9. 心労
どれくらいの時間が経ったのだろうか。
額に感じる冷たい感覚に微睡んだ意識がはっきりとしてきた。
見慣れたベッドが視界に入り、レティが冷水に浸したタオルを交換したところだったようで目が合う。
「ご気分はいかがですか?」
「問題ないよ。」
「それは良かったです。魔王様が心配されていましたよ。」
彼女の言葉に猛獣の姿の彼がフラッシュバックし、身体が恐怖で動かなくなる感覚に襲われる。
魔王と聞いていた時点である程度予想できたはずだと自分に言い聞かせてみるが、どうすることもできない。
ソフィアのその姿に気付いているレティだが何を言うつもりもないようで、ルシフェルを呼びに行くことを彼女へと伝えると部屋を後にした。
誰も居ない静かな空間に早くなった心臓の鼓動がやけに煩く聞こえる。
落ち着かせようと自分の身体を包み込むように丸くしてみるが、効果はあまりないようだ。
しばらくそうしていると窓の方から鳩の声が聞こえてくる。
潜り込んでいたブランケットから顔を出し、視線を向けると手紙を身に付け取ってくれるのを待っているようだ。
それに促されるようにベッドから出ると鳩から手紙を受け取る。
流れるような綺麗な字でソフィへと書かれたそれはエリスからであることはすぐに理解できた。
そっと開いてみると中から出てきたのは押し花にされた南国の花であるハイビスカスで手紙からはふんわりとアロマのような香りが漂ってくる。
お洒落なそれに癒されながら内容を確認してみると彼がここへ迎えに来るというものでまさかと視線を窓へと移せば手を振っている存在。
遠目でもわかる見目に魔王である彼に見つかっては大事になるとネグリジェ姿のことも忘れて部屋を飛び出した。
「エリス王子!」
「おはよう、ソフィ。今日もとても素敵だね。」
「どうしてここに?ルシフェル様に見つかったら…。」
「俺が何だって?」
後ろから聞こえた声に背筋が凍る。
振り返りたくないと拒否する身体を無視して視線を向ければ、無表情のルシフェルが仁王立ちしていた。
「貴方が魔王ルシフェルだね。」
「ルシフェル様だ。下等生物に呼び捨てされる筋合いはない。」
「貴方を敬うつもりはないから様を付ける気はないよ。それに、君が連絡してきたんだ。その態度はいただけないね。」
「ルシフェル様が連絡を…?」
「…。」
「ソフィの心は今休息が必要だからね。南国であるティンガでゆっくり過ごすのが良いと思うよ。」
「休息?ティンガ国で過ごす…?」
いきなりのことで何がなんだか理解できていないソフィアはルシフェルとエリスを交互に見ながら状況把握をしようとしている。
彼女はまだ気づいていないが倒れたあの日から1週間。
眠り続けていたのだ。
そんな姿を見たルシフェルは人間の医者を片っ端から攫っては原因を突き止めさせるべくソフィアを診させ、診断結果は心因性による昏睡状態で。
目を覚ましたらすぐにでも心に負担が掛かる原因を取り除くよう指示されていた。
即ち魔王である自分と離れるということ。
そんなこと考えたくもなかったが、これ以上負荷を掛ければ2度と目を覚まさないなんてことにもなりかねないと言われれば選択の余地はない。
本来であれば彼女の両親の所へ返すというのが筋なのかもしれないが、彼女はレオンハルトに関わる全ての人間に対して気を使い過ぎてしまうところがある。
それに自分のこと以外にも断罪と婚約破棄という心労も重なって今回の事が起きたことは言うまでもなく、王子を思い出させる場所に行くことは休息にはならないとエリスへ連絡したのだ。
正直、今は一番頼りたくない相手だったが背に腹は代えられない。
相当焦ってきたのだろう。
寝ぐせもそのままなネグリジェ姿の彼女を抱き寄せるエリスから奪いたい気持ちを抑えながらその瞳を細める。
「…ソフィア、その姿で外にいると風邪を引いてしまう。」
「心配は無用だよ。馬車の中は暖かいからね。このままティンガへ向かおう。」
ルシフェルの言葉に彼はそう答えると裸足のままだった彼女を抱き上げ、軽く頭を下げると馬車へと乗り込んでいった。
愛しい存在であるソフィアが遠くに行ってしまうのにも関わらずそれをただ見送ることしかできない自分の情けなさ反吐が出る。
血が流れる程強く拳を握りながら遠ざかっていく馬車をいつまでも見送り続けるのだった。