四、東の市
幼い頃の夢を見た。ときははまだまだ小さな子どもで、誰かに手を引かれていたような気がする。それが誰だったかは覚えてもいないのだが、相手は大人だったように思われる。
そして父が出てくるのだが、彼はとても驚いたような顔をしていた。それもまた、どうしてかは当時のときはにも今のときはにも分からない。父はすぐに常のような厳しい、眉間に渓谷の連なる面差しになっていた。こわいひとだ、子どもは思っていた。
兼直は今も昔も少しも変わらずに、自分の娘に笑いかけてさえくれないのだ。おそらくは悲しむべき事なのだろうけれど、いつしかときはは慣れてしまった。そういうものだと。世界が実は、目には見えなくとも六に分かれており、それに関わる神名火守がいるという事や、貴族と細民の間には経済や思想の面で違いがあるという事や、帝が是といったら是となるのだという、世界の理と同じものだと。
それでも、ときはには帰る家がある。年も離れているし距離を感じるものの、声をかければ応えてくれる兄もいる。義母の事は、彼女自身どう考えたらいいのか未だに分かっていない。それでも世間的には二親の揃った、良いところに生まれ育った貴族の娘なのだ。少し一般とは異なる家業を中心に動く家とはいえ、それでも浅葱やさゆきたち細民の暮らしとは全く異なる、物には困らぬ暮らしをしているのだ。
親が恋しくて泣く年頃でもないだろう、そうして見た夢も、昼にもなれば忘れてしまうのだ。忘れてしまえば、何も思わなくて済むのだから、頭の中に置いておかなければいい。ただ、それだけだ。
鼠色の雲があちらこちらで幅をきかし、空の青を消そうとしていた。昼前だというのに既に明かり少なく、時々思い出したように日輪が顔を出す。そんな天候なので、ときはの気分もぱっとしないのだろう。かといって、今日が快晴というのであっても彼女の気分は優れたようには思えない。今朝見た夢はもう霞がかって、記憶の彼方だ。それなのに、なんとはなしに楽しいものではなかったようで、それも影響しているのかもしれない。
この日は、珍しく市に出かけていた。お供付きではあるが、仕事以外で出かけられるのは久しぶりのときはであった。父の許可が下りたのが今朝、木鳥という同じ陵一門の兼直の従兄弟にあたる男が付き添いとして彼女の面倒を見る事になっている。清人もよく妹のお目付け役にさせられるが、午前中の彼は宮仕えのため今は不在だ。長いつきあいのある木鳥には、神名火守としての知識を伝授されただけでなく時折護身のために武芸も習っているときはだが、どうにも彼を好きにはなれなかった。非常に背の高い、顔の平べったい男だ。僅か鈍感そうな目つきは感情の読めぬもので、そこがときはの気に入らなかった。女嬬たちのかしましい話にある、木鳥はときはの継母とただならぬ仲らしい、という噂も関係しているのかもしれない。
ともあれ、多くの物と人の行き交う市が、ときはの気を浮き立たせぬはずがない。一月のうち上旬は東市だけが立ち、下旬はその代わりに西市が立つ。この日は西市は開かれないので、東市に向かった。
北東に下京という出っ張りがあるものの、それを除けば、平城京は大唐国の長安に倣ってほぼ正方形に近い形をしている。正方形の中央上部、つまりは中央北端には宮様のおわす内裏や大極殿のある平城宮。平城宮から南へ朱雀大路が京の南北を貫き、この大路を中心にして東を左京、西を右京と呼び碁盤の目のように道が交錯している。壁は漆喰の白に、柱は朱、青灰色の窯焼き瓦の色の豊かな様子は貴族たちの住まいのみで、檜皮葺の褐色屋根も少なくない。重要な施設のある場所は皆、築地に囲まれている。そういったものを内包する平城京は東西およそ一里二町、南北が一里九町ほどという広範な地をしめているのである。
寧楽の京は漏刻台によって管理された京である。日が昇るより早く出仕する役人たちも、東西の市に行く者も、決まった時刻に打ち鳴らされる太鼓の音で身体を動かしている。市は正午に開かれ、日の沈む前に太鼓の音で終いとされる。東西どちらの市も役人の管轄下にあり、市司により商人たちは名簿に名を連ねる事が定められ、値段の不当な吊り上げの取り締まりが行なわれている。一見、官人によりきちんと管理されているように見える東西市だが、それでも盗っ人や盗品売りなどが絶えなかった。市は貴賎問わずに人の集まる場所ではあるが、それでも多くは貴顕以外の庶民たちの活動場所なのだ。
東市は八条三坊まで下った場所にある。ときはと木鳥が歩くうちにもう市は開かれる時刻になっていて、あちらこちらで活発な呼び声が飛び回っていた。
「丈夫な須恵器はどうだい、色もきれいだろう」
「さっき届いたばっかりの鰹に鯵、鰯に鯛もあるよ」
「大唐国で流行の紋様の入った染め織物だよ」
売り手たちは、麻布や筵の上に自分と商品を並べてより多くの物を売ろうと声をはりあげている。この賑わう市場では、錦や木綿の布や帯、沓などの衣類に関する品から、役人には不可欠の墨や筆、円面硯などの文具、太刀や弓や馬具などの兵具に、土器や漆の器に米や塩、醤といった料理に必要なものから、馬に牛まで売られている。
普段使わないような食料品や文具兵具は少女には興味のないものとなり、行き着く場所は自然決まっていく。空の天気は相変わらず曇りで、時折差し込む日の光が目に痛いほどであったが、ときはの足は早まった。かと思うと、目当ての売り物の前でぴたりと止まり、品物の観察に余念がない。
「新しい釵子がほしいわ」
この日は特に仕事の日ではないので、幾分華美な様子を抑えた色合いではあるものの、きちんと大袖に裳の姿だ。似合いの釵子を探せるに違いない。
「唐の国の流行の織物も気になるけど……最近、沓が少し小さくなったから、新しいのがいるのよね」
年頃の少女の気は四散するように周囲のどれにも傾けられ、色の煌びやかなものとくればすぐに目を奪われていた。
「やあお嬢さん、この孔雀と唐花文を刺繍した帯なんて、値打ちものだよ」
「そうね、ちょっと大人向けすぎないかしらそれ。遠慮しとく」
商品を勧めてくる誘いの手に、ときはも慣れたものですぐに飛びついたりはしない。それでもよいところの娘とは分かってしまう格好をしているために頻繁に声をかけられるし、娘心はよく揺れ動く。
「瑠璃の首飾りはどうだい。白い縞がなかなか人気なんだぜ」
どうしてか、若い娘は“人気の品”というものに心を惹かれるようである。一目なら見ても構わないと、ときはは声の主の元へとやって来た。
「瑠璃ってのはなあ、お嬢ちゃん、大唐国よりも西の西に住む、胡人の生み出したものっていうぜ」
「それくらい知ってるわよ。それにこの首飾りより、いつか見た白瑠璃碗の方がどこか遠くから来た感じがするわ」
商人の提示した瑠璃の首飾りは、薄萌黄や焦げ茶の玉の連なりで出来ている。白い縞は確かにきれいではあるが、白瑠璃碗のような透き通る色は見られない。白瑠璃碗の水のような透明さに、ときはは異国の情緒を感じていたのだ。海を渡り、大国の唐よりも更に西に、山脈や砂漠を越えた先にあるという、見も知らぬ西域の文物は寧楽の京にやってくる。唐への留学生が難波津より海へ出で、新羅を経由して大唐国へと向かう。そういう事はこれまでにも行なわれてきたし、その逆もあるが、唐へ行けずに海に沈んでしまう船とて少なくなかった。それでもこうして、あまりにも遠く距離のある場所から人や物がやってくるというのは、本当に人の胸を騒がせるものだ。想像するしか出来ないときはだが、船旅がいくら辛いものだと聞いていても、遠く離れた地へ行く事に対する憧れを抑えられない。彼女が唐が好きなのもそれ故だ。
段々に、この縞模様入りの瑠璃も悪くはないように思えてきた。白瑠璃碗の触れるのが恐ろしいくらいの澄んだ色味も良いが、こういった瑠璃も愛嬌があって可愛らしいのではないか。
「他にもないの、首飾りじゃなくて手首飾りとか」
「とき……?」
ぽんと背中に迫ってきたよく知る声に、ときはは顔を明るくした。浅葱だ。振り返ると想像した通りの顔があって、一日と置かずに彼に会えた事を喜び、少女は言外に表現していた。それも、浅葱の表情が思わしくないのに気がつくまでだったが。少年は、驚いたような、困ったような顔をしていた。どうかしたのかと問う前に、彼は自分の顔の理由を教えてくれた。
「本当にとき、なの? どうして、そんな格好……」
自分の偽りが、彼に知れてしまった。十三とはいえ、ときはも細民の貧しさを知らぬわけではない。貴族という金持ちに対する細民が抱く敵意に近いものも。それゆえに彼女は浅葱の前では、彼の敵意を受けぬようにと、むしろその逆を手にしようと、嘘をついていたのだ。
「あ、あの、あたし……えっと」
この時ときはの装いは、いくらか色合いは地味であるものの、一目で豪華なものと分かるものだった。大袖に背衣は富める者の着るものであるし、何より紕帯にさりげなく施された宝相華紋の見事な作りは庶民になどとても手の出せない織物だ。その服を着こむときはは口の端を引きつらせた。
離れた場所にいたお目付け役の木鳥が、ときはの妙な様子にやっと気づいた。声をかけるべきか迷って、相手が居るのを知るとむしろそれは控えた方がいいのだと決める。だが、どうにも注意を向けるべき少女の顔がうろたえているように見え、妙な子供に因縁をつけられているのではないかと、やはり彼女の元へ行く事にした。賑わう人ごみの中をかき分けて。
突如、二つの悲鳴のようなものが聞こえた。一方は人の放った声だろうと推測出来るのに、もう一方はとても人間には出せるとは思えない、遠吠えのようなものだった。
「お嬢さん、夢生かもしれません、行きましょう」
強く言われ、ときはにも事態が分かっているはずが、浅葱の事が気になってそれどころではない。その上、神名火守が向かうまでもなく、夢生の方からやってきてくれた。売り子が担いでいた荷を取りこぼし、威勢のいい声で客を呼んでいた商人の顔から笑みが消える。ざあと引くさざ波のように鳥の小さな群れが飛び立った。
東の市に現れたるは、姿形は人にはとても似つかぬ、牛の体を持つ巨大な夢生。顔だけは人そのものでありながら、人にはありえぬ鋭く長い牙が生えている。その顔の口からは涎が、額の上からは角が生え、牛の蹄からは尖った爪が伸びていた。昨日の紫の飢えた人のような夢生とは違い、見た目だけでとても触れたくないような格好をしている。ときはの総毛はぞっと立ち上がった。あんなものは、彼女がこれまで見た中でも特にひどい。その上、かなりの巨躯だ。木鳥も同じのようで、平素の鈍い表情ながらも顔を顰めている。
「まずい……。皆を安全な場所へ……!」
「でも、どこに?」
「一先ず朱雀大路の方へ!」
夢生を見た事のあるはずの浅葱が呆然としているのを視界の端に入れながら、ときはは人を誘導するという行為は未経験のために、何と言ったらよいのか戸惑っていた。それにしたって、夢生はここまで大きいものなのだろうか。人の三倍ほどもある築地塀よりも高いではないか。あんなものに踏まれでもしたら、ひとたまりもない。
ときはは、自分の手の中にあるはずのものを握ろうとして、空を切った。いつも見回りや御綱結いに向かう時には手にしている打毬杖がない。あれさえあれば、上手く太刀を扱えない彼女でも敵に一撃を与えられるのに。いや、夢生には太刀でも効果はない。馬酔木の札は、常に持ち歩いている。どうすればいいのか分からないが、今それが必要だろう。木鳥がいるのだから、彼に、馬酔木札を渡せばいい。木鳥とて神名火守、馬酔木札くらい持っていようが今のときはにはそんな簡単な事すら思いつけなかった。
「みんな、逃げて!」
朱雀大路に出れば道は広い、少しは逃げやすくなる。そう続けようとしたのだが、混乱に満ちた東市の中でただ一つときはの意識を集中させるべきものが存在した。浅葱。彼はまだ、どこにも行こうとしていない。どうしてそこに立ったままなのか、二度しか夢生に会っていない一般人とはいえ、迂闊すぎる。
ざりと少女の心臓がざわついた。喉がひどく渇いて気持ちが悪い。浅葱が危ない。それなのに、打毬杖はないし、木鳥は傍にはいないのだ。
誰かが何かを言っていた気がした。世界が、ゆっくりに動くのに、人の言葉はひどく早口でうるさくて、それでいて意味不明だった。少年の身体に薄い影が落ちた。赤い、牛のような夢生が浅葱の前に飛び出して、棹立ちになって吠えた。牛には思えぬ聞き苦しい声で。
「あさぎ!!」
叫んだ声は自分のものだったのに、どこか遠くに聞こえ、他人のもののように感じた。
一里二町が約四.四キロ、一里九町が約五キロ。
築地……屋根を瓦で葺いた塀。
釵子……かんざしのような髪飾り。
胡人……中国の北方・西方の異民族。ここでは中央アジアや西アジア辺りの人。