エステルの過去
数日して、例のイスラエル在住の知人から、手紙が届いた。アリは今季、何のプログラムを組むのだろうかと、手紙の中で問うていた。
今まで、エステルの情報を得るのに、いろいろと世話になった人物だから、知らんぷりを決め込むのは良心にとがめる。しかし、勝手に話すわけにはいかない。
それで、私は久々に私から受話器を取って、アリに電話をかけた。
意外と早く、アリの声が聞こえてきた。お久しぶりです、そちらから掛かってくるなんて珍しいですが、何かあったんですか、と問う。なかなか鋭い。
私は腹をくくって、正直に話すことにした。アリに嘘は、一つだってつきたくない。
それで私は、気になって、エステルのことも調べていたことや、その時に協力してくれた、イスラエル在住の知人が、アリの新しいプログラムのテーマに、興味を示していることなどを、正直にぶちまけた。
怒られるだろうか、と思って、内心、少しびくびくしていると、アリは少し間をおいて、今から訪ねても良いですか、と問うてくる。
私は、まだびくびくしながら、構わないが、ラウルは何も言わないだろうか、と訊ねた。そうするとアリは笑って、あなたの所に行くのなら、何も言いませんよ、と言った。
二年少々前は、ただの追っかけだったのが、ずいぶんな進歩だと、そう思いながら、私は受話器を置いた。
もっとも、この進歩は、今日一日で一気に後退するかもしれないのだが。
そう思うと憂鬱だった。
数分して、家のベルが鳴らされた。
ドアを開けてアリを迎え入れると、相変わらず掃除が嫌いなんですねと、苦笑混じりに言われる。
「急に来たいなんて言われちゃ、掃除する暇もないよ」
そう返しながら、アリのコートを受け取って、コートハンガーに掛ける。
「僕が『ロレンス』をやることは、ラウル父さんから聞いているんですよね?」
そう、単刀直入に問われて、私は黙って頷いた。
彼は、しばらく考えるような様子を見せたが、やがて、内容を自分が説明させてもらえるなら、話をしても良い、と言った。
「英語でいいんですよね?」
「そうだ」
「じゃあ、僕が書きますよ。それを送ってください」
なにやら、あまりにトントン拍子で、気味が悪い。
ただでは済むまいと、思わず身構えたら、アリは困ったように笑って、言った。
「その代わり、あなたが持っている、エステルの記事を、全部読ませてください」
「いや、ヘブライ語記事もあるぞ」
そう言うと、アリは、じゃあ訳してください、と言う。いやいや、とんでもない、と私は手を振った。
「訳せないから、困っているんだ」
あ、そうなんですかと、彼はさして落ち込む様子もなく、いつも来たときに座っている椅子に、腰を下ろした。私は、エステルの関連記事をまとめた、スクラップファイルを取り出して、アリの前に置いた。
アリは、ぱらぱらと目を通し始める。案の定、ヘブライ語は読み飛ばして、英字紙の動きを追っている。読みながら、アリは、半分は独り言なのだろうが、ぽつぽつと話し始めた。
「最初にイェーテボリのリンクで会った時、彼女は僕に言いました。『あんたに私たちの何がわかるの』と。じゃあ調べてやろうと思いました。でも、ネットで彼女の名前を入力しても、たいていは、ろくな所に辿り着きません。反ユダヤ主義の感情論のサイトだとか、そんな、僕ですらうんざりするような所も表示される」
ああ、アリは賢いなと、私は素直に感嘆した。
「僕は、中東にすらほとんどいたことのない、パレスチナ難民です。そうして、今はスウェーデン人です。アラビア語も喋れない。でも、彼女は中東生まれの中東育ちで、ユダヤ人なのに、アラビア語も喋れるんです。悔しくて、だから、どうしても勝ちたいと思うほど意識しているのに、彼女のことは、リンクの上の姿以外、何も知らないに近しい。だから、もっと知りたい」
そう呟いていたアリの目が、一点で止まった。
古い新聞記事のコピーだった。
白黒になった写真の中には、燃えさかるバスが一台、写っている。
英字紙の記事だったので、本文を追うことができた。
それは、パレスチナ人による、自爆の記事だった。
死者の名前が続く。そのうちの二人の名前に、下線が引かれていた。アリはその名前を口にした。
「……イツハク・コーヘン、ショシャナー・コーヘン」
まさか、という目で、彼は一度私を見た。それから、記事の続きへと目を凝らした。再び下線を引かれた記事が現れる。アリはまたそれを音読した。
「『死亡した、イツハクとショシャナーの、コーヘン夫妻の一人娘、エステルは、現在病院で治療を受けている。大きな火傷は負ったが、命は取り留めた模様。』」
それから、彼は目を見開いた。
その続きの記事も、私は覚えている。
この日、エステルは、五歳の誕生日だったのだ。
彼女が、女子選手には珍しい、徹底して肌を見せない衣装しか着ないのは、宗教的な理由からなどでは、なかった。
この自爆攻撃による火傷を、隠すためだったのだ。
ぽろ、と、アリが涙をこぼした。
「……どうして」




