトリーヌ夫人が奪い去らないでください」
心から願うようにして見つめ続けると、カトリーヌは静かに目を閉じた。
拍子に涙がぱたりと零れ落ちる。
「もう一度、お嬢様の良き師となれるよう努力することを、お許しいただけますか」
「ええ。親しみを込めて"ミーシャ"と呼んでくださるのなら、ぜひとも」
夫人が驚いたようにして私を見る。
それから苦笑気味に「お嬢様は少々、お優しすぎますね」と告げてから、
「改めて、よろしくお願いいたします。ミーシャ」
ここまでお付き合いくださり、ありがとうございます!
気に入りましたら、ブックマークや下部の☆→★にて応援頂けますと励みになります!




