(3)
「どういうこと?」
ティルアが首をひねっていると、ユーリウスの叫び声が聞こえてきた。
『う……わあぁぁぁぁっ!』
「ち、ちょっとユーリ。どうしたの。何があったの」
『まさか……そんな』
ユーリウスの手足や背中が、ちらちらと太い木の幹からのぞいては隠れる。しばらくして、何か大きなものを両腕で引きずるような格好で、木の中から彼が現れた。
「何をやってるの?」
彼の動きをじっと観察していると、彼はしきりに『ごめんなさい』と呟きながら、引きずってきたものを、木の根元に座らせた——ように見えた。
「そっちに、誰かいるの?」
直感を疑問の形で口にすると、自分の目には全く見えない誰かの輪郭が、彼の手の動きによって見え始める。
今の彼は、誰かの肩を、前方から支えている。その身体はかなりぐらついていて、倒れないように慎重にバランスを取っているようだ。どうやら、その相手には意識がないらしい。気を失っているのか、眠っているのか、あるいは……。
胸のネックレスを握りしめて気持ちを落ち着かせながら、息を詰めて見守っていると、ようやくユーリウスが立ち上がった。
『本当に、ごめんなさい。今、赤ちゃんも……戻します……』
「赤ちゃん?」
この上、さらに赤ん坊までいるのか。
驚きで固まったまま、目だけでユーリウスの動きを追うと、彼は隣の木の根もとに屈み込んで何かを抱き上げた。その手つきから推測するに、それはおくるみに包まれた小さな赤ん坊。
しかし、大事そうに抱えた彼の腕が、突然、ぞんざいに揺れる。
『違う……なんだこれ』
彼は自分の腕の中を覗き込んで、驚きの表情を見せた。そして、首をひねりながら元の大木の根元に戻ってくると、腕に抱えたものを、見えない誰かの胸に抱かせた。
その時、何かを落としたらしく、足元からそれを拾い上げる。彼の手の動きから考えると、封筒に入った手紙のようなものだ。中身を取り出し、二つ折りになっているらしい紙のようなものを広げる。そして中身を一目見るなり、彼は肩をびくりと震わせた。
『う、そ……だろ……。フリーデル・クラッセンだって!』
「え?」
彼が叫んだ思いがけない名前に、ティルアはぎょっとした。
それは、彼が時計塔の近くで拾った紙に書かれていた、謎の名前と同じだった。
『そうか……そういうことか。フリーデル・クラッセンは、あのクラッセンの……』
手元を見つめてぶつぶつ呟く彼には、何か、思い当たるものがあったらしい。
しかし、ティルアには何が起こっているのか全く分からない。
「ああっ、もう! 分からなくてイライラするっ。ユーリ、そっちに誰かいるの? フリーデル・クラッセンがどうかしたの?」
彼は封筒の中を覗き込み、指先で何か小さな物を取り出した。そして、『間違いない』と納得したように頷いてから、ようやくティルアに顔を向けた。
『ここに、おくるみを抱いた若い女の人がいるんだ』
「やっぱり、誰かいたんだ」
『あんたが、素知らぬ顔で彼女の隣に座ったから、最初は知り合いなのかと思ったんだけど、よく見たら彼女、血だらけで……』
「ええっ! ……だから、あたしにここから離れろって言ったの?」
『そう。彼女があまりにも酷い状態だったから、危険があるのかもしれないって、思ったんだ』
ちらりと大木の根元に向けた彼の目が、痛ましそうに細められた。
『彼女は亡くなっている。多分、誰かに殺されたんだ。まだ、ほんのり体温があるし、血も乾き切っていないから、息を引き取った直後に消去されたんだろう』
「消去って……まさか!」
『そうじゃなきゃ、こっち側にいないだろう? 彼女にぶつかるまでは、そんなこと、思いもしなかったけど』
ユーリウスがいるのは、誰かに消去されたものしか存在しない世界。ティルアからは見えないのに、彼が見て触れることができるのは、彼と同じ側にあるということだ。
彼はティルアの消去呪文の事故で、あちら側に行ってしまったが、普通、その呪文で消去できる最大の大きさは林檎程度だとされている。
「じゃあ、人体のような大きなものを消去できる人物が、いるっていうこと?」
『そういうことだな』
「一体、誰が……」
ユーリウスはその質問には答えずに、人差し指と親指で何かを摘んだ形の手を伸ばしてきた。
『これを見て。デイレ!』
ティルアが慌てて彼の手の下に両手を差し出すと、彼の指からはらりと落ちてきたのは、やはり封筒だった。
どきどきしながら、封筒から紙を取り出すと、二つ折りにされた小さな紙の中央に書かれていたのは、たった一行。右上に跳ねる癖のある文字で綴られた、フリーデル・クラッセンという名だった。
「どうして、この名前が……」
『封筒の中をよく見ろよ。中に、髪の毛の束が入っているだろう?』
「うん」
ティルアは緑色の糸で端を束ねた髪を取り出し、掌に乗せた。赤ん坊のものらしく、ふわふわと柔らかな細く短い髪の毛だ。細すぎて分かりづらいが、茶色か黒かの暗い色をしている。
名前を書いた紙と、髪の毛の束。この組み合わせは、さっき購入した絵本の中にも登場する有名な魔術を連想させる。実際には、使える人はほとんどいないとされている幻の術だ。
「……もしかして、身代わり魔術?」
『おそらくね』
「赤ん坊のフリーデル・クラッセンの身代わりを作ったってこと?」
『ああ。さすがに今は、術が解けてしまって、毛布の塊になっているけど』
「じゃあ彼女を殺した犯人は、人間の遺体の消去ができて、身代わり魔術が使える、とんでもない力を持った魔術師ってことになるわよね」
『いや、違う。二つの魔術を使ったのは、おそらく同じ魔術師だけど、彼……フリードリヒ・クラッセンはこの女性を殺した犯人じゃない』
「フリードリヒ? ユーリはその人を知ってるの?」
初めて耳にする名前にきょとんとなる。その名をユーリウスが知っていることも驚きだ。
しかし、彼の方も驚いたような顔をした。
『はぁ? あんた、あのフリードリヒ・クラッセンを知らないのかよ! 近代魔術史の授業で習っただろう?』
「近代魔術史は高学年じゃないと習わないでしょ? あたしはずっと一年生だから、そんな歴史上の人物のことを知ってるはずないじゃない」
馬鹿にしたような言葉に堂々と反論してみせると、彼は顔をしかめた。
『このっ、落ちこぼれめ! その年で知らない方がおかしいんだよ。いいか、フリードリヒ・クラッセンっていうのは、先代の国王を毒殺した魔術師なんだ』
「え? 待ってよ。先代の国王って確か病死だったんじゃ……」
先代の国王が急死したのは、今から十七年前だ。国王の死は国民には病死と発表されており、ティルアも一般常識としてそう記憶していた。
しかし、この国のエリートである王立上級魔術学院の生徒には、上級生になると、歴史の裏側も教えられるのだ。
魔術統括省の官僚であったフリードリヒ・クラッセンは、誰にも使えない高等魔術を軽々と操る希代の魔術師として名を馳せ、国王からの信頼も厚く、いずれは大臣となるだろうと噂された人物だった。しかし、思うようにその座を得られないことを不満に思い、密かに開発した魔術薬で国王を毒殺した。当初は毒物が全く検出されなかったことから、国王の死は病死と発表されたが、魔術統括省の調査でフリードリヒの罪が発覚した。彼は逃亡の末に捕らえられ、極刑に処せられた。
『教科書に書いてあったのはこの程度。でも、近代魔術史のレルナー先生は、教科書に書いていないことも教えてくれたんだ。その話と、この状況は一致している』
「どんな風に?」
『フリードリヒは、若い妻と生まれたばかりの子どもを連れて逃亡を図った。しかし、追っ手が迫り危機に陥った彼は、足手まといになった妻と子どもを殺害し、二人の亡骸を消去したとされている』
「殺害……って、そんな、酷い!」
『でも、レルナー先生は、そんなことはありえないって言っていたよ。正義感の強い彼が、国王を毒殺するはずも、妻子を殺害するはずもないって。教科書に書いてあるから教えなきゃならないが、自分は彼の無実を信じていると。……先生と彼は、魔術学院の同級生だったそうだ』
ユーリウスの説明に、こわばったティルアの肩から少し力が抜けた。
「でも、フリードリヒって人が犯人じゃないのなら、どうして、こんなことになったんだろう? 少なくとも、奥さんを消去したのはその人でしょ?」
『ああ、そうだろうな。だけど、身代わり魔術を使っているんだから、少なくとも彼は息子を殺していない。それに、彼女……フリードリヒの妻は、惨い状態なのに穏やかで満足そうな笑みを浮かべているんだ。だから彼女も、夫に殺されたんじゃないと思う』
「きっと、そうね。そうだといいわ」
ティルアは紙に書かれた名前をじっと見つめた。
この名の持ち主が生き延びたのなら、自分と同じぐらいの年頃だ。赤ん坊の頃に独りぼっちになってしまった彼は、今、どこでどう暮らしているのだろう。
ユーリウスがポケットから何かを取り出し、広げるような動きを見せた。おそらく、時計塔の近くで拾った紙だろう。そこに羅列された名前のいちばん上にも、同じ名前が書かれている。
「もし、フリーデル・クラッセンが生きていたとしたら、十七、八歳よね?」
『国王の暗殺事件が起きたのが十七年前だから、そういうことになるな』
「年齢だけで考えれば、入省者名簿のいちばん上に名前があっても、おかしくないよね。そんなすごい魔術師が父親なら、成績も良さそうだし」
これは一体、どういう繋がりなのだろう。ただの偶然とは、とても思えない。やはり、この人物は魔術学院に在籍しているのだろうか。
『くそっ、なんだよ。何が起きてるんだ』
「やっぱり、学院にいるのかしら? 名前を偽って」
『よし、すぐに戻って調べてみよう。父親のフリードリヒは魔術学院の卒業生だから、レルナー先生の他にも彼を知っている先生がいるはず。手がかりがみつかるかもしれない』
「あ、待って!」
さっさと歩き出した彼を慌てて呼び止め、手にしていた紙を畳み直すと封筒に戻した。
「これを、お母さんに返してあげて」
中には赤ん坊の髪も入っている。これはきっと、母親にとって大切なもののはずだ。身代わりとはいえ、何年も胸に抱いていた子どもの分身と引き離すのは、かわいそうな気がした。
『ほら、行くぞ』
母親が抱いているらしいおくるみの中に封筒を押し込んで、彼は今度こそ歩き出す。その足が、地面に転がっている食べかけのプレッツェルを踏みつけた。といっても、プレッツェルはその形を保ったままだが。
「待って!」
『今度はなんだよ』
不機嫌そうに振り向いた彼の足元を、ティルアは指で指し示した。
「それ、まだ一口しか食べてなかったのに、ユーリがぶつかってきたせいで落としちゃったの。すっごく腹ぺこだったのに、どうしてくれるのよ!」
『しっかり持っていなかったあんたが悪い。俺はあんたを助けようとしたんだぜ。だから、逆に感謝して欲しいくらいだ』
「は?」
あまりの言い草にティルアは呆然となった。




