三、陵家
平城京を北へ上り右京の四条三坊まで行くと、ときはの住まいがそこにある。陵の一族は表向きは四位の貴族ではあるが、代々神名火守を家業とし帝によりその勤めを認められている。ただこの陵家は神名火守を命じられた一族としては分家である。宗家の最刈家は反対側の左京にあり、こちらの方が貴族としての位も高い。それでも陵家は広い敷地を持つ特権階級だった。
神名火守はおおよそ二十人にも満たぬ人員で構成されている。彼らの行なう重要な柱は三つ。ときはも関わる夢生が京に徘徊していないかをしらみつぶしに見て廻る事、夢生を元の道に還す標結、御綱結い。年に数回は今上帝に神名火守としての活動を報告する事や、その他、夢生に関わる様々な事象に対応する事が彼らの仕事だが、主に宗家は分家に命令する立場にある。京の見廻りは区画ごとにそれぞれ担当がおり、御綱結いも当番制であるのだが、分家である陵家ばかりが行なっている。
だが最刈家と陵家、宗家と分家にはそう大きな差異はない。最終的な決定権が宗家の長にあるという点や、神名火守を束ねる者が最刈家当主だという点から見れば最刈家は優位に立っている。しかし分家が宗家に従属しているというほどには、彼らの間に主従関係はない。
反目もあれど、神名火守たちが誇るべき仕事をしていると宗家分家問わず自負しているのは間違いない。その上、彼らは宮中での地位も高い。たとえば、大陸の先進的な文化と知識を吸収し、我が国の文化も必ずしも劣っているわけではないと伝えに行く遣唐使などは、貴族しかなれないし、その上五位以上の貴族でなければ候補にすらなれない。生まれた時から、そんな特権階級に囲まれて過ごしているので、ときはにいかに自分が恵まれているかの自覚はないが、それでも他の細民を見れば自分の家がいかに広いかは分かる。漆喰の塗られた我が家の白い壁は、ときはも自慢だ。
「ただいま」
ときはが自宅に足を運びいれると、一人の女性が共の者を連れ廊下を歩いていた。やや目つきの鋭い、気の強さを顔に出したかのような三十代ほどの女人だ。菖蒲色の大袖がとても似合っているが、まとう空気はとても友好的とはいえない張り詰めたものだった。彼女は陵家当主の二番目の奥方、陵藤という名の女性だ。
目が合うとすぐに、逸らされる。ときはは何を口にしたらいいのか分からなくて、視線をふらふらと彷徨わせた。彼女とはいつもこうだ。表向きだけであれば、継母と継子はいえ母子であるはずなのに。気まずくてしかたがない。藤はときはに声もかけずに廊下の奥へと消えた。
空はもう夜色に染まる時刻、何より空腹を覚えたときはは、芳しい食べ物のにおいに導かれるようにして、足を動かした。いくつもある部屋のうちの一つで厨にほど近いそこにたどり着くと、兄が高坏にいくつも皿を載せて夕餉を楽しんでいた。大きな戸を解放して、ほんのわずかだけ夕暮れの名残を室内に迎え入れている部屋は、あたたかな微風をも受け入れていた。灯明皿を三つも配置した部屋は薄暗いながらもその日の料理をよく眺めて味わえる空間となっている。
清人はもう既に衣装を普段のものに替えており、縫腋袍に白袴という格好に戻っている。襟周りを止めておらずくつろいだ様子ではあるが、先ほどの指貫姿よりも、堂々とした彼には似合っているといえる。清人は妹に説教もどきをした事も忘れたような涼しげな、ほんのわずか微笑をたたえたような口の端で言った。
「おかえり。父上に報告でもしてきたら?」
君の夕餉はそれからだよと言われたのも同義で、兄が手にした栗などつまみながら歩きたいという誘惑を振り払い、来たばかりのときははその場所を立ち去るはめになった。
灯明皿の明かりは手元が精々見えるくらいの光の量。訪れた父の部屋は不気味なほどに暗く、部屋の隅には何か潜んでいてもおかしくないような、えもいわれぬ重苦しさを感じる。息を整えてから、ときはは静かに父の前に出た。
「父上、ときはです。入ります」
父の陵兼直は陵家当主、分家の頭でもある。宗家を抜きにさえすれば彼の神名火守の中での権力はかなり高いところにある。そのためだろうか、ときはには彼が自分の父親には思えないのは。兼直は、少しも娘を見ようとしない。後妻の藤のように一瞥をくれては眉を寄せるのではなく、視線を与えたりはしないのだ。兼直の、椅子に座り机に広げた木簡を眺めている様子からは、圧迫感さえ感じられる。長男と同じ縫腋袍を着ているだけなのに、彼がそれを身にまとうだけで強い威厳が加わるのだから不思議だ。
「本日の勤め、終わりました」
「聞いておる」
低い一声。ややもするとしわがれたような、地を這うような暗い声だった。この短い応えの中には如何ほどの意味がこめられているのか、彼と長いつき合いがある他者に解説されるのでもなければ、額面どおりにしか受け取れないだろう。ときはには説明を少ししてくれる兄がいたので、誰に“聞いて”いたのかは分かる。件の兄、清人だ。今日は昼過ぎから清人と行動を共にしていたのだから当たり前といえば当たり前だろう。
今日の自分の失態の弁明をすべきかどうか、ときはは一瞬迷ってしまう。自分の愚かさをわざわざ説明したくなどはないが、何をして何をしていないのか当主に伝えなければならないというのは、見習いとはいえ神名火守ならば当然だろう。
つい、相手の出方を伺うように父を見上げてしまう。顔色のよくない壮年の男だ。かつては美丈夫だったろうが、やつれたというような頬骨の出方に、目の下の隈に年のわりには目立つ白髪交じりの髪と顎鬚が、その男の魅力を半減させていた。瞳をのぞけば、奥底に眠る奇妙な光に気づけたかもしれない。かもし出す雰囲気は、陰気。だが、それゆえか目を逸らす事の出来ないような人を引きつける引力のような力も持つ。
父の兼直が実年齢よりも老けてしまった理由は、彼自身こそ口にしないがときはは他者から聞いて理解している。兼直は自分のたった一人の伴侶を亡くして以来、こうなのだと。後妻の藤がどうにもつれないのは、父がこれだからか、それとも元よりの性格かは分からないが、どちらにせよ彼らの結婚がただの政略結婚だったのだろうと推測できてしまうほどに、夫婦の関係は冷え切っていた。
兼直と藤の二人にかかってしまえば、あまり優しいとは思えないときはの兄でさえ、まともな人間に思えてくるのだから不思議だ。藤はあちらから血のつながりのないのを思い知らせてやろうとでも思っているかのように、不必要な事は口にしないし、藤にしてみれば継子と話すような必要事項など一つもないようだ。そしてこの父は、生きているのかどうかすら、怪しい。
「いつまでそんな格好でいるつもりだ」
指摘され、ときははやっと自分の格好を思い出す。まるでただの細民のような身なり。これは、貴族が平城京をうろついていては目立つために、神名火守の活動をする時にする一種の変装のようなものだった。雅やかな装いでは動きづらいためでもあり、いうなれば作業着のようなもので、帰宅すればそんな粗末な服をまとう事は、貴族としてはいささか恥ずかしい。
「失礼しました」
慌てる娘に、兼直は何一つ口をきかなかった。それゆえに、ときははこの気詰まりな部屋を出ていいという命令なのだと思う事にした。
父の部屋を退室してから、ときははやっと肩の力を抜く事が出来た。自分のためにあてがわれた部屋に行く前に、女嬬を捕まえては着替えの用意をさせるように言う。すぐに彼女たちは主の身なりを整えようと仕事をはじめた。
ときはが身にしたのは、大袖の上に背衣、胸の下でしめられた紕帯に、裙と呼ばれる下半身を覆う筒状の衣服、履き口である甲部分が大きく開いている沓。これらの上に領巾と呼ばれる細長い衣を肩からまとっていた。髪飾りは梅の花に縁どった紅梅色。
貴族の服装というとこれであるが、それでもときはには少し動きづらいものだった。とはいえ、仕事の際に着るような庶民の服も格好悪いと好んではいないし、このような服装は大陸の文化の流れを汲むもの。大唐国をに憧れを抱いている彼女にしてみればなんとか許してやれる範囲だったが。
「夕餉の支度が整いましてございます」
女嬬にそういわれ、ときはは食事のための部屋へと向かった。兄はもう夕餉を終えてしまっていなかった。一人の食事は珍しくもないが、誰か人の目を気にしないで済むのも、良いかもしれない。
机の上に並べられた食事は多様だ。四角い高坏に並べられた皿には炊いたご飯、鮎の塩焼き、かぶの醤油漬け、つぶ貝、わかめのお汁、柿など、その他あわびや魚の干物に漬物がついてくる。更にお菓子まで饗せられた。麦の粉を練って油で揚げ飴をまぶした唐菓子に、牛の乳を煮詰めて作った蘇などで、ときははこの蘇を殊の他、好んで食べている。
美味しい食べ物は好きだ。けれども、この日はいくらかの不満と失敗が重なって、素直に料理に舌鼓を打つような気分になれなかった。特有の不安定な情緒を持て余す年頃になっていたからでもあるが、この倦怠にも似た困惑のような不満は、ここ最近に生まれたようなものではなかった。思えば、本格的にときはが神名火守の仕事を手伝うようになってからかもしれない。何がとはこの未熟な少女には具体的には思いつけない。あまりこの仕事が好きではないのかもしれないという、単純な結論にしか行き着けないが、それも違うような気がする。
「どこか遠くへ行きたいな……」
ここではないどこかであれば、憧れている大唐国でなくたって、西域の奥の奥にある、まったく知らぬ国でもよかった。
墨を流したような空。月が中天に上がる頃になると、平城の京の内は普通、人の移動が禁じられる。ゆえに京識の兵など巡邏をするようなもの以外は、屋外には存在してはいけない事になっている。夜は暗い。人は活動出来るような時刻ではないのだ。京は漏刻台によって統制されている。人の出歩かぬ夜もまた、同じだ。
武装した京識以外は歩けぬはずの夜の町中で、子どもが一人、とある邸宅の門扉の前に立っていた。麻布に穴をあけ縫い合わせただけという簡素な服装、まだ平城京も藤原京もなかった昔から民草が着ていた服を着ている。寧楽の京でも見ない服ではないが、小さな村しかない鄙にでも行けば人はこのような貫頭衣ばかり着ている。この子どもは素足であちこちが泥に汚れていたがそれに構う様子はなかった。
「そう……ここが、あの女の家というわけね」
声は高く、少女のようだ。堪えきれない笑みが言葉の端に載っている。自分自身の問いに答えるように頷いて、それから言葉にして答える。
「ええ、でも待って。わたしはまだこの目でしかと見たわけではないわ。それに、まだ時が早すぎる……長い長い因縁には、長い長い準備が必要でしょう?」
今一度、少女は邸宅の奥を見やった。閉ざされた門の奥、更にその奥まで見通そうとするかのように、ひどく鋭く、強固な瞳で。
「ねえ……何も知らない神名火守の、見習い娘さん……?」
昼に見せた表情とは違う顔で、黄金色の月は神々しいまでの光を地上に投げかけていた。まるで、何もかもを知っているかのように。
厨……台所。
高坏……足のついた小さな台。料理を載せる、お盆のようなもの。
女嬬……宮中の女官の事。※ここでは、貴族の家に仕える女の使用人の意味を持たせたので、常用の意味からは外れているが、他にいいのが思いつかなかったので、雰囲気作りのためとご了承いただければと思います。
漏刻台……水時計。
鄙……田舎。




