氷上の悲劇女優
ショートプログラムを、ぶっちぎりの一位で通過した、エステル・コーヘンは、もちろん、女子の最終組での滑走である。
よく見れば見るほど美人なのだが、とにかく雰囲気がピリピリしすぎていて、長い時間眺めていたくない。そんな種類の美人がこの世にあろうとは、私は夢にも思ったことはなかった。
五分間練習が始まる。氷上の舞姫たちと形容すべき華やかな姿が滑り出ていく中、今日もエステルは、喪服のような黒い衣装で、笑顔は欠片もない。さながら、五人の舞姫と、一人の女兵士である。
エステルのフリーの衣装は、ショートプログラムとは違い、黒一色ではなかった。まるで男子の衣装のような、白のブラウスに黒のベストとパンツ、といういでたちである。
黒一色のハイネックに長袖、ミニ丈のスカートの下は、黒のタイツに黒の靴という、ショートプログラムの衣装も異様だったが、このフリーの衣装も浮いている。
肌を見せないのは、宗教的な理由か何かだろうか、と思っていると、私の座る席のちょうど前あたりで、彼女が跳躍した。3・3・2のコンビネーションジャンプである。男子顔負けの技を決めておいて、彼女は相変わらず、にこりともしない。
彼女はもう一度加速した。
踏み切った次の瞬間、客席がどよめいた。
四回転ジャンプ。
だが、わずかに回転は足りないようだった。着氷するなり、彼女は演技以外で初めて、表情を変えた。悔しそうに顔をゆがめて、それから、ダブルアクセルを決めた。いやみだなと、私は少し思った。
もしや、という思いが私の頭に去来した。
アリが彼女を意識したように、彼女もアリを意識しているのではないだろうか。
もちろん、男子の四回転と、女子の四回転は違う。男子選手にとっての四回転は、トップ選手なら跳べておかしくないジャンプだが、女子選手にとっての四回転は、トップ選手ですら、跳べない方が当たり前だ。
女子選手で四回転を跳んだのは、日本の安藤美姫、ただ一人だけだということは、さすがに技術に疎い私も、知っているところである。
だが、回転不足とはいえ、三回転以上を回って見せた彼女は、ひょっとしたら、非公式の場では四回転に成功しているのかもしれない。
これはアリがますます意識を始めるな、と思ううちに、五分間は経過した。
滑走順序を見ると、エステルは最終組の、最終滑走であった。
ひとまずエステルのことは忘れて、男子とは違う、女子の優美な動きに見とれる。体の柔らかさでは、やはり、男子は女子にかなわない。
五人目の滑走が終わって、残り一人となったところで、私はまた緊張し始めた。リンクに、黒い姿が現れると、客席は、異様なほどに静まりかえった。
ゆっくりと、リンクの中央に、エステルは立つ。まるでヴァイオリンを構えるようなポーズだ。曲が始まると同時に、彼女は滑りながら、ヴァイオリンを演奏し始める。途端、会場からため息ともつかない息が漏れた。
ずっとピリピリしていたエステルの表情は、いまや、穏やかな微笑みとなっている。柔らかな日差しの中で、のびやかに踊るように、彼女はヴァイオリンを弾く。
3・3・2の、コンビネーションジャンプ。
彼女は楽しげに微笑んでいる。
だが、明るく落ち着いていた曲調が、突然変わると、彼女の演技は一変した。
一転、激しく、重苦しくなった曲にあわせて、彼女の動きは、痙攣するようにこわばった。
与えられていた居場所をなくしたように、彼女は不安げな瞳で周囲を見回す。ヴァイオリンを抱きしめて、強く胸に押しつける。やがて、両腕を開いた。
ヴァイオリンを、胸の中にしまったのだなと、私は思った。
ヴァイオリンを胸にしまい、空手となった彼女は、今度はトリプルアクセルを決め、天を仰ぐようにスピンを開始する。その顔には、もう、笑みはない。
聞こえないはずの悲鳴が聞こえてくる。
優美なはずのスパイラル・シークエンス(さすがに二年も見れば、このぐらいは覚える)が、彼女の絶望的な瞳のせいで、恐ろしく重苦しく思えてくる。
正確にジャンプをこなし、正確にエッジを切り、ステップを刻んでいるのに、彼女の表情は、もう取り返しがつかないかのように、ますます悲痛になっていく。
疲労のせいなのか、それともそう見えるのすら演技なのか、判然としないほど弱々しく、彼女は手を差し伸べる。コンビネーションスピン。軸足がまったくぶれていないことから、あれも演技だと分かる。
最後は、ダブルアクセルから、再びスピン。
氷に両膝を突き、両手の平を天へ向けて、捧げるように、祈るように手を掲げて、演技が終了する。
高難度のプログラム。演技力も高い。加えて、ミスなしだ。圧倒的な一位は、間違いないだろう。
しかし、エステルの演技は、見ていて疲れる。先日のショートプログラムと、今回のフリーの、二回しか見ていないが、彼女の演技は、総じて重苦しい。明るさや楽しさは、やがて壊されるものと、彼女の中では相場が決まっているらしい。
最終滑走組にふさわしい貫禄の演技ではあるが、最終滑走者として見たい演技ではないなと、思う。
しかし、これで十五歳である。
二年前、今のエステルと同い年の、アリの演技を最初に見た時は、言いようもなく惹かれるものを感じたのだが、エステルは、アリとは違う意味で、人を惹きつけるようにも感じる。
アリは、演技そのもので観客を魅了するのだが、エステルは、演技によって、むしろ自分自身に観客を、引きずり込む、のだ。
アリは荒れそうだな、と、私は思った。
採点結果が発表される。キス・アンド・クライの中、女性コーチの横に、ちょこんと座ったエステルは、圧倒的な点差で獲得した一位に、ようやく少しだけ、顔をほころばせた。
ちょっと意外なほど、幼い笑みだった。