エピローグ
木々の隙間から見える茶色の屋根の上空が、温かな色に染まり始めている。気温は反対に少し下がり、ひんやりとした風が湖面に細かな波を立てながら吹いてきた。
ユーリウスは馬のいない馬車の手綱を引いて、小道の脇に止めた。
「このあたり?」
大きな花束を両手で抱えたティルアが、樹齢数百年のオークの大樹の前に立った。
そこに、姿は見えないが、身代わりのおくるみを抱いたティルアの母親が座っている。
彼女は長い間、夫の書いた告発状を守りながら、湖の向こうに見える孤児院に託した我が子を見守っていたのだ。
「もうちょっと前のほうがいいかな」
彼の指示で一歩前に出てから、地面の上にそっと花束を置く。
大輪の薔薇や百合、蘭の花を集めた白い大きな花束は、事情を知った国王から贈られた。その豪華な花々の中で独特の存在感を示す黄色い水仙と赤いチューリップは、ティルアが自分の小遣いで買い求めて加えたものだ。
「デイレ!」
ティルアが呪文を唱えると、目の前の花束がふっと消えた。
今は、母親のすぐ目の前に置かれているはずだ。
「あんたのその魔力に嫉妬するよ」
林檎丸ごとどころか、あれほど大きな花束を難なく消去したティルアに、そうぼやいた後、ユーリウスは手にしていた一本の白い薔薇を消去した。それから、緑の枝が消えた手をぎゅっと握りしめる。
「よし、決めた! 俺はこれからもっと修行して、人体を消去できるほどの魔力を身につける!」
「どうしたの? 急に……」
突然の宣言に、ティルアは目をぱちくりさせる。
「そうしたら、あんたの母さんを向こうの世界から消去して、こっちの世界に戻してあげられるだろう? もう、あの孤児院にあんたはいないんだから、こんな場所に一人でいるのはかわいそうだ。ここから出して、ちゃんとしたお墓を作ってあげよう」
「え……? 本当に?」
「ああ。いつになるか分からないけどな」
「ありがとう、ユーリ!」
本当に可能なのかは分からないが、そんな風に思ってくれることが嬉しくて、思わず彼の手を両手で握りしめた。
「…………あれ?」
彼に触れた感触があった。
当たり前のことなのに、なんだか不思議な気がして、彼の存在を確かめようと、ぺたぺたと彼の二の腕から肩ヘと触れていく。
「な、なんだよ。やめろよ……触るな!」
「ああ、よかった。やっぱり、こっち側にいるんだね」
「くそ……触るなって言ってるのに」
ティルアが笑顔を向けると、彼は苦しげに呟く。しかしその腕は、その言葉とは全く反対に動いた。
「ひゃ……」
ぐいと腰が引き寄せられたかと思うと、身体が軋むほどに強く抱きしめられた。
「ちょ……っと、ユー…………!」
驚いて彼の腕の中でもがくと、柔らかなもので唇を塞がれ、息が詰まる。
「ん……んんっ……」
「これでよく分かっただろ! 俺がこっちにいるんだって!」
そう言ってティルアをぱっと解放すると、彼は不機嫌な顔をしてそっぽを向いた。
「え……? ええええーっ?」
一体何が起こったのか分からない。
……いや、分かる。けど、分からない。
彼が触れた唇にも、腕が絡み付いた背中や腰にも、強烈に彼の存在が刻み込まれていた。心臓の鼓動が速すぎて息苦しい。沈黙がいたたまれない。
そっと上目遣いに様子を探ってみたが、彼はずっとそっぽを向いたままだ。
こんなことをして、知らん顔するなんてひどい!
かといって、自分から話しかける勇気が持てずに、恨めしい気分で彼の横顔を睨んでいると、湖を見つめたままの彼がふと口を開いた。
「さっさと帰るぞ。あんたは今晩から猛勉強だ」
「へ?」
予想外の言葉に、ティルアは間抜けな言葉を返す。
「フリーデル・クラッセンはこの秋、魔法統括省に入省する。それは、未来の事実だ。あんたは、残り半年を切った今から、七年分の勉強をするんだよ」
「う……そ。そんなの無理に決まってるじゃない」
「俺がついているし、クリスタのノートもあるから、なんとかなるはずだ。あんたは、俺と一緒に卒業して、俺と一緒に魔法統括省に入る。それはもう決まった未来なんだ。だから……ほら、行くぞ」
ちらりと振り向いた彼は、左手をすっと差し出した。
「え……と?」
目の前の上を向いた掌に躊躇していると、「ん!」と顎をしゃくってせかしてくる。
相変わらずの傲慢な態度だが、彼の顔は耳まで真っ赤で、普段は強気な緑の瞳には不安が見え隠れする。
ふふふ……。
くすぐったい思いで、彼の手に自分の手を重ねると、ぎゅっと握られた。
同じ場所にいる。同じ場所へと向かう。
そしてきっと、この先ずっと同じ時間を過ごしていくのだ。
繋いだ手の感触と温もりで互いの存在を確かめ合いながら、二人はゆっくりと歩き出す。
『——フリーデル』
ふと振り向くと、オークの大樹の下に、白い花束を抱えて優しく微笑む若い女性の姿が見えた気がした。
了