(2)
学院の正門を出てから二時間近く歩き続け、ティルアはようやく小さな町の商店街に到着した。いつもより早い時間だったため、開店しているお店はまばらで人気も少ない。
前回はキャンディをたくさん買った。その前はクッキー。しばらくお菓子が続いていたので、今回は絵本を買おうと決めていた。
商店街の中程にあるお目当ての書店は、ちょうど店主が看板を掲げたところだった。
「おじさん。おはようございます」
「ああ、ティルア、おはよう。久しぶりだね。今日はウチの番かい?」
白い口ひげの店主は顔を綻ばせると、入り口の扉を大きく開け、店内に導き入れてくれた。
古本も扱う小さな書店は、埃っぽさの中にインクの香りが混ざる静かな空間だ。本が傷まないよう、日光がほとんど入らない造りになっているから薄暗い。
ティルアは迷うことなく、子ども向けの絵本が置かれた一角に向かった。
本棚に立てられた絵本の背表紙を指でなぞりながら見ていくと、この国でよく知られた童話を見つけた。
「あ……。この本」
孤児院時代、幼い頃は年長の子どもたちに読んでもらい、成長してからは自分が幼い子どもたちに読み聞かせてあげた本だ。懐かしさに棚から引き出し、その表紙に息を飲む。
「こんなに、きれいな表紙だったんだ……」
主人公の少年も、悪い魔術師も、動物たちも、薄暗い中でもはっきりと分かるほど色鮮やかに描かれていた。
孤児院にあった絵本は、あちこち破れ、表紙はすっかり色あせてぼんやりしていた。ティルアが孤児院を出てからかなり年数が経っているから、あの本は今ではもっと酷い状態になっているだろう。
「よし、決めた!」
これ以上に価値のある絵本はないだろうと、ほくほく気分で本を閉じる。しかし、裏表紙に書かれている値段を確認してぎょっとした。
どうしよう。この一冊で、ほとんどのお金を使い切ってしまう……。
三冊ぐらい買うつもりでいたから、絵本の値段をじっと見つめたまま悩んでいると、店主が近づいてきた。
「その本なら、中古もあるがね?」
しかし、そう言われて決心した。孤児院時代は服も絵本も玩具も、何もかもがお下がりの古ぼけたものだったから、新しいものに憧れていたのだ。中古ではダメだ。
「ううん。新しい本がいいの。だから、これにする」
「そうかい。じゃあ、これはおじさんからキーリッツのみんなに」
そう言って店主は、同じ棚から薄い絵本を一冊取り出して、ティルアの持っている本の上に置いてくれた。
「いいの? 嬉しい! おじさん、ありがとう」
ティルアは絵本をぎゅっと胸に抱いた。ポケットは軽くなってしまうが、絵本の重みが嬉しい。ふわりと感じる新品のインクの香りが、くすぐったい。
「あの……この本、届けてもらえますか?」
「ああ、もちろんさ。きれいに包んでリボンをかけてあげよう」
「あたしからだって、言わないでね」
魔術学院に入ったばかりの頃は、お土産のお菓子や絵本を持って、孤児院に顔を出していた。しかし、最初の留年が決まって以降は、一度も孤児院の門をくぐることがなかった。
奇跡のような成績で選抜試験に合格したティルアを、院長や面倒を見てくれたシスター、仲間たちは自分のことのように喜んでくれた。だから、これほど派手に落ちこぼれてしまったことが後ろめたいのだ。
「分かってるよ」
店主は絵本を受け取ると、ティルアの肩をぽんぽんと叩いた。
孤児院の近くにあるこの商店街の人々も、ティルアの落ちこぼれっぷりは噂で聞いているはずだ。けれども、何も言わずに孤児院への届け物を引き受けてくれることが、ありがたかった。
書店を出てから、近くのパン屋で焼きたてのプレッツェルを一個買う。これでポケットのお金はほとんどなくなってしまった。朝食を食べずに長距離を歩いてきたので腹ぺこだったが、ぐっと我慢して、商店街の横道に入り、裏手に広がる住宅地を通り抜け、広葉樹の林に囲まれた湖に出る。
ティルアは湖をぐるりと囲む小道を少し歩き、樹齢数百年にもなるであろうオークの根元まで来ると立ち止まった。
ここはティルアのお気に入りの場所。孤児院へのプレゼントを買いに来た時は、必ずここで休憩することにしていた。
空を覆うように広がる枝を見上げると、柔らかな緑の若葉に透けた春の日差しが降ってくる。水面を渡って吹く、冷んやりとした風が心地よい。ティルアは、顔にかかる髪を大きくかきあげながら、湖の向こう岸に視線を向けた。
木々の隙間から、茶色の屋根の古い建物が見える。ティルアが十年近く暮らした、キーリッツ孤児院だ。小道を歩けばすぐにたどり着ける、自分の家ともいえる懐かしいその場所が、今はひどく遠く感じる。
「あの絵本、みんな喜んでくれるかな」
感傷に沈みそうになる心を、色鮮やかな絵本の表紙を思い出すことで立て直し、オークの根元に腰を下ろした。ごつごつとした幹に背中を預け、プレッツェルが入った紙袋を開くと、香ばしい香りに刺激されて、お腹がぐうと鳴った。
早速中身を取り出し、たっぷりまぶされた塩を落としてかじりつく。ほんのり残った塩味が美味しくて、思わずほうとため息をついた、そのとき。
『ティルアっ!』
聞き慣れた声に、視線を向ける。こんな場所にいるはずのない人物の姿にぎょっとして、口いっぱいに頬張ったプレッツェルが喉に詰まった。
「むぐっ……くっ。ユーリ? な、なんで?」
『早く、そこから離れろ!』
胸をどんどんと叩きながらの質問に、彼は答えない。血相を変えて走ってくる。
彼がここにいるということは、きっと、こっそり後をつけてきたのだ。これまでの自分の行動を見られていたのだと思うと、急に丸裸にされたかのように恥ずかしくなり、同時にひどく腹立たしくなった。
「まさか、わたしの後をつけてきたの? なんでそんなことするの!」
『聞こえないのか! 早くどけよっ!』
「なんて悪趣味なのよ! 人の秘密をこそこそ覗き見るなんて、最低!」
頭にかっと血が上がり、次々と自分の口から飛び出してくる罵り声にも遮られて、彼が何を叫んでいるのか耳に入らなかった。
ユーリウスの方も、ティルアの声が聞こえていないのか、焦った様子のまま、真っすぐに突っ込んでくる。
『どけって言ってるだろ!』
「やだっ! なんなの!」
彼が触れられないことは分かっているのに、彼が伸ばした手を避けようと、ティルアはとっさに身をよじった。
『わっ! 馬鹿! そっちじゃない!』
逃げるティルアに合わせて方向を変えた彼の手が、顔面に迫ってくる。
「きゃああああ!」
しかし、彼の掌に塞がれた視界は次の瞬間には開け、その直後、必死な形相の彼の顔が大写しになった。
ぶつかる——。
『うわぁああっ!』
なんの衝撃も、痛みもない。ただ、彼が自分をすり抜けながら叫んだ悲鳴が直接頭の真ん中で響き、耳の奥がぐわんぐわんした。
やがて、風が木の葉を揺する微かな音が聞こえてきて、恐る恐る目を開く。
彼の一方の足が左胸から、もう一方が腹から突き出しているとんでもない光景に、また悲鳴を上げそうになり、慌てて立ち上がった。
「あーっ!」
気付くと、手に持っていたはずのプレッツェルがない。慌てて辺りを見回すと、少し離れた地面に、土にまみれて転がっていた。
「そんなぁ……。まだ、一口しか食べていなかったのに……」
口の中に残る香ばしい風味が、空腹感をいっそう増幅させる。もう食べられないのだと思えば、なおさらだ。
ティルアは、大木に上半身を突っ込んだままじたばたしているユーリウスを、恨めしい思いで睨みつけた。
「ねえっ! ユーリのせいで、あたしのプレッツェルが台無しになっちゃったじゃない!」
『ごめんなさい。ごめんなさい。こんなつもりじゃなかったんです』
全く彼らしくない、奇妙ほどに丁寧な謝罪の言葉に、耳を疑った。
「……は? どうしたの? 気味が悪いわね」
『うわっ……。すみません。今すぐ、助けます』
どうやら、自分に対しての謝罪ではなさそうだ。