才能と国家
知人のジャーナリストが、新聞の切り抜きを送ってきてくれた。イスラエル在住という奇特な人物だ。
記事のカラー写真の中で、あどけないと形容したくなる笑みを浮かべているのは、エステルだった。
いかにも古代語を復活させたらしい、古代文字そのままのような紙面を解読しようという努力を、私は、早々に放棄した。が、中に、一つだけ英字紙があった。それで私は、その記事が、エステルの世界選手権優勝についての、一連の報道なのだと理解した。
唯一理解できる英語の記事に目を通しながら、私は、エステルの背負わされた重荷について思った。
民族主義的な演技を行うことについては、イスラエル国内でも、かなり激しく、賛否両論が戦わされているらしい。基本的に、右派はエステル支持に回っており、逆に左派は、エステル批判に回っているようだった。
だが、本番の演技と、エキジビションのあまりの落差については、こんな意見も出されていた。つまり、本番の民族主義的なプログラムは、コーチたちが決めたものであって、彼女自身が望んで組んだわけではないのかもしれない、と。
アリから聞いた話を思い出して、私は、少なくとも、この意見は違うだろうな、と思った。
少なくとも、エステルは、自主的に踊っている。
彼女には、迫害は人ごとではない。
いや、迫害というと、語弊があるから、殺し合い、というべきだろう。
実際にイスラエルで、圧倒的武力を背景にして迫害を行っているのは、ユダヤ人の側なのだから。
しかし、エステル自身も巻き込まれた、パレスチナ人の自爆で、彼女が眼前で両親を失ったのだと知ると、彼女は、悲しみを国に利用されているのではないか、という考えが、いちばんしっくりくるような気がした。
誰が正しいとか、誰が間違っているとか、そういうことはないと思った。ただ、人が人を殺すことが悪であって、そして、人に人を殺させるまでに追いつめる悲しみこそが、諸悪の根源なのだろう、と。
少なくとも、現時点では誰も殺していないアリとエステルは、ともに、彼ら彼女らの父祖たちが重ねてきた悲しみの連鎖に、生まれながらにとらわれた、被害者なのだ。
しかし、エステルは、単なる被害者ではないだろう、とも、私は感じた。
彼女は、氷の上で報復している。
パレスチナ人にではない。ユダヤ人という存在を迫害した、すべての存在に対して、あえて、ユダヤという自分を誇示することで、彼女は報復しているのだ。
だからこそ、彼女の演技は、あんなにも重苦しく、悲しく、鋭く、そして、憎しみに満ちているのだろう。
そう思うと、幼ささえ感じさせる少女の笑みで滑っていた、あのエキジビションの演技こそが、彼女自身の悲鳴のようにも思えてくる。
ショートプログラムの「ミュンヘン」と、フリーの「屋根の上のヴァイオリン弾き」が、彼女が自ら望んだわけでもなく背負い込まされた、ユダヤという宿命の悲鳴だとすれば、あの弾けるようなエキジビションは、宿命を背負わされて生まれてきた、エステルという個人の発する悲鳴なのではないだろうか。
国を持つことで、かえってエステルが、がんじがらめに宿命に縛られているのだとすれば、むしろ、国を求めるアリの方が、自由なのかもしれない。
おそらくアリ自身にとっては不幸なことに違いなかったが、幼少時に実の父母を失い、アラビア語の話せないアラブ系の人間として育つことになった彼の宿命は、必ずしも、彼という個人の資質にとって、マイナスだけになっているわけでは、なかったように思う。そのことによって、彼は与えられたわけではない祖国を、自ら求めることになった。その時、そこにまず在るのは、国を求めるアリという個人だ。
逆にエステルは、なまじずば抜けた才能があったが故に、両親を失った悲しみすら、国家権力に利用されているのではないだろうか。アリが個人から国を求めるのに対して、エステルは、まず国ありき、なのだ。
あまりの問題の根の深さに、頭痛がしてくる。
最初にフィギュアスケートを見た時、自分がこんな問題に、頭を抱えることになるだろうなどとは、夢にも思わなかった。ただ純粋に、選手たちの滑る姿に感動し、そうして、アリの演技に、魅力を感じて、ファンになっただけだった。
しかし、と、ふと思い直す。
国家の威信をかけた祭典であるという、オリンピックのもう一つの面に着目してみるならば、エステルのようなタイプの選手が出てくることは、けっしておかしいことではないのだ。
それが、良いことなのか、悪いことなのかは別にして、エステルの演技スタイルも、また、一つの道であるには違いない。
写真の中で笑うエステルを見ながら、私は思った。




