世界王者へ
フリーの当日、アリのそばにくっついていた私の所に、予想外の顔が飛び出てきた。
思わず声を上げかけた私を制するように、彼女は、エステルは、シーッと人差し指を唇にあてた。
アリが、私が驚いた気配に気づいて振り返ると、一瞬だけ、アリへも微笑んで、彼女はまた引っ込んでしまった。
「挑発でしょうか。激励でしょうか」
答えは分かっているというような顔で、アリが言ったから、私は苦笑した。
「挑発で、激励で、そしてきっと、応援だろうよ」
私がそう言うと、うん、とアリは頷いた。
「負けてたまるか」
そう言いながら微笑む彼の表情は、どこか、優しげに見えた。
今日のアリは、最終組、最終滑走だ。
ショートプログラムを二位で通過した、アメリカの選手が、フリースケーティングで四回転を交えたコンビネーションジャンプを成功させ、高得点を記録する。
その次、リンクに立ったアリが、胸に手を当てて、大きく深呼吸をしたのを、私はモニター越しに見た。
曲が始まる。
アリのフリーのプログラムは、ショートと一続きの物語を構成する。
アラビアのロレンス。イギリスのため、アラブのため。そう信じて戦う彼の中に根付いた、アラブへの愛。
四回転ジャンプ。
客席がどよめいた。
私は目を見開いた。
アリは、この土壇場で、プログラムを、難しい方へと変更したのだ。
四回転、四回転の、コンビネーションジャンプ。
ほんの少し、着氷時にぐらついたが、それによる減点など、通常の四回転ジャンプを上回る基礎点を考えれば、おつりが来るはずだ。
強い表情の中に、時折混じる笑顔。
伸びやかで、力強いスピン。
戦争が、終わる。
しかし、ロレンスの思いは、祖国イギリスによって踏みにじられる。
四回転、三回転、三回転。
戸惑い、悲しみ。やがて、失意から絶望へ。
表情の変化もさりながら、一つ一つの動きまで、きちんと考えて構成されているのは、やはり、エステルの影響もあるのだろう。
全身から漂ってくる、ロレンスの悲壮。
愛したアラブの世界を離れ、けれども、裏切った祖国に戻ることも苦しく。
失意のうちに、彼は事故で世を去る。
心のどこかに、密やかな希望を抱きながら、けれども、決してかなえられないままに。
頽れていくロレンスの双眼が、救いを仰ぎ見るように、天に向けられた。
そして、事切れるように崩れ落ちる。
曲が終了しても、しばらくは沈黙が、リンクと客席とを支配していた。
それから、我に返ったかのように、拍手が響いた。
ロレンスから自分に戻ったアリが、笑顔で歓声に応えるのが、見える。
ブラヴォー、と、私は思わず、モニターに向かって呟いた。
キス・アンド・クライで待つラウルが、誇らしげな笑顔で、息子を迎える。
アリの得点が発表された。
技術点、一位。芸術点、一位。総合、一位。
ショートプログラムとの合計も、当然、一位。
三年前の彼は、失敗を恐れて、本番では難しい技に挑戦しようとしなかった。
その彼が、本番でプログラムを、より難しい方に変更し、なおかつ、見事に成功させたのだ。
世界王者になったことによりも、私はむしろ、そのアリの成長にこそ、心からの拍手を送りたかった。
インタビューを終えて戻ってきたアリの顔は、興奮でまだまだ赤かった。
今季の目標だった、世界選手権での優勝を、達成したのである。感慨もひとしおだろう。
だが、アリにとっての大会は、自分の優勝では終わらない。彼の競う相手は、エステル・コーヘンなのだ。
いよいよ、女子の演技が始まった。
エステルも、最終滑走組の、最終滑走者だ。
いつもなら、のんびりと女子の演技を楽しむのだが、横にいるアリの緊張が伝わってきて、私もどこか、緊張した思いで、モニターを見つめ続けることになった。
最終組の、五分間練習。
エステルは、相変わらず、ジャンプもスピンも、いやらしいぐらいに安定している。
彼女の衣装は、昨シーズンを連想させる、暗い色のものだった。ただ、印象的だったのは、左腕に巻かれた黄色の布だ。
「あれは、中世ヨーロッパで強制された、ユダヤ人の識別票を表しているんです」
アリが、そう説明してくれた。
「本当は、例のダビデの星でやるつもりだったらしいんですけれど、それはさすがにまずかろうと、黄色の布になったそうです」
練習の終了。そして、最終組の演技が始まる。
さすがに、上位入賞常連だ、と思わせる演技が続いた後、ついに、最後のエステルの番がやってきた。
題材は「ヴェニスの商人」。
演じるは、ユダヤ人高利貸し、シャイロックの娘。




