三十二、二柱 降り立つ
寧楽の京では、昼間なのに天がかげり、強い風が吹き乱れていた。いつの間にか太陽が隠れたかと思えば、嵐が来そうなくらいに吹き荒れる風。人心の不安を煽る空模様だった。
がたがたと風が叩きつける音は、先ほどからすっかり馴染みのものになっていた。風の強い日だ。さゆきは顔を上げた。服の繕い物をしていたところ、あまりの風の音の大きさに顔を上げただけなのだが、室内に浅葱がいないと気がついた。
あの日。清人という名のときはの兄がやって来た日の事を、さゆきは忘れないだろう。清人がさゆきの弟と何を話したのかまでは聞こえてはこなかった。ただ、その日のうちにときはの親類に乞われて浅葱が一体どのような嘘を伸べたか――全て彼から聞いたさゆきは、弟の犯した罪を咎めた。浅葱とさゆきは友人を失ったのだと知った。それからというもの彼の意気消沈ぶりはかわいそうなほどだったので、気にかかった。
立ち上がると、さゆきは弟の姿を探して家を出た。視界に入ってきたのは、見慣れた浅葱の姿だったが、それより唸る風の連れて来た空の雲が、ひどく不穏に見えたのが彼女には不安だった。胸郭の中で誰かが暴れているような感覚がする。思わず、浅葱に近づくとぬくもりを確かめるように腕を握った。
「嫌な空ね……」
「まるで、ぼくの嘘にときが怒ってるみたいだ」
姉は自分の弟が友人にした仕打ちを恥じたが、しかしながら弟が誰のために嘘をついたかも知っていた。さゆきという枷があるから浅葱は動けなくなった。姉のために友人を失うに至ったのだ。自分さえいなければと思うけれど、考えても詮ない事だ。
せめて早く浅葱の傷が癒える事を願うしかない。身勝手で不相応、あまりにも自分に都合のいい願いだが、いつかときはが浅葱とさゆきを許してくれる事を、乞い願う。
「いつ、会えるんだろう。会って謝りたいのに」
彼らは風に翻弄される雨雲を見上げながら、寄り添い合うようにして立っていた。その視線の先には天を塞ぐ灰の空が広がっていた。
九曜兄弟が見上げた空、その遥か上空には人にあらざる者が外界を見下ろしていた。それが人ではないと証明しているのは、人には不可能な空に浮くという行為をしているからだ。
「……相変わらず、淀んだ京だ」
くく、と“ヤマ”は笑った。
彼はずっと閉じ込められていた。その間自分の体である天の火を介して、微かな事だけを聞きかじって耐え忍んできた。いつか閻魔のかけた封印を解き、外へ出るその日まで。ヤマと天の火は僅かではあるが、繋がっていた。天の火はヤマの抜け殻であるためにほとんど力はなく、ヤマに人道の少ない情報を分け与えるしか能はなかった。しかし冥府の事など何も知る術のないヤマにしてみれば、それだけで充分だった。
彼に出来る事はごく僅かだ。しかし閻魔王の感情、心、後悔、慟哭、悲愴、怨嗟、激痛、憎悪、その他暗い負の感情の塊である彼は他者のそういった気持ちを介して人道に触れる事が出来た。苦しみに泣き叫ぶ人があらばその苦しみをあたえた相手を恨むように囁き、裏切りに傷ついた者あらばもう二度と他者を信じるなと吹き込んだ。
彼は天の火を使って人と接してきたが、そうした事で何が出来る訳でもなかった。
桃緋と出会うまでは。これまでにも世を恨み見えるもの全てを憎む者など星の数ほど存在した。ただ一つ桃緋が他と違ったのは、神名火守の居る場所へと向かった事だった。天の火の、ヤマの肉体のある場所へと向かう少女。
なんで、どうして、いつもあたしだけ。
知らない。もう、要らない。
こんなのって必要ない。
でも、ただ、ひとつだけなら。
すべての根源を壊してしまいたいと思うのよ――
少女にしてはあまりにも重苦しい、見事なまでの恨み。彼の中の同じものと、呼応した。そして少女は天の火のある場を希求していた。呼び合う思いは同じ。天の火の中に微かに残る自分の欠片で、ヤマは少女に囁いた。
桃緋はこの世の全てを嫌悪していたがただ一つ執着を見せるものがあった。それは自分の顔をした少女の事。ときはが、自分とは違ってとても贅沢な暮らしをしているという事に対する嫉妬から来る恨み。桃緋はその貧しい育ちからしてみればかなり自尊心が高く、自分はもっと厚遇されていいはずだと思ってきたようだ。彼女に触れてヤマはその事を理解した。そして桃緋の中で貧しい日々で積み重ねられた恨みつらみはときはという少女に集約されていたとも知った。
天の火を動かすために桃緋を利用する事をヤマは思いついた。ときはに関わろうと思うのなら、何方にせよ桃緋は神名火守と天の火に行き当たるのを避けられない。
天の火を桃緋に盗ませたのは、ヤマだ。そうするように彼女の心に吹き込んで、それが正しい事だと信じこませた。目論見は上々、全てはヤマの思惑通りとなった。冥府からの使者の存在には気づいていなかったが、彼らを知ってからは佳耶か征崖どちらかに天の火を持たせたいと思っていた。まさか桃緋がときはを天の火で突き刺すとは考えていなかった。それでも全てはヤマの都合のいいように動いた。
これぞまさに天命ではないか。
あの時、勝手に閻魔の命運を決めたあの者たちを思うと笑えてくる。
ヤマは口を歪めて嘲笑う。
さて人道に来て何をしよう?
新たな肉体を得たヤマはやれる事が増えた。閻魔に切り落とされた時、無闇と魂魄を肉体を分けるのではなかった。あの時はまだ分かっていなかったが、ヤマが閻魔に封印されたのは肉体を捨てたからだ。今は他者のものではあるが、きちんと肉を纏っている。ヤマの持つ力に普通の人の肉体は耐えられないかもしれないが、そんな事はどうだっていい。この体はただの道具、朽ちれば次を探すのみ。
その上世界が全て滅びるというのに、器の心配などしてはいられぬ。
今、ヤマの眼下には碁盤の目の平城京が広がっていた。朱雀大路を行く人の小さな事、この高みにいれば人の営みなど無意味にでしかない。もっとも、近づいたとしてもヤマにとってはこの世の全てが意味のないもの。
ヤマは既にときはの肉体を支配下に置き、かつての自分の姿に成りを変えていた。同じ顔をした、同じ髪を持った、同じ体躯をした人物がヤマに近づいてくる――。
琥珀にきらめく瞳、人間ばなれした整った顔立ち。感情を失ったような表情の閻魔王。
「久方ぶりの人道は如何ですか」
その声に、ヤマは緩慢に振り返った。あまりそうしたくはなかったのだが、仕方がない。ヤマは彼を避けられないし、彼もヤマを避けられないのだ。
閻魔王は佳耶や征崖を使って桃緋の身柄を抑えようとしていた。人道に自ら足を運ぶなんて冥府の主がするべき仕事じゃない。あの時はまだ自分の半身を押さえ込めると閻魔は信じていたのだろう。閻魔の事は、かつての自分の事だ、ヤマには手にとるように閻魔の考えが読める。ほとんどときはにも事情を説明しなかったのは、我が身がかわいいからだ。まさか閻魔王がかつて懸想した相手が遠因で天の火を作った、その事がときはにも影響を与えた、などとは言えないだろう。あまりにも、ただの人間過ぎる。それを認めてしまえば楽なのに――だがそうしなかったから、ヤマは生まれたのだ。ヤマは閻魔が認めなかった存在。自分の中には必要ないと切り離した、捨てたがらくた。
見ないものとして逃げ出したものを前に、お前はあんまりにも必死じゃないか?
ヤマの笑みは増した。その態度が閻魔の癪に障ったのだろう。美しい眉宇を彼は顰めた。
「もう、充分満喫しただろう。お前には、無に還ってもらう」
冷えきった瞳で閻魔は命じる。
「……都合のいい事だな。問題のあるところだけを切り取って、捨てられるなんて、本当に思っているのか?」
閻魔王の眉間のしわは消えた。二人の人物の顔は対照的だった。ヤマは、怒りと、嫌悪と、嘲りをむき出しにし、閻魔は、冷静さと、冷徹さと、彼なりの公平さをもって無表情を努めていた。同じ存在でありながら、まったく正反対だった。
「今度は封じはしません。ただ無に帰すだけです」
「馬鹿がよ、お前は今回の事が何故引き起こったのか分かっていないのか? そうやって、自分の中の汚いもんも恥ずかしいもんも人間らしい感情も、全てなかった事にしようとするから悪いんだ。お前は捨てたものをまた、思い出してしまう」
閻魔はかつて人間だったのだ。一度感情を失っても、また、人らしい思いが芽生えてしまう。そう、そのために、ヤマは新たに動く事が出来た。何が切っ掛けかは分からぬが、閻魔の感情の動きがヤマの自由を手に入れる取っ掛かりになった。感情は自然に生じてしまうものなのではないか。であれば、閻魔がヤマを消したとしても、また次のヤマが生まれてきてしまうのではないか。ヤマ自身はそうだと気がついているのだ。
何れにせよ、閻魔王は自分の醜いものから逃れられないという訳だ。
なんという滑稽な連鎖だろう。ヤマを捨てた閻魔がヤマとその次に控える彼に翻弄される。この上ない愉悦ではないか。捨てた抜け殻に牙を剥かれるなどと。
「――今回の事は、以前お前をきちんと消してしまわなかった事が問題だったのです。これで、私は感情とのつながりを絶てる」
「本気で言ってるのか」
閻魔はもう、答えはしなかった。話し合う余地などない。ヤマはとっくにそれに気づいていた。真に感情を消し去ろうとする閻魔の顔には、慈悲などという言葉もヤマを見逃すという意思も見当たらなかった。苦々しい顔をしながらも、ヤマはにやと意地悪そうに笑った。軽薄で、虚無的な笑み。
答えない代わりに、閻魔は真っ白な顔で右手を体の脇から少し離した。青白い光を生んで、顔を更に青白く染めながら、手の中に両刃の剣を呼び出した。
ヤマは不遜に笑うと、ぎらついた瞳で閻魔を見据える。左腕を体の横に伸ばすと、左手の中に黒い槍を召喚して強く握った。全て真っ黒な槍だった。それをかつての自分に向けると、あの澄ました顔を苦しみに歪めてやろうとそれを振り上げた。




