狙撃事件
ホテルの部屋のドアを叩く音で、私は目を覚ました。
「開けて! 開けて下さい!」
ほとんど悲鳴のように響く声は、アリの声だった。
「アリ、どうしたんだね?」
問うた私に答えるのももどかしく、彼は部屋のテレビのスイッチを入れると、チャンネルを操作した。
緊急ニュースの報道だった。
そのヘッドラインを見て、私は凍り付いた。
「エステル・コーヘン、狙撃される」
そんな、と、私は呟いた。
「エステル自身は軽傷だそうです……でも、コーチの、アナスタシア・バレンボイムが」
まさか、と、私は目を見開いた。
「とっさにエステルをかばって撃たれて……命が助かるかどうかも分からない、重傷だそうです」
なんてことだ、と、私はうめいた。
監視生活と自ら揶揄する生活の中、エステルが心を許していたのは、甘えることができたのは、アナスタシアだけだ。
もし、そのアナスタシアを失ったりしたら、エステルはどうなるのだ。
テレビはさらに、過激派から、犯行声明が出されたと伝えていた。
曰く、ユダヤ民族主義を煽り、不当なる簒奪国家イスラエルの横暴を正当化せんとする彼女は、シオニストの悪質なプロパガンダであり、この狙撃は彼らに抑圧された者の、正当な反抗である、と。
アリが、絶望的な瞳で、首を振った。
「ばかだ」
それからもう一度、繰り返して、言った。
「ばかだ」
そして、悲しみに顔を覆いながら、言った。
「彼女は、イスラエルによるパレスチナの抑圧に、心を痛めていたんだ。だから、僕たちは優勝しようと、そう、一緒に誓ったんだ。それなのに……」
私は驚いて、その言葉の意味を問いただそうとした。
再び、ノックの音が響いた。今度はラウルだった。
「やっぱり、ここにいたか」
アリの姿を見つけて、ラウルはそう言った。
三人で、ニュースを流すテレビを囲む。
ラウルは、話しても良いか、と、アリに問うた。アリは黙って頷いた。
ラウルは私の方を向いて、話し始めた。
「世界選手権にあたって、二人は一つの約束をしていたんだ。二人が優勝したら、エキジビションは、二人で滑ろうと……そして二人で、三つの旗を掲げようと」
私は、目を瞬かせた。
「スウェーデンと、イスラエルと、そして、パレスチナの旗を掲げようと」
そうして、二人でこっそり準備してきたのだという。
「でも、これでご破算だ」
アリが、絶望に満ちた瞳で、そう言った。
今回のエキジビションで、エステルは滑れないだろう。
エステルが滑れない中、アリがパレスチナ国旗を掲げたりなどすれば、どんなことになるか。そんなことは火を見るより明らかだ。
二人で掲げるからこそ、意味がある。
「どうする、アリ?」
ラウルの問いに、どうもこうもない、とばかりに、アリは首を左右に振った。
「いつもので行きますよ。次に一緒に優勝するまで、お預けです」
今までのと同じエキジビションの用意もしていたのかと、私が軽く目を見開くと、思ったことを察したのか、アリは悲しそうに微笑みながら、言った。
「念のために用意しておけ、何があるかわからないからと、エステルが言っていたんです」
彼女、何度も、命を狙われたことがあるらしくて。国際大会に出る回数を絞っているのも、大会以外では滅多に国外に出ないのも、そのせいだったんです。
アリは静かにそう言った。
それから、覚悟を決めた目で、私を呼んだ。
「エキジビションの後、記者会見を開きたいと思います」
良いでしょう、と、ラウルを見つめる。
ラウルは、優しく、けれども力強く、頷いた。
分かった、手配しよう、と、私は答えた。
翌朝のニュースでも、アナスタシアの意識は戻っていないようだった。




